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公開予定のページ 長保寺のホームぺージは、1996年に開設されました
今年は、開設20周年にあたります
最初から現在まで、すべて手作りです1996年は、インターネットが一般開放された年です
僕は、最初は、ダイヤルアップで大阪につないだパソコン通信を使っていましたホームページは1996年にPC-VANにMojiraで作ったのが最初です
htmlは、ほとんど手書きしました
そこから、長い年月ですよ長保寺のホームページ開設20周年にあたり、大幅なリニューアルをすることにいたしました
全面リニューアルしようと思いましたが、20年間で作り続けたページが約1800ページあり、断念いたしました(^^;;思えば、長いこと作り続けてきました
インターネット事情は、20年前と今では、隔世の感があります
インターネットの無い生活は、もはや考えられませんまだまだ、これからも作り続けますので、よろしくお願いいたします
リニューアルして、新たに公開する予定のページです
まだ、テスト中ですBeta test 0201、のページはこちら
http://www.chohoji.or.jp/betatest.html(Beta版ですので、レイアウトや内容は、予告なく変更される場合があります)
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「色即是空 空即是色」
般若心経で最も有名な一節です様々な啓示宗教は、人間の側から神を語ります
人は神にはなれない、ことになっていますから仏教は、空の側から人間(色)を見ることを求めています悟りの境地と言うこともできます仏が、この世界を見たら、不生不滅不垢不浄不増不減に見える、と般若心経の世界観によれば、五蘊・十二因縁・四聖諦は脳内世界で、実在しません空の側から見れば、苦集滅道(四聖諦)は、不生不滅不垢不浄不増不減です人間の存在に、空が落とし込まれると色になり、因果に束縛されます苦しみ(苦)には原因(集)があり取り除く(滅)方法(道)があるこの因果の法則を超越した世界が、つまり空です「照見五蘊皆空 度一切苦厄」
これは、般若心経の冒頭の一節です般若心経は、空の側から説かれていますコメントを表示
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これが、無料ソフトですからね恐れ入りますDavinci Resolve12.2は最初から日本語化されてますOlympus OM-D E-M5Ⅱ FHD All-Intra 24pで撮影YouTubeにFHD 24p 8Mbpsでアップロード初めて使うので、十分使いこなせていませんがDavinci Resolveを使用したほうが、グラデーションが深くなるようですグチャグチャにならないよう夢中で調整してて、今日は鐘をつくのを忘れました(^^;;撮影するのも面白いですが、ソフトのパラメーターをさわるのも、ハマりますねDavinci Resolve 12.2 使用Power Director 14 使用
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グリップを付けた状態 Olympus OM-D E-M5 Mark II用のグリップです
持った感じ、ツルツルして、ちょっとすべりますね
中国からの航空便です
1月4日にAMAZONで注文して、1月18日の到着予定で、1月13日に届きました
納品書とか型番を書いた書類とか、入っていません高精度でぴったり装着できます
付けたまま電池を取り換えられます
ねじ穴は、きちんと光軸上にあります
横のプレートは外せます
大きめのレンズを付けると、ちょっと隙間がせまい
アルカスイスの規格のプレートに、ガタつかず入りますAMAZON
No1accessory LLX-SSEM5M2-01 ブラック 金属製 L型クイックリリースプレートブラケット ハンドグリップ Olympus OMD EM5 Mark II M2 用 Arca-Swiss標準に対応長保寺のホームページ
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All-Intraの切り出し画像 SFの切り出し画像 録画ファイルはAll-Intraのほうが大きいので、情報量が多いのでしょうけれど
違いがわからん(^^;;YouTubeにアップロードする規格(1980×1080 23.976p 8Mbps MP4)で書き出すなら、特に編集上の都合がなければSFで十分だと思います
ハードディスクの節約にはなります使用カメラ
Olympus OM-D E-M5 MarkⅡ
バージョン2.1レンズ
ZUIKO DIJITAL 12-48mm F2.8 PROWB AUTO、動画Flat、ISO200、絞り優先F5 SS1/60 +1.3
三脚使用、ピントマニュアル左側をFHD_24p_All-Intraで撮影 ファイルサイズ456MB
右側をFHD_24p_SFで撮影 ファイルサイズ304MB
撮って出し編集 Windows10
PowerDirector 14
1980×1080 23.976p 8Mbps MP4で書き出し長保寺のホームページ
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使用カメラ
Olympus OM-D E-M5 MarkⅡ
バージョン2.1レンズ
ZUIKO DIJITAL 45mm F1.8ND8フィルター使用
WB AUTO、ISO200、絞り優先F1.8
手持ち、ピントマニュアル
FHD_24p_SFで撮影編集 Windows10
PowerDirector 14
通常Flat、Natural、無調整動画用Flatは撮って出し
1980×1080 24p 8Mbps MP4で書き出し長保寺のホームページ
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「真田幸村と戦国わかやま物語」でご紹介いただきましたNHK大河ドラマ「真田丸」に関連したリーフレットです真田幸村と和歌山について紹介されています
元和元年(1615)大坂夏の陣がおこった時、14才の後の紀州初代藩主頼宣(よりのぶ)は初陣であったが合戦に間にあわず手柄をたてられなかったことを残念がる。
その姿をみた松平正綱が、「今日の合戦に間に合わなかったからといって、そんなに口惜しがらなくとも、殿はお若いから今後幾度も機会があります。その時いくらでも手柄をたてることが出来ましょう。」と慰めたところ、頼宣は正綱をにらみ、「わしに14才が2度くるか。」と言って父家康を感激させた。こうして家康の寵愛を一身にうけたと伝えられる。 藩祖 徳川頼宣 木国文化財協会・会長 西本正治 より兜についている角のような飾りを「立物 たてもの」といいますが、この兜は、後ろについています
後ろに従う武将に見えるようにすることで、一番先頭を走る大将である、ということを強調した立物といえます
もちろん、前から見た者は、みな打ち取られるということですコメントを表示
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ハクバ サンクリップⅢ KCL-3
クリップの内側には0.5mmくらいの薄いゴムがはってあり、はさんだものに傷がつきにくい工夫がされています
クリップは電球と大きさを比べるとわかりますが、けっこう大きいです
電球ソケットの付け根はグルグルと可動式です
電源コードの中ほどにスイッチがついています
日本製のようですハクバの製品ページ
http://www.hakubaphoto.jp/products/detail/0101930061-4H-00-00パナソニック LED電球色 60w
好みもあると思いますが、人肌を血色よく写すのに電球色にしてみました
アルミホイルとかトレッシングペーパーとかも、LEDで比較的熱くならないですから、ちょっとした撮影なら、適当に巻いて使うこともできると思いますこれを2灯左右で光らせます
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銅鋳香炉朱漆香台(香炉)縦21.9 横46.0 高48.5(香台)縦45.9 横64.3 高60.3
享保10年(1725)
香炉は、鋳銅製で葵紋の金板を蓋と身の側面に貼りつけている。蓋のつまみと四脚にそれぞれ獅子の意匠を用いる。
朱漆塗の香台とともに、黒漆塗の箱に収納するようになっているが、その箱の蓋裏書によれば、将軍吉宗が享保10年に長保寺内の南竜院(徳川頼宣)の霊前に寄進した旨が記されている。吉宗は将軍に就任したため、紀州藩廟所である長保寺ではなく江戸の上野・寛永寺に葬られることになるが、この資料は将軍就任後も相変わらず吉宗が長保寺との関わりを保っていたことを示している。なお古文書によれば、この香炉は江戸から直接運ばれてきたものである。
将軍吉宗が享保10年(1725)に長保寺内の南竜院(初代藩主徳川頼宣)の霊前に寄進したものです。質素倹約をすすめる吉宗が、将軍になってから寺院になにか物を寄進したのは、この香呂だけです。吉宗にとって格別の意義のあることがわかります。吉宗が将軍になって10年目の享保10年頃に、大赤字で引き継いだ江戸幕府の財政が享保の改革によって黒字に転換していきました。南竜院は吉宗から見て祖父にあたります。危機に瀕した幕府を立て直すめどがついたことを、尊敬する祖父に報告したのでしょう。南竜院が紀州藩主となったのは、気性の激しさから、江戸のそばに置いておいてはいけない、という判断もあったとされています。戦国時代が終わり、手柄を立てる場を失い浪人となった武士達が起こした「由井正雪の乱」の黒幕と疑われたのも、最後の戦国大名と言われた胆力が恐れられてのことでしょう。長保寺には南竜院の墓参の時の衣服が伝わりますが、丈164.6 桁101.5 袖丈78.8とかなりの大男であったことが偲ばれます。
南竜院は徳川家康の第10子にあたりますが、家康59歳の時の子で、最も可愛がられたと言われています。関ヶ原の合戦の次の年、家康が相次ぐ合戦から解放され、家族とともに過ごすことができるようになった時に生まれました。18歳の時まで家康の手元で養育され、その生誕から成人まで、家康が晩年の持てる全てを注ぎ込んで養育した子です。家康、南竜院、吉宗と繋がる徳川家の精神の濃厚な継承を証明し、吉宗が将軍となることの正当性を物語るのが、この香呂です。コメントを表示
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