2013back

  1. VILLA DEL SOL

    VILLA DEL SOL(太陽の館)
    徳川頼貞によって命名された洋館です
    現在ホテルになっていて、先日、宿泊してきました
     
     

    玄関の上のステンドグラス
    南龍公の馬印の三鍬形紋がデザインされています
     
     
    元々は、南葵文庫として明治時代に紀州徳川家によって建てられた私設図書館でした
     
     
    明治6年に江戸城本丸が炎上し、明治天皇が焼け出されてしまった時に、当時紀州徳川家の上屋敷であった赤坂邸(現在東宮御所のある赤坂迎賓館一帯)を天皇家に献上し仮御所とし、紀州家は麻布飯倉に引越しました
    その飯倉に徳川頼倫によって建てられた西洋式図書館が南葵文庫(明治32年)です
     
    大正12年関東大震災で東京帝国大学図書館が壊滅的被害を受けた時に、復興のために南葵文庫の蔵書は全て寄贈され、大正13年に南葵文庫は閉鎖されました
     
    南葵文庫の裏手にあった一畳敷の茶室は、現在、三鷹の国際基督教大学に「高風居」として移築されて残っています
     
    南葵文庫の建物の一部は、当時の紀州徳川家の大磯の別邸に移築され、その時に徳川頼貞によってVILLA DEL SOLと命名され別邸とされました
     
    その後、この別邸は野村徳七(旧野村財閥、現在の野村證券の始まり)の手に移りましたが、昭和50年に老朽化が進み、取り壊されるところを、熱海の温泉旅館「蓬莱」の古谷女将によって、大変な努力の末に昭和62年に旅館の別館として移築復元されました
     
    復元の前と、復元竣工の時に、女将さんを中心に再建にかかわった方たちで長保寺をご参拝いただきました
     
    高級ホテルとして営業を継続し、去年には国の「登録有形文化財」に指定されましたが、現在、星野リゾートグループになり、改めて利用継続されていて、皆様もご宿泊いただけます
     
     
     
     
     

     

    入り口の外観
     

    創建当時の雰囲気を残したロビー

    食器にも三鍬形紋(大倉陶園製)
     
    すぐ近くに1300年前に発見された、熱海の源泉があります
     
     
     
     

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  2. NOV
    3
     

    第一回 長保寺 御霊屋コンサート

    平成25年11月3日に長保寺の御霊屋(おたまや)で、十夜会(じゅうやえ)の後、ミニコンサートを行いました

    こちらどうぞ
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  3. OCT
    31
     

    十夜会のご案内

    例年のとおり、有縁の皆様の御精霊をお迎えして、念仏供養の法要をおこないます
    十夜会(じゅうやえ)という名称は、古来は十日十夜にわたって法要がおこなわれた名残です
     
    本年は、試みとして、歌の奉納もあわせておこないます
    歌は、3曲位を予定しております
     
    皆様どうぞお参りください
     
     
     
    • 十夜会(じゅうやえ)のご案内
    • 日  平成25年11月3日(日) 午後3時より
    • 時  午後3時より法要 休憩の後 3時半過ぎごろより歌の奉納
    • 所  長保寺 御霊殿(おたまや)
     
     
    (歌 瑞樹比美香 信濃国分寺 2011.7.17)
     
     
     
     
    御霊殿の荘厳の一部
     
     
     
    現在、長保寺の御霊殿(和歌山県指定文化財 寛文六年建立 1666)は一般公開されておりませんが、十夜会当日だけ、内拝できます
    この機会に、是非ご参拝ください
     
     
     
     
     
     

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  4. SEP
    24
     

    大阿様が亡くなりました

     

    回峯行を2回行満された酒井大阿闍梨様が亡くなりました
    ご冥福をお祈りいたします

    実は、酒井大阿闍梨様は一度長保寺にいらっしゃってます
    一回目の回峯を行満された後、護摩の研修会が長保寺であり、講師でいらっしゃいました

    その時、履いてきた草鞋が残されています
    やや小ぶりですが、がっしりした作りの行者用の草鞋です

     

    読売新聞

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  5. SEP
    7
     

    大塚国際美術館

    鳴門にある、大塚国際美術館に行ってきました
     
    陶板で複製した原寸大の西洋絵画が、広大な美術館に、時代を追って約1000点展示されています
     
    一周するのに3時間かかりました
    館内は撮影OKです
     
     

     

     
     

    実は、長保寺の大門の前にある案内板は、平成7年五月に、この大塚で作った陶板です

    下津の戸坂で採れた青石に、はめ込まれています

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  6. AUG
    26
     

    智恵の心

    「諸法は空を相とし、生ぜず滅せず、垢つかず浄ならず、増さず減らず」

    とまあ、般若心経には書いてあります
    これを、「時間も空間も質量も無い」という意味で理解しておきます

    で、これ
    「時間も空間も質量も無い」から、勝手気ままで、自由自在で、やりっぱなし、ということになるかというと、そうでもないのです

    問題は「諸法は空を相とし」という部分です

    「諸法」とは自然界の法則とでも言いましょうか、因果応報の理ですね
    それが、厳然として、「空」の前提になっています

    たとえば、自然科学における真理の探究や、経済学における社会法則の発見などは、つまりは、般若心経における「諸法」の探求とも言えます

    このへんは、物理学の量子論が極めて示唆的ですが、ややこしくなるので、ご興味のある方はこちらをどうぞ
    仏教のロジックと物理学との接点

    ガリレオが振り子の等時性を発見したとか、現代の最先端の科学研究も、まさに「諸法の空の相」の探求とも言えるのです

    ピサの聖堂にあるガリレオのシャンデリア
     

    で、人間は、この「諸法」に束縛されて、生まれ、生活し、死んでゆくのですが、この「諸法」には「時間も空間も質量も無い」という特徴があるので、束縛されているようで、じゃ、いったい何に束縛されているのかというと、束縛するのもが無いという理屈になってきます
    これがですね、我々に自由意志がある、という言い方にもなってくるのです

    でも「諸法」に従って、我々は生きているのです
    たとえば、ガスレンジの上に水を入れた鍋をおけば、大人でも子供でも、老若男女、イスラム、キリスト、仏教、白人、黒人問わず、だれでもお湯を沸かせます

    人間に自由意志があり、自然界の法則が厳然としてあるわけですから、それを、諸法を自在に利用することができる、というふうに言ってもよいのではないでしょうか

    まあ、屁理屈の積み重ねのように聞こえるかもしれませんが、お釈迦様はインドの霊鷲山(りょうじゅせん)で、般若心経を説いて「一切の苦厄を度した」わけです
    それは、一瞬にして、全てがバラ色の極楽世界に様変わりしたわけではなく、「必ず問題を解決することができる」ということを言っているのではないですか

    今風に言えば、智恵で科学法則を利用して苦しみや災厄から逃れることができる、と解釈することもできるわけです

    もちろん、老いや不治の病があって、いずれは死を免れないとしても、「時間も空間も質量も無い」智恵の心が我々にはあるのだから、いつまでもくよくよする事は無い、ということにはなりませんか

    図解 般若心経

     

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  7. AUG
    24
     

    なにを思うか

    昨日の「心を生きる」続きです

    心の重点が「空」に置かれていれば、生も死も無い

    まあ、このようなことを書いても、ああそうですか、で終わってしまうと思います
     
     
     
    あなたが今、この文章を読んでいるとき、僕はパソコンの前にいるか、昼寝をしているか、飯を食べてるか、いずれにしろ、どこかで何かをしています
     
    実は、あなたから見て、僕は「空」の中にいます
     
    これを今読んでいらっしゃる、あなたは、僕から見れば「空」の中にいます
     
    とにかく、感覚器官で脳内に結像するまでは、一切合切、すべて「空」です
     
     
    ですから、会社に出勤したり、学校に行ったり、買い物にいったりしている家族も、留守番をしている側から言えば「空」になっています
     
    で、脳によって結像した「色」ですね、つまり、普通に見たり聞いたりといった感覚は、脳の作り出した「顛倒夢想」です
     
    ですから、普通に生きている我々は、実際のところは、「空」のなかで時間、空間、質量のない世界で生活してることになります
    時間、空間、質量が無いのですから、生きるでも死ぬでもなく、有るでも無いでもなく、一でも多でもなく、暮らしてるということです
     
    地動説と天動説の違い、とでも言いましょうか
     
    脳内世界が夢想で、感じる前の世界がリアルな世界、という発想をすれば、不生不滅、不垢不浄、不増不減の「空」の中で、我々は、生きるでも死ぬでもなく生活してることになります
     
    「そんなこと言っても、人は死ぬじゃないか」
     
    とまあ、そうなんですが、感覚器官が燃え尽きてなくなってしまっても、「空」は有るでも無いでもなく、そのまんまです
    ですから、時間も空間も質量も無い「空」の中で、我々は、そのまんま、ということになります
     
     
    前世とか輪廻転生とか、あの世とか、言いますが
    正確には、時間も空間も質量も、有るでも無いでもないのですから、まあ、「空」ですね
     
     
     
    そういうことになると、先ず何が大事かと言えば

    なにを思うか」ではないでしょうか

    感覚器官の中での我々は、死ぬこともあれば、病気や老衰もあるのですが、「空」の中では、なんら制限がありません
    ですから、勝手気ままではあるのですが、そこは「空」には垣根が無いので全てと繋がっていますから、なにもかもバレバレでもあるし、因果応報でもあるわけです

    とにかく、なにかする前には、なにかを思うわけで、特に心の世界ですから「思い」は大事です

    「思い」を完成させた、先を歩いている先達も想定されるわけですが
    それを、菩薩とか仏とか呼ぶのです

    「思い」を大切にして歩み始めれば、あなたは初心の菩薩です

    時間はたっぷりありますから(なにしろ、不生不滅ですから)どのような「思い」も、いずれ必ず成就します
    わかりにくく言うと、時間の無い世界から、「思い」を成就したあなたが、今のあなたを導きます

    ま、そこまで飛躍しなくても、「思い」から初めてみてください

     

     
     
     

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  8. AUG
    23
     

    心を生きる

    般若心経に書かれている、不生不滅 不垢不浄 不増不減、なのですけれど

    生滅 垢浄 増減、が無いという意味ですよね

     
     
    ありのままの世界(ここでは空)を感覚器官を通じて感じて、脳内に自分なりの世界をつくり出しているのです(五薀、十二因縁など)
    その、生滅 垢浄 増減、といったことは、脳内で作り出された、「顛倒した夢想」であると、般若心経には書かれているわけです
     
    生滅が無いということは、時間が無いということになるわけです
    時間も脳内の産物だと
     
    垢浄が無いということは、まあ、美醜とか、要は形が無い
     
    増減が無いということは、得るものも失うものも無いということになります
    と同時に、質量も無い
     
    時間、空間、質量が無いのが、ありのままの世界であると
    でも、それを、感覚器官で感じると、時間と空間と質量になる
    そして、時間、空間、質量は顛倒夢想でしかない
    ま、理屈では、そういうことです
     
    それでは、その「ありのままの世界」である「空」とはいったいどのようなものであるのか
    これ、説明したら、それは「空」ではないわけなので、厄介です
     
    ヒントは、六神通ではないかと思います
    天耳通 天界の声を聞く 動物と話す など
    天眼通 天界を見る 他人の過去世を見る など
    他心通 他人の心の動きを知る など
    宿命通 自分の過去世を知る など
    神足通 遠隔地にあるものに触る など
    漏尽通 自分の煩悩が尽きたのを知る など
     
    つまり、時間、空間に妨げられずに物事を感じることができたり、人や動物の心の垣根にも妨げられずに、相手の思いを感じることができる能力です
     
    これをお読みのあなたも、はっきり自覚していないかもしれませんが、多かれ少なかれ、この能力を持っています
     
     
    さて、「空」とは絶妙な言葉で、垣根や制限、区別が一切無い心の状態ということです
     
    で、我々は、この「空」を常に感覚器官で感じて生きています
    逆に言うと「生きる」という言葉の定義は、「空を感覚器官で感じる」ということになります
     
    では、死とは
     
    感覚器官の活動が止まりますね
    肉体は失われます
    ですが
    心は時間、空間、質量の無い世界で「空」のままです
     
    心を澄ますと「空」が感じられます
     
    そんなの無理だ、などど決め付けないでください
    簡単なことです
    あなたが眼をつぶっても、世界はなくなりません
    感覚器官を閉ざしても、世界はそこにあります

     
    あなたは、感覚器官ではなくて、心を生きているのです
    それに、目覚めるだけです
     
    心の重点が「空」に置かれていれば、生も死も無い、ということです
     

     
     
     
     
     
     
     

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  9. AUG
    20
     

    高砂ユリ

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  10. AUG
    10
     

    パンテオン

     
    今回のイタリア旅行の最大の目的は、パンテオンをこの目で見ることでした
     
    最初のパンテオンはB.C25、初代ローマ皇帝アウグストゥスの側近のアグリッパによって建造され、一度焼失した後にA.D118にハドリアヌスによって再建されました。
     
    ローマ国内全ての神を等しく奉るため、内部を円形にし壁のくぼみに神々を奉り、中心の空洞部分に人間が立つ構造の神殿でした
     
    古代ローマ人の、人間中心に全ての神を敬う世界観が表現されています
    これは、日本人の八百万の神々を敬う世界観にも通じる、と言えるのではないですか
    ローマ帝国を創った古代ローマ人は、日本人と同じ多神世界を生きていたのです
     
    「全ての神々を等しく敬い、自分を信じる」
    これがローマ帝国の精神の基本です
    現代の日本人は、この精神の一番近くにいると言えますね
    そして、この寛容の精神が、これからの世界にどうしても必要だと思われませんか?
     
     
    7世紀頃に一神教のキリスト教会に改装されてしまいました
     
     

    拡大すると、現在の内部の使用状況の説明が読めます

    巨大な、美しいドームを、2世紀に建造しているのです

    正面はキリスト教の祭壇にされてしまっていますが、キリスト教の世界観からは、この円形ドームは生まれないのです

     

     ドームの中央の床には小さな穴が開けられて、雨水が溜まらない工夫がされています

    ドームの天井中央は円形に空けられていて、空が見えます
    古代の明かり取りの工夫でしょう

    僕など、密教の月輪観を連想してしまいますね

     

    この神殿が、古代ローマ世界にとって極めて重要だったのが、堂々とした姿から感じられますね

    パンテオンの中心
    http://www.chohoji.or.jp/archives/200711.htm#a

    イデア
    http://www.chohoji.or.jp/houwa/tetugaku.htm#a

     

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  11. AUG
    9
     

    ローマ

     
    修復中の凱旋門

    トレビの泉
     
    スペイン広場
     

     
    フォロロマーノ

     
     
    ベネチア広場の警察官

     
     
    路地

     
     
    野良猫
     
     
    道路清掃車

      

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  12. AUG
    8
     

    バチカン

     
    バチカン市国のスイス人衛兵  ミケランジェロのデザインです
    広場 右の四角い建物が教皇の住まい

     
     
     
     中央ドーム
    キリスト教建築は光の使い方が上手です
    大聖堂は歴代教皇の廟所でもあります
    地下に歴代教皇が眠っています 
    こちらは、イノケンティウス11世  ミイラ状にしてあるようです

    仏教では、廟所は廟所で、お堂はお堂ですね
    どういう考え方だと、こういうことになるのか、考えさせられますね

    いちばん奥にあるのが聖ペテロの椅子
     
     
     
     
    広場を出た所の土産物屋
    写真を撮るなと言われましたが、聖堂内の撮影がいいんですからね
    店員の愛想は、イタリアはどこでもこんな調子です
     

     

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  13. AUG
    7
     

    イタリア ピサの斜塔

    ピサは城壁で囲まれています
    13世紀になるまで、ジェノバやベネチアと覇権争いをしていた名残です
    イタリア統一は1861年ですから、それまでは一つの国だったのですね

    ピサといえば斜塔ですが、立派な洗礼堂と聖堂があります

     

    洗礼堂 これが、微妙に傾いているんです
    一帯の地盤がゆるいのです
    聖堂と斜塔

    この塔が、傾いていなかったら、世界的に有名になったかどうかは、わからないわけです

    聖堂の内部   じつに立派なのです

    見にくいですが、中央部に釣り下がっているのが、ガリレオが「振り子の等時性」を発見したと「言われている」灯篭です

     
     
     
    聖堂正面
     

    洗礼堂内部

     
     
     
    「聖堂」「洗礼堂」「鐘楼」の配置
     
     
     

    ここでも「聖堂」「洗礼堂」「鐘楼」で3点セットになっています
    教会建築の3役ですね
     
    お寺の場合は、3役といえば「本堂」「大門」「仏塔」となります
    キリスト教との違いで特徴的なのは、「大門」に扉がないことですかね
     
    長保寺 大門
     
    キリスト教は洗礼をうけることが信仰の必要条件になりますが、仏教は門が開かれています
     
    唯一の神を信じる立場と、諸仏諸菩薩を信じる立場の違いが、はっきりと建築様式に表現されています
     
     
     
    ピサのジェラードの屋台
    イタリアでは、どこでも、やや愛想が悪いです
    東洋的な微笑みは、無いですね
     
     
     
     
     

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  14. AUG
    6
     

    フィレンツェ ウフィッツィ美術館

    ウフィッツィ美術館は内部の撮影禁止ですから、ご紹介できる画像がありません
    フィレンツェはルネサンス発祥の地で、レオナルド・ダビンチもフィレンツェ出身ですから、土地の雰囲気が自由だったのだろうと想像されます
     
     
    ウフィッツィ美術館の入り口
     
    ミュージアムショップで買ったコップ
     
    ミュージアムショップで日本語の図録があったので買ったのですが、10カ国語くらいあったと思います
    とにかく図録売り場が本屋のように大規模で、笑ってしまいました
    それだけ収蔵品が凄いということですね
     

    ウフィッツィ美術館から眺めたベッキオ橋

    フィレンツェの夕景(午後9時ごろです)

    街の美しさ、という尺度を日本人は忘れてしまっていますね
    それがなんぼのもんじゃ、と言われそうですが、「観光」はもちろんですが、「生活の質」と結びついているように思いますね

    美術館前の広場には

    物乞い
     
     
     
     
     観光馬車
     
     
     
     広場のど真ん中に、なぜかゴミ収集車

    のどかです

     

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  15. AUG
    5
     

    イタリア土産

    フィレンツェのスーパーで買い物をしてみました
     
    スーパーの入り口 ホテルの向かいがスーパーです
    イタリアは、店舗の入り口が、日本に比べれば地味です
    町の美観には、このほうがよろしいかと思いますけどね
     
    入り口の右に坐っているのは物乞いの人です どこでもよく見かけます
     
     
    中はこんな感じ
     
     
    スナック菓子の主流は甘いチョコレート系です
    夏場、日本にもって帰れませんので、クッキー系を買ってみました
     
    どれも、けっこう固いです

     
     
     
     
    オリーブオイルは、棚から減っているのを選んでみました
    村々で独自のブランドを作っていて、村の数だけオリーブオイルがあるといった感じです
    作り方にも徹底的なこだわりがあるらしく、ワインの製造に似ていますね
     
    棚から比較的減っていましたので、たぶん、売れ筋だと思います
    どれも5ユーロ位です

     

     

     

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  16. AUG
    4
     

    フィレンツェ サンタ・マリア・デル・ フィオーレ大聖堂

    サンタ・マリア・デル・ フィオーレ大聖堂とサンジョヴァンニ洗礼堂
    右の塔が鐘楼です
     
    「大聖堂」「洗礼堂」「鐘楼」がキリスト教建築の三役のようです
     
     
     
     
     
    写真だとわかりにくいですが、手前の八角形の建物が洗礼堂で奥の丸いドームが大聖堂です
     
    上から見るとわかりやすいです
     

      




    右が大聖堂で左が洗礼堂です

    洗礼堂でキリスト教に入信する洗礼を受けて、それからでないと大聖堂に入れない、といった時代もあったそうです

    実際に行ってみると、キリスト教の仕組みがよくわかります

    大聖堂の入り口   外観だけ観光しました

    洗礼堂の扉
     
    実はこの扉はレプリカで、茂登山長市郎さんという日本人が復元の費用を寄付しました
     
     
    「天国の門」
     
    キリスト教では洗礼を受けなければ、キリスト教徒とは見なされません
    イタリアは特に、イスラムと近くで対峙していましたから、強くこだわることになったのだと思います
     
     
     

    広場の土産物屋

     
     
     
     

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  17. AUG
    3
     

    フィレンツェ 駅

    これはフィレンツェの駅です
    改札口がないのがヨーロッパスタイルらしいです
     

    切符の販売機
    切符を買わないで乗ると、たいへんな罰金があるそうです
    文化の違いですかね、のんびりしてるように感じますね

    駅の売店
    ちょっとした土産物なども売っています

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  18. AUG
    2
     

    灯明会のお知らせ

    長保寺 灯明会
     
    8月15日(木)午後7時より
     
    長保寺参道に灯明をお供えし、ご先祖の冥福を祈ります
     
    提灯を8月13、14、15日の三日間
    ご供養のため点灯いたします
     
    売店の夜の営業は15日だけです
     
     
    霊名提灯 1000円

    提灯は200で締め切りです 先着順に受け付けさせていただきます

     
     
    〒649-0164海南市下津町上689  073-492-1030 長保寺
     
     
     

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  19. AUG
    2
     

    本場のイタメシ

    昼食は量が多いです
    イタリアでは、昼食が一日の主食らしいです
    3皿出ます
    前菜、主食、デザートといった順序ですが、前菜がパスタ大盛りが普通のようです
    和食のような、繊細さ多彩さはないです
     
    スープといったものは、ないです
     
    サラダのドレッシングは、オリーブオイルと塩だけ
    これがいける
    我が家では、オリーブオイルをお土産に買ってきて、食卓に取り入れました
    イタリアのオリーブオイルが軽いんですよ、さっぱりと
     
     
    これは、ベネチアの昼飯
     
     

     
     
    パスタは、日本人の感覚から言うと、かなり固め

    塩分は、どこに行っても大目です

    デザートの甘さもかなりきつく、まあ、全体に大味かな

    盛り付けの美観は、気にしてないようです

    ざっくりと、気取らないのがイタリアンの本場みたいですね
     
     
     
     
     

     フィレンツェの夕食
     

     パスタの後に、肉皿が出るので、毎回食べるのがたいへんでした

     野菜系は少ないですね
    デザートにスイカが出ましたが、果物もめずらしいです
    ナイフで種を取って、かぶりつくという設定のようです

    フィレンツェの昼飯

    ぶっきらぼうに、スプーンが刺さっていますが、ヨーロッパではよくあるスタイルらしいです

    フィレンツェの夕飯

    典型的な3皿です どこでも、このパターンです
     
     
    ローマの昼食

    パンにオリーブオイルとバジルとトマトだけですが、おいしかったです
    オイルがいいんですね

    生地が薄いので食べれます

    ローマの夕食

     
     
     
     

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  20. AUG
    1
     

    ベネチア 現地ガイド

    ベネチアの現地の日本語観光ガイドのイノッキ(仮名)さんです

     
    この格好で、くわえタバコをふかしながら、ガイドをします
    まあ、イタリアンスタイルなのでしょう
     
    格好からは、連想されませんが、ベネチアという土地に、強烈な自信とプライドを持っています
    イタリアでは標準的なのでしょうが、かなりの上から目線です
    観光客に媚を売れば、それが観光になるかというと、そうでもない、という良い例です
     
    ベネチアングラスのみやげ物屋 日本語で説明してくれます
     
    ガイドさんは、それぞれ自分の縄張りの店があるらしく、ベネチアングラスの店や、レース屋など、連れまわします
    程々であれば、興味深くはあります
    大航海時代に、海洋貿易の覇権をスペインやイギリスに奪われてから、ベネチアはベネチアングラスやレース編みといった工芸品に活路を見出したそうです
     
     
    カーニバル用のマスク かなり高価です
     
     
     
    街角の公衆電話
    イタリアンなデザインです
     
     
     
     
     
     

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  21. JUL
    31
     

    イタリア トイレ事情

    イタリアの観光地では、全般にトイレが少ないし、快適ではありません
     
    ドアの建て付けが悪くて中に閉じ込められる(実際にありました)
    水が流れない、など、しばしばあります
     
     
    これは、ホテルの部屋のトイレ ホテルではこんな感じが普通です
    バスタブが無く、シンプルです
    たしか、ここはイタリアの四星ホテルです
     
     
     
      ベネチアの船着場のトイレ
     
    有料トイレを見たのは、ここだけでした
    ここに、叔父さんが立っていて、お金を入れたりサポートしてました
    中は水洗ですが、ホテルほど綺麗ではないです
     
    思うに、日本のトイレは、今や世界一でしょう
    ウォッシュレットがあるのは日本だけですし
     
     
     
     

     

     

     

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  22. JUL
    30
     

    ベネチア サン・マルコ寺院

     
    海から見たベネチア中心部

    ベネチアは島ですから、周囲は海です
    現在では橋もありますが、船で渡るのも情緒があります

     
    ベネチアといえばゴンドラですが
     
     
    忘れてはならないのが、サン・マルコ寺院です
    ベネチアには、一日5万人の観光客があるそうで、サン・マルコ寺院に入るには長い行列に並ばなければなりませんが、現地ガイドを手配すれば別の入り口から並ばずに入れます
     
    天井は黄金で覆われ、キリスト教を題材にした絵画で埋め尽くされています 

    ベネチアの栄華がわかります 
    正面の祭壇 聖マルコ(「マルコによる福音書」を書き記した聖人)の遺骸があります
    「マルコによる福音書」では、福音書の中で唯一、イエスが「マリアの子」であると記述されています
     
     
     
     
    カトリックでは、キリストが磔刑になって復活してからは、教会を拠り所にしなければならないという立場ですから、必然的に、富と権力を注ぎ込んで立派な教会を建てるという考え方になります
    イタリアは19世紀に統一されるまで、地方国家が分立していましたから、各地に特色のある教会が建設されました
     
     
     
     
     
     
     

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  23. JUL
    29
     

    イタリア旅行に行ってまいりました

    6日間の日程でイタリアに行ってまいりました

    念願の、パンテオン、バチカン、ベネチア、ウフィッツィ美術館など行くことができました

    関空からアリタリア航空エアバスA330-200
    客室乗務員には日本人もいて快適です

    行きは13時間、帰りは偏西風に乗って11時間
    行きはロシア上空を飛び、帰りはロシア、中国、韓国の上空を飛んだようです
    北朝鮮上空は避けます
    平和な空であって欲しいですね

     

    バチカン大聖堂内部
     
     
     
    映画「天使と悪魔」にバチカンとローマの町がたっぷりと登場します
    実際に行くと、また一層映画に引き込まれます
    「バチカンの権威」がヨーロッパ文明にとって極めて巨大でなければ、映画の主題が成り立ちませんね
    まあ、実際にバチカンに行けば、凄さがわかります
     

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  24. JUL
    14
     

    風蘭

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  25. JUN
    27
     

    次になにが来るか

    この本、お勧めします
     
     
     
     
    序章  リーマンショックがきっかけとなった世界経済の新たな潮流
    第1章 QE(量的緩和)が示唆する資本主義の歴史的転換
    第2章 「最強のアメリカ」復活で始まる新たな世界経済の秩序
    第3章 米国企業が空前の利益を生み出す背景
    第5章 力強さを取り戻した米国の経済指標
    第6章 株式相場と為替相場の新たなるトレンド
    第7章 うたかたの夢で終わった「中国覇権国」論
    第8章 米国のプレゼンス復活と世界経済の新たなるレジーム
     
     
    通貨は、「金本位制」から「管理通貨制度」、そして「証券本位制」に変化しつつある
    「シェールガス革命」が、アメリカの強さの根源になる
    生産性が向上したことによるヒト余り(失業)とカネ余り(低金利)の解消こそが、次なる成長の原動力
    ダウが10万ドルを目指しても不思議ではない
    巨大な矛盾を抱えた中国経済
     
    など、示唆に富んだ指摘が満載です
     
    次の一手を間違わないためにも、是非ご一読ください
     
     
     
     
     
     
     
     
     

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  26. JUN
    19
     

    今年のスモモが採れ始めました

    スモモ
     
     

    スモモの木は1本しかありませんが、あと、籠に10杯くらいは採れると思います

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  27. JUN
    18
     

    アジサイ

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  28. JUN
    16
     

    カシワバアジサイ

    カシワバアジサイ
     
     
     
     
     

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  29. JUN
    14
     

    タイサンボクと今咲いている花

     タイサンボク

     アジサイ

     アジサイ

     胡蝶蘭

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  30. JUN
    3
     

    ビヨウヤナギとアジサイ

     ビヨウヤナギ
     
     
    アジサイ

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  31. MAY
    19
     

    石斛と紫蘭

    石斛(セッコク)
     


    紫蘭(シラン)

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  32. APR
    15
     

    危険木の剪定

     

    資料館跡地に大きなイチョウの木がありましたが、根元からシロアリが入り、危険な状態でしたので剪定作業をしました

    根元に縦のスリットが入っているのがわかります

     

    ワイヤーで控えをとり、慎重に作業をすすめます
     
    倒れた瞬間 中が空洞でしたので、すぐに倒れました

    根元から3m位の高さまで空洞があります
    このままで放置していたら、極めて危険でした
     
     

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  33. APR
    11
     

    牡丹が咲き始めました

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  34. APR
    1
     

    4月8日 花祭り、大もち投げ

     
    4月8日に、恒例の花祭りがあります
    今年は、国宝大門、国宝多宝塔、重文鎮守堂の修復工事竣工を祝って、大もち投げ(例年より大目の餅を投げます)があります
     
    4月8日 
    午後2時半より 国宝修復工事竣工式
    午後3時より 花祭りの会式
    午後4時より 大もち投げ
     
    ==注意==
    「長保寺さくら祭り」は海南市観光協会主催で、長保寺の行事ではありません
    もち投げは無く、菓子投げが4月7日にあります     
     
     
     
     
    去年の花祭りのもち投げの様子
     
     
     

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  35. APR
    1
     

    3月の写真

    3月の写真のページを作りました
    写真をクリックしてください
     
     
    http://www.chohoji.or.jp/201303photo/index.html
     
     
     
     

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  36. MAR
    28
     

    桜にメジロの群れが来ました

     

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  37. MAR
    26
     

    長保寺さくら祭り ライトアップ始まりました

     
    国宝 長保寺大門
     ライトアップは本日より、4月10日までの予定です
    午後6時に自動的に点灯し、9時には消灯します

    NHKの取材がありました
    明日、午後6時10分に放送予定です
     
     
     

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  38. MAR
    25
     

    長保寺さくらまつり

     
    和歌山特報 平成25年3月21日

    下津町観光協会主催のイベントが4月7日に開催されます

    お問い合わせは
    ふじ観光 073-492-5155

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  39. MAR
    25
     

    3月25日の桜、五分咲きです 

     本堂周辺の桜
     大門の桜
    参道を舗装しました
     
     
     
     
     

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  40. MAR
    11
     

    ミツバチが飛び始めました

     ミツバチと菜の花

     オオハナバチと菜の花

    ミツバチと白木瓜
     
     
     

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  41. MAR
    2
     

    沈丁花が咲き始めました

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  42. FEB
    28
     

    2月の写真

    2月の写真のページを作りました
    写真をクリックしてください
     

    http://www.chohoji.or.jp/201302photo/index.html

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  43. FEB
    20
     

    普賢菩薩画像

     
     
    敬礼諸佛 称賛如来
    広修供養 懺悔業障
    随喜功徳 請転法輪
    請佛住世 常随佛学
    恒順衆生 普転回向
     
    普賢菩薩 別名は金剛薩埵(こんごうさった)
    仏教修行者は、皆、金剛薩埵であるとされています
    ですから、あなたも、どこかのお寺の檀家さんなら金剛薩埵です
    檀家でなくても、自分は仏教徒だと自認していれば金剛薩埵の資格があります
     
    金剛薩埵は色々な経典に頻繁に登場します
    永遠に生まれ変わりながら、各地の賢者を訪ね、仏教を修行し続けます
     
    衆生の心の中にある菩提心(ぼだいしん)を人格化した菩薩でもあります
    菩提心は仏教語ですが、向上心と慈悲心を合わせた概念です
    純白の月輪で表されることもあります
     
    釈迦三尊の脇時で登場する時は、普賢菩薩が慈悲の働き、文殊菩薩が智恵の働きを表します
     
    まあ、初心の金剛薩埵が我々で
    修行が進むと、この画像に描かれたような姿に近づくと考えておきましょう
     
     
     
     
    普賢菩薩像 一幅
     
    絹本著色 縦95.6 横37.5
    南北朝(14世紀)
     

    普賢菩薩像は文殊菩薩とともに釈迦如来の脇侍として釈迦三尊を形成する場合があるが、独尊の画像あるいは彫刻として造顕された遺例の方がむしろ量的には多い。これは、普賢菩薩が法華経信仰の広がりによって単独の信仰を集めるに至ったためで、ことに法華経が女人往生説を説くことからもいっそうの流布をみたと考えらている。 
    妙法蓮華経、略して法華経は五世紀の初頭に鳩摩羅什によて漢訳され隋の天台智ぎによって大成された教典であるが、わが国では聖徳太子が『法華義疏』を著しているように、すでに飛鳥時代には伝えられている。以後、奈良時代においても法華経信仰は確実にに定着してゆくが、本格的流布は平安時代初期の人唐最澄が、法華経を根本経典として比叡山に日本天台宗を開宗して以降のことで、法華三味行法を行うために、皇族・貴族によって数多くの法華堂が建立され、本尊・普賢菩薩像が造顕・安置された。法華経は序品から始まり最後の勧発品までの28品(28章の意)によって構成されているが、最後の勧発品には普賢菩薩が法華経を修行する者を守護することが説かれ、画像・彫像ともに六牙の白象に乗り行者の方へ近づいてくる姿で表されているのが通例である。
    この普賢菩薩画像も、損傷は多いが、通例の普賢菩薩像で首を左方へ振り向けた六牙の白象の上に豪華な鞍を置き、左手を屈ぴし蓮華持つ半跏形の普菩薩を、企泥・きり金を多用した繊細な筆致で描いている。制作年代は、衣文の処理に多少類型化した不自然なところが表れていることから、南北期時代に降るものと考えられる。

    和歌山県立博物館「長保寺の仏画と経典」より

     

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  44. FEB
    19
     

    癒される瞑想が、なぜ必要なのか

    地獄はあるのか?

    はい、地獄はあります

    お経に書いてあります
    「地獄を見た」という人もあるでしょう

    ただ、地獄にいるから苦しい、と単純ではないようです

    「地獄に仏」という言葉がありますが、地獄にいらっしゃる仏様もあるわけで、おそらく、仏様は地獄にいても苦しくはないのでしょう

    我々は、普通に漫然と生きていると、地獄に行く可能性が非常に高いです

    なぜならば

    人間は、感覚器官を通じて外界を脳内に再構築して、それを認識とか経験、学習、知識と呼んで暮らしています

    そもそも、脳に外界の情報が入力されるときに、自分にとって有利か不利か、安全か危険かを取捨選択しています
    また、せっかく取捨選択して学習、経験しても、忘れてしまうこともあります

    つまり、外界にあること、そのものが脳内に再構築されるのではなく、かなり、自分勝手な取捨選択をしたものが取り入れられているのです
    そして、これは、人間で有る限り、避けられないことです

    自分で真実だと確信していることも、ありのままの真実を自分なりに脚色したものであるのです
    そこには、ありとあらゆる誤謬や勘違いが入り込む可能性があり
    それは、構造的に、避けられないのです

    程度の差こそあれ、ありのままの真実にあらざる認識に基づいて生きていけば、脱線しないほうが不思議です

    その危険性を自覚しないで生きていれば、当然に、地獄に行く可能性が高くなるという理屈です

    苦とか楽、といった感情は、自分がどう思うかということですから、自分の脳内にあると言えるわけで、自分でなんとかなりそうです

    時間、空間といった普通の実感も、仏教的に言えば、脳内の産物です
    それは、生きて感じるから、時間があって空間があるのであって、感じなければ、まあ、有るとも無いとも言えません

    また、生死を感じるというか、生きていくのも自分だし、死ぬのも自分ですから、脳内の感情と言うこともできるわけです

    苦楽生死といった、我々の置かれた現実は、仏教的に言えば、感じる前の世界には無く、感覚器官と脳によって歪めて感じたから存在する感覚だということになります

    苦楽生死によって引き起こされる「孤独と不安」は、自分で解決する他はなく、どんなに偉い神様や仏様も、身代わりにはなってくれません

    何回も言うフレーズですが
    朝起きて、かわりに便所に行ってくれるわけでもなく、腹が減ったら、かわりにご飯を食べてくれるわけでもありません
    生きていくのは自分です

    ここで、解決のヒントになるのは「地獄に仏」という言葉です

    たとえ地獄にいても、心が仏のごとくであれば、「孤独と不安」は癒されるのです

    自分の都合を一先ず忘れて、相手の立場で考えてみて、出来ることから少しづつでもしていく、ということではないでしょうか

    「孤独と不安」から、本当に逃れる活路は、他には無いです
    利害、得失を追い求めても、不愉快な現実がいつか立ちはだかります
    夢や理想は、思うだけ、語るだけでは得られません

    そして、「癒される瞑想」が、やはり必要です
    いったん、自分がしがみついている脳内現実から離れなければなりません
    相手が無くても出来ますから、比較的身近で簡単で、本質的です

    癒される瞑想の仕方 
     
    あなたが一番信頼する光に意識を集中します
    リラックスして
    目をつぶって
    ほほえんで(大事なコツです)
    無条件に全てを赦し救う心を感じながら
    静かに息を吸って
     
    無条件に全てを赦し救う気持ちで
    体の力を抜きながら 息をゆったり吐きます
    それを繰り返して
    光だけになります
     
    疲れてきたらやめて
    光に感謝を伝えます

    信仰のある人は、その神仏が光です
    信仰の特に無い人は、「お日様」が光ですね

    自分に光が注がれるだけでなく、縁の有る人すべてに注がれると思いながらすると、より気持ちいいですよ

     

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  45. FEB
    15
     

    オカラ入り手作りソーセージの作り方

    自家製、オカラと鳥胸肉のソーセージ

    先ず、鳥胸肉約500gを3cmくらいに切ります
     
    ミンサーで粗引きにします
    からまるので、皮だけ別に粗引きにします
     
     
    大豆1カップ
     
    豆乳メーカーで約30分で、自動的に豆乳とオカラができます
     
     
    付属の網で漉します

    できたての、温かい豆乳

    今回は、できたオカラは布巾で固く絞っておきます

    できたての豆乳で、ちょっと一服
    オカラと鳥挽肉にスパイス、塩少々、卵1個、片栗粉大匙1、サラダオイル少々を、よく混ぜます
     
     
    手作りソーセージクック」で、レンジで4分
     
     
    バジル入りバージョン
     
    鳥胸肉500gと乾燥大豆1カップで18本のソーセージが出来ます
    ここまでで、約1時間
     
     
    これを、スモークウッドで燻煙します
    ガストーチで点火しないと、よく燃えてくれません
    (もらい物の、不要になったガンロッカーを改造した燻製器です)
     
    約1時間で、出来上がり
     
    オカラが入っていることを感じさせない、ふんわりした、おいしいソーセージができます
     
    比較的ヘルシーなソーセージだと、自己満足してます(^^)/
     
     
     

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  46. FEB
    6
     

    蝋梅

     
     

     

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  47. FEB
    6
     

    Instagramのリンク

    長保寺のホームページにInstagramのリンクを追加しました
     
     
     
     

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  48. FEB
    5
     

    水仙が満開です

     
     
     
     
     

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  49. FEB
    4
     

    QuantumSenseと仏教

    QuantumSenseと仏教
    http://www.chohoji.or.jp/i/qs-1.htm

    このBlogで書いたことの、まとめのページを作りました

     

     

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  50. FEB
    1
     

    1月の写真

    1月の写真のコーナーを長保寺のホームページにつくりました

    1月の写真

    写真をクリックしてください

     

     

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  51. JAN
    24
     

    旅の画家

    昭和初期に、長保寺に逗留していた禾圃(かほ)という画家が描いた絵です
    リュック一つかついでやってきて、言葉は悪いですが、居候して、宿賃の代わりに絵を描く生活です

    この絵は昭和己巳で、昭和四年ですかねぇ

    旅の画家、ですね
    のんびりした時代です

     

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  52. JAN
    21
     

    entanglementsと慈悲

    量子もつれ(エンタングルメント(entanglements))
    2つの物体を宇宙の両端まで引き離したとしても、片方の状態はもう片方の状態に影響を及ぼすという時空を超えた相関をもつ
     
    「時空を超えた相関」が、実際に実験室で検知されているのです
    http://chohoji.blogspot.jp/2013/01/blog-post_15.html
    「量子もつれ」が、華厳経でいう「無尽重々縁起」や仏教の考える「慈悲」と物理学との接点だ、と考えています
     
    いつもの図ですけれど
    この「空」は、世界に「一つ」しかありません
    ま、これは正確な言い方ではなく、「一つ」というのは、数えた後で脳内に形成される認識であって、実際の「空」は、数える以前の状態でそこにあるわけです
    こういう時、仏教に便利な言い方があって、「一如、いちにょ」(ひとつのごとく)と言います
    数えたら「一つ」なわけですが、それを言ったら「色」になってしまうので、「如」をつけて「空」であることを表現します
    「空」は、そもそも数えてしまったら「色」になってしまいますから、数えませんが、いくつもあるということでもなくて、「一如」であると
     
     
     
    たとえば、仏は向うから来るから、来るが如きで、如来です
    祈ったからとか、拝んだから、頼んだから来るのではなくて、仏の都合(つまり、衆生を救おうという請願)で向うから来ます
    それを、「仏が来る」と言ってしまったら、脳内に形成される「色」になってしまうから「如来」と、厳密に表現してるわけです
     
    ですから、ちょっと常識というか日常の感覚とかけ離れていますが
    目の前のモニターは、ぱっと目をつぶれば、「空」になるわけで
    地球の裏側と繋がって「一如」になります
    あ、これ、ネットワークがオンラインでなくても「空」ですから繋がっていることになります
    これを、人間の存在や、心にも当てはめることができます
     
     
    我々は、地球のこちら側と裏側とでは、別々の角度から、身の回りのことを、見たり聞いたり、全く別々のことを感じているのですが、地球は一つしかありません

    これは、ご理解いただけると思います

     
     
    同じように、「空」も「一如」ですから、あっちとこっちで別々の世界を認識していても、実は「一如」の世界を感じているのです
     

    つまり、原則的に言って、こちら側でしたことは、反対側にも影響します
    感じる前の世界は全て「空」ですから、どこまでも、宇宙の果ての向こう側どころか、過去や未来とも繋がっています
    これを華厳経で「無尽重々縁起」と言ってるわけです

    「片方の状態はもう片方の状態に影響を及ぼすという時空を超えた相関をもつ」まさにentanglementsですね

    繋がっているのですから、「共感」や「感動の共有」が可能です
    仏教で言う、他心通(他人や動物の心がわかる)、神足通(遠隔地にあるものに触れることができる)なども、その延長上で可能になってきます

    それが
    「他人の苦痛」を我がことのように共有する
    「他人の喜び」が我がことのように嬉しい
    困った人がいれば、何かせずにいられない
    といった、素朴な感情の理由です

    ですから仏教的には、「慈悲」は「空」から生まれます
    打算、利害、損得といった「我」から生じる思惑とは別世界に、慈悲はあるのです

    私利私欲を忘れて誰かを助けるのは、実は、他人を助けているのではなくて、自分自身を助けているのです
    だから、喜んでもらえれば我がことのように嬉しいし、見返りがあればそれに越したことはないけれど、特に見返りを求めない
    それが、慈悲です

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  53. JAN
    20
     

    資料館の解体をしています

    海南市立歴史民俗資料館の解体工事が進んでいます
    3月8日に終了予定です

    しばらくの間、ご迷惑をおかけいたしますが、参拝等には差し支えございません

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  54. JAN
    15
     

    閉じられた本を読む

     
     

    「止観」と「加持」を組み合わせて、難しく考えれば「一心三観」となるのですが、仏教は組み立てられています

     

     

    で、これ、「空」を信頼というか、絶対的に信用しなければ成り立ちません

    この図で言えば、感覚器官を休止するだけで「空」だけになりそうなんですが
    それでは、居眠りでも同じことですね

    では「空」とはなにか?
    ここが難しいところで、説明してしまったら、それは「色」になってしまいます
    感じる前の世界なわけですから、まあ、「果分不可説」なわけです

    それではあまりに不親切なので、仏教の代表的な解釈をご紹介しますが、仏教史最大の学者のナーガルジュナ(龍樹)の説ですけど

    八不(はっぷ)といって
    一異、同断、生滅、去来の八つを
    一つでもなく異なってもいない、同じでもなく断絶してもいない、生じるでもないし滅するでもない、去るでもなく来るでもない
    と定義していて、いわば仏教の基本セオリーです

    それで、僕はこれを量子論でいう、Suerpositionと近似する概念だと考えているわけです

    Quantum Sense
    http://www.chohoji.or.jp/archives/quantumsense.htm
    このリンク先は長文で、しかも、わかり易くはないです(^^;;

    さわりは、こんな感じです

     
     
    i半導体中で量子もつれの生成と検知に成功
     

    「重ね合わせ という概念は、何らかの物体が同時に2つの状態で存在できる現象を意味しています これはとても妙なことで、私たちの日常生活では経験できないことです 当然、量子力学を創り出した物理学者さえも理解に苦しむ大難問でした
    たとえば私がここに座っている状態と向こうの方に座っている状態は想像できます
    でも、同時に両方に座っている状態は想像できません
    しかし、量子力学では、まさに重ね合わせの原理によりこれが可能です
    このように原子、電子、分子などは同時に2つの状態で存在することができ、この概念が量子技術を強力なものにします
    重ね合わせのさらに延長上にエンタングルメントがあります
    これには2つの量子的物体が必要です
    この2つが絡み合う(エンタングルメントentanglements)と、個々の物体を分けて考えることはできません
    エンタングルした2つの物体を宇宙の両端まで引き離したとしても、片方の状態はもう片方の状態に影響を及ぼすという時空を超えた相関をもちます」

    さて、ともかく、無垢で清浄であっても、「空」そのものは、どうやっても説明できないわけです
    で、それを、どう信用しろと?

    これですね
    「空」は、感覚器官を通じて脳内に印象を形成して初めて「色」として認識され、意味を持ちます
    閉じられた本が、読まれるように

    「空」は、読まれずにいる本のように、あなたに読んでもらうのを待っているのです
    読まれずにいる無数の物語が「空」の中にあるのです

    止観を例にすれば、感覚器官を止めるだけでは、ただの屍です

    慈悲や愛は、自分でつかみ取らなければなりません
    あなたが慈悲を感じれば、その時、慈悲があります
    あなたが愛を行えば、それが愛です
     
    座して待っていても、慈悲は、「空」の中で眠り続けるだけです
      
    「神は愛だ」とか「仏は慈悲深い」とかは定義の問題で、イメージです
    あなたがなんにもしなければ、慈悲は「空」の中で眠り続け、はいそれまでよ、です
    当たり前の話ですけど

    ちょっと、くだけたたとえで言うと
    脳内お花畑を勝手に信じ込み、世界に広めても、それは個人的妄想の拡大でしかありません
    「私利私欲を捨て、考えうる限りの事実関係を把握し、だれを笑顔にするかよく考え、出来る限りの努力をする」ということではないでしょうか

    間違いや、失敗があるかもしれませんが、その時は、もういちど「空」に戻ればいいのです

     

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  55. JAN
    14
     

    図解仏教 苦厄から逃れる道

     
    今、あなたはモニターを見てますが、眼で見て、意識で思ってるわけです
     
    これを、どう名づけてもいいのですが、自分が今生きているという素朴な実感ですね
     
    で、眼をパッとつぶったら、モニターが月に飛んでいく・・・・・わけは無く、モニターはそこにあるのですが、見てないのだから本当はどうなっているかわからないのです

    見てないので、わからないが、ある

    この感じる前の世界を、一くくりにしてしまえば、
    時間も空間も無い(見てないんだからあたりまえですが)
    苦も楽も無い(感じる前の世界ですからね)
    一つでも多くでもない(見てないんだから数えられません)
    同じでも違うでもない
    生じるでも滅するでもない
    去るでも来るでもない(くどいですが、お経に書いてあるんです)

     
     
     
     
    で、これ、感じるということは、「自分勝手」「自己中心」「我田引水」などが、どうしても含まれます
     
    人間の不幸の、根本原因と言えるでしょう
    仏教的には、この歪みを正さなければ幸せにはなれないことになります
    だから、仏の教えが必要だと
     
    仏教の2500年の歴史の中で、様々に理論が考えられてきました
     
     

     
     
    「自分」というものを、限りなく小さくする、ということなんですが、自分で自分を否定することにもつながるわけで、苦行と感じる人もあるかもしれません
    でも、理屈どおりにやれば、効果はあります
     
    戒律を厳格に保って精進努力することが必要になりますが、出来る人もいれば、成就した人も多いのです

    しかし、親鸞さんなどに言わせれば、「普通の人には無理だ」ということになります

     
     

    密教
     
     
    仏からの働きかけを、身口意(しんくい)で受け止める、ということです
    身(印)口(真言)意(観念)全部を使うのが密教です
     
    この図でいうと
    加が
    阿弥陀仏ならーーー>念仏

    法華経ならーーーー>題目
    など、普通の人でも実践しやすい方法が編み出されてきました

    やや脱線して言えば
    加を
    神とすればーーー>神道、キリスト教、イスラム
    なども、この図で説明できることになります

     
    それでも、神仏に頼りきって、「自助努力は必要ない」という考え方になる可能性もあるし、「自分の信じる神以外は拝むな」という人もでてくるのです
     
     

     
     
    いままでの図で見ると、右と左の丸がバラバラなんですね
    それが、統合されました
    これで、仏の働きと、自助努力の両方が必要、という説明が完成します

    出家–>真実の生活–>空
    在家–>仮の生活–>仮
    形に捉われない生活–>現在の日本仏教–>中

     

    慈悲
     
     
     
    神仏がどんなに偉くても
    朝起きて、かわりにトイレに行ってくれるわけでもなく

    ご飯をかわりに食べてくれるわけでもありません

    生きていくのは、自分なのです
    では、いかに生きるのか
     
     
    身近な表現で言えば、理想だけ追求してもダメで、現実だけ重視してもダメなんです
    理想と現実、両方あるのが人生です
    理想でもない、現実でもない、なにが重要なのかというと、慈悲だというのが仏の教えです
     

    ですから、「慈悲とは何か」「自分になにが出来るのか」を考え続け、身口意で表現するのが仏教徒、ということです
    それが、「心の歪み」を原因とする、様々な苦厄から逃れる道だということです
     
     
     
     
     

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  56. JAN
    13
     

    共通の心の仕組み

    密教に月輪観(がちりんかん)というのがあります
    自分の胸中に月がある、と想います
    「想え、胸中に月輪あり」などと書かれています

    上座仏教にも、よく似た瞑想があります
    白い月輪だけでなく、赤や青とか、いろいろな色でするようです

    ほとんどの人は、出来もしないことが書かれている、と想っているのでしょう
    密教経典には呪文を唱えて空を飛ぶとか、死者が蘇るとか、荒唐無稽という他はないようなことが色々書かれていますから、実際に、本当に、ありありと見える人がいるのでしょうか

    でも、どうやら月が見える人はいるようです

    円相 白隠 (1686-1769)
     
     
     
     
    Paradise: Ascent of the Blessed
    1500-04 Hieronymus Bosch

    洋の東西を問わず、宗教を問わず、人間に「共通の心の仕組み」があると考えるべきなのでしょう

    解剖学的に言えば、脳の機能は人類共通、という言い方ですね

    宗教が世俗的権威主義に利用され、脚色され、踏み台にされ、ゆがめられてきたのが人間の歴史です
    また、その宗教を、金儲けと、傲慢さと、無知の、隠れ蓑にして利用したのです

    キリスト教やイスラムなどの啓示宗教は、開祖の言葉が「真実かどうかを検証する」手段がありません
    信じるか、信じないか、選択するだけです

    仏教は、瞑想によって検証され、実際に進化を続けています
    (たとえば、本地垂迹説といって、日本の神様の本地(つまり本質)は仏菩薩だ、という説を発明したり)
    仏教徒としては、すでに獲得した既得権に安住せず、まだまだ検証と進化を続ける必要があると思いますよ
    理論的には、全ての宗教を統合した瞑想技術など、出来そうですけどね

    で、その一つの入り口が
    癒される瞑想、というわけです

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  57. JAN
    12
     

    止観と加持

    世界を感覚器官を通じて認識しているというのが、仏教の出発点です

    眼耳鼻舌身の五感と、意識ですね
    まあ、脳という言葉は仏教経典には無いです

    時間と空間、苦楽といった感情など、全て意識が感じているのを唯識
    時間と空間、苦楽といった感情が生じる以前の、感じられる前の世界を

    今、あなたはモニターを見てますが、眼で見て、意識で思ってるわけです(唯識)
    で、眼をパッとつぶったら、モニターが月に飛んでいく・・・・・わけは無く、モニターはそこにあるのですが、見てないのだから本当はどうなっているかわからないのです(空)

    この、唯識(ゆいしき)と空(くう)が、仏教の基本的立場です
    唯識観と空観といいます

    唯識観と空観が、歴史的に洗練され、仏滅後1000年位で密教になります
    唯識観を仏画で表現したのが、密教の金剛界曼荼羅になり
    空観は胎蔵曼荼羅になります

     
     
    これを般若心経では、「色即是空」と表現しています
     
     
     
     
    止観は、忘我、感覚制御、感覚遮断、などにより、自分自身の「我」を制限することで「空」だけになろうとします
     
     
    たとえば、断食、荒行などもありますし、坐禅、写経、経典読誦、念仏、唱題、真言念誦なども「忘我と精神集中の組み合わせ」による、広義の止観と言えます
    また、奉仕活動、職業を通じた社会貢献も、「私利私欲を制限して真実を行う」意味で、もっと広げれば止観に含むことができます
     
     
    仏教の歴史で最も新しく成立したのが密教です
    密教では止観から発展して、加持という概念に進化します
     
     
     
    「仏日の影、衆生の心水に現ずるを加といい、行者の心水、よく仏日を感ずるを持と名づく」 即身成仏義 弘法大師
     
     
    どうしてこれが進化と言えるかというと
    止観だけでは、自分を捨てることだけが強調され、仏の側からの働きかけが説明されないからです
    止観を実践すれば、止観を完成した存在がいることになるわけで、つまり、仏や菩薩が働いていると
     
     

    天台宗も密教なので、基本構造は全くいっしょです
     
    比叡山を母山とする、念仏、法華は、この概念を整理して
    阿弥陀如来を「加」としたら念仏
    法華経を「加」としたら法華
    と、実践しやすく改良したと言うことができます
     
    禅宗は止観だけを徹底した、ということですね
     
     
    このように見てみると、日本仏教が、止観と加持を組み合わせて、大乗仏教を本当の意味で完成させた、と言えるのではないでしょうか
     
     
    僕は

    理論に裏打ちされた具体的実践方法がある
    一神教のような排他性がない

    ことだけに限定しても、西洋哲学、キリスト教、イスラムよりも、仏教は「人に優しい」宗教だと思いますよ
     
     
     
     
     
     

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  58. JAN
    11
     

    Out On A Limb

    あったかい温泉に、プカーリと浮かんで、ボケーっとする
    これ、実は、立派な瞑想です

    温泉に浮かぶのは、シャリー・マクレーンのOut On A Limb(アウト・オン・ア・リム)に書かれた体験記です
    https://www.youtube.com/playlist?list=PL2A4E101D15F87A23

    これですね、真っ暗な温水タンクに浮かんで感覚遮断する、という仕掛けで、「意識変容状態」 、つまり瞑想状態あるいは催眠状態に人為的に誘導することができます
    これ、Isolation tankとかfloating tankと言われるもので、今、これをやるサロンのようなものもあるらしいです

    Brainstormという1983年の映画で、このタンクで意識変容状態に誘導するのが描かれました
    http://en.wikipedia.org/wiki/Brainstorm_%281983_film%29

     
     
    これ、理屈は、つまり、止観です
    止(感覚遮断して)、観(意識変容状態になる)
    ですから、理論的には、また、実際に、効果はあります
     
    実は、宇宙空間で無重力状態になると、重力というストレスから開放され、意識変容状態に入りやすくなると考えられます
    よく、宇宙飛行士が、「宇宙空間から地球を見て人生観が変わった」という話をしますが、Out On A Limbなんですねぇ
     
    ですから、止観というと坐禅にすぐ結びつけるのですが、実は、バリエーションが多岐に広がっているのです
     
    止(シャマタ、samatha)、観(ヴィパサナ、vipassanā)
    止(坐して)、観(禅定に入る)
    止(己を忘れて)、観(他を利する)
    止(感覚遮断して)、観(意識変容状態になる)
     
    応用範囲が広そうですね
     
    なんだ単純だ・・・・には、ならないんですよ、これが
     
    止のほうは、まあ、単純そうなんですが、これ、居眠りとどこが違うのか
    観は、その内容は、なんでもいいわけじゃない
     
    まあ、それでも、この止観という構造というか概念は、基本中の基本ということでいいと思います
     
     
     
     

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  59. JAN
    9
     

    Meditation of JIHI

    国宝大門の前の桜

    昔話を少し

    もう7年前になりますが

    日本にスピリチュアルという言葉を根付かせた翻訳家のYさん(天女座の矢吹さんが瞑想CDに曲をつけてらっしゃいます)のご縁の方で、アメリカ人のB君がうちに遊びにきました

    奈良で鹿のスケッチをしたり、地下足袋が欲しいと言い出して、足が大きくて合うのがなく、あちこち探したり、モンゴルのホーミーをやってみせてくれたり、面白かった

    お父上は、イスラムのスーフィーを信仰してるんだそうで、いろいろ興味深かったですよ
    このスーフィーは、日本では知る人は少ないですが、イスラムの密教で、方法論は密教に酷似しています
    おそらく、インドからイスラムへの影響があったのでしょう
    極めて、精緻で高度です

    そのB君が、瞑想をしたいと言い出した

    で、片言の英語でレクチャーすることになりました
    その時に書いた図がこれです

    慈悲の瞑想

    仏さんは根源とつながっている
    慈悲によって、つながっている
    慈悲とは、愛ある智慧、智慧ある愛
    あなたの真心と仏さんが、つながる
    目の前の仏像とあなたは、この世界にいる
    仏像の根源は因果を越えたところにある
    あなたは慈悲によって根源とつながる

    How to

    かすかに微笑む(モナリザのように)
    息を吸うとき 慈悲(love and wisedom)が体にはいる ありったけのイメージで思う
    息を吐くとき 感謝しながら吐く

    あなたの中に元々ある、すばらしい心が、仏の慈悲に洗われて、輝く
    自分が自分に目覚める それを「悟り」という

    リラックスして
    1分でも3分でも5分でも、15分、30分でもいいからやる
    どこでもできる
    疲れたらやめる がんばる必要はない
    いつでもできる

    Easy and Simple

     

    と、これを、12月の寒いお堂で、2時間、B君一人で、真剣にやりました

    よく、修行などしても効果がない、と言う人がいます
    僕は、高野山大学の学生の修行の監督もしましたが、「真剣にやれば」効果はすぐでます
    ただし、「真剣にやれば」です、ここ大事です

    日本では、仏教は、風景のようにありふれた存在で、特段の興味がないのが普通でしょう
    しかし、はるばるアメリカから来て、荘厳なお堂に坐れば、それはそれは、気合が入ります

    この、真剣さ、気合、覚悟、といったものは、言われてできるものでもなく、その人の人生、めぐり合わせ、などが噛み合って、初めてスイッチが入ります
    理屈など、いくら言っても、スイッチは入らないのです

    「人をみて法を説け」とは昔から言われている言葉ですが、B君の真剣さを見ていて、改めて、その意味を納得したのです

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  60. JAN
    8
     

    精霊と仏性

     
    Noli Me Tangere(我に触れるな)  Tiziano Vecellio 1511-12 

    イエスは磔で死んでから、精霊として復活されます
    この復活を事実として受け入れられたなら、キリスト教徒です

    イエス亡き後、精霊が存在しなければ、キリスト教は単に過去の偉人の事跡で終わってしまいます
    迷える子羊を誰が救うのか、ということになりますから、イエス亡き後のキリスト教には、復活が絶対に必要です

    クシナガラ 荼毘塚 2010/02/15

    お釈迦様は、クシナガラの最後の説法(涅槃経)で、「一切衆生悉有仏性」を説いてから、涅槃に入り、荼毘に付されます

    仏性が、すべての生き物にあるから・・・・・止観をすれば仏性にたどり着けます
    仏性がなければ、止観をしても、ただの居眠りで終わってしまいます
    お釈迦様亡き後の仏教には、仏性が絶対に必要なのですが・・・・

    「仏性の無い人間がいる」という仏教があります
    ご存知の、奈良の興福寺や薬師寺の法相宗や三論宗です
    まあ、皇室が奈良から京都に引っ越してくださったおかげで、仏性が無い人がいるという説は主流派にはなりませんでした
    涅槃経の存在がありますから、仏性を否定するのは、ちと無理がありますが、なぜか理屈を積み上げると、無くすことができるようです

    歴史的には、仏性が時代とともに強調されていくようになりました
    日本仏教初期の奈良では「仏性がある人と無い人がいる」という説でしたが、平安時代になると「女性以外は仏性がある」に変わり、鎌倉時代になって「老若男女一切に仏性がある」ことに落ち着きました
    本当のことを言うのに、社会的な制約があったと考えるべきでしょう

    さて、この仏性は目に見えません
    当然、手でも触れません
    やっぱり無いんじゃないか、という疑問も当然わいてきます
    あるとするなら、いったいどこにあるのか

    言葉としての仏性は「色」にありますが、仏性そのものは「空」にある、と理論的には、そうなります
     
    で、その仏性に触れる方法が、この図からわかります
     
    「色」は脳内現象なわけですから、つまり「自己」です
    「自己」の都合を忘れてしまえば、「空」だけになります
    止「自己の都合を忘れ」、観「空だけになる」
    広い意味の止観ですね
    これ、理屈です
     
    よく言う
     
    「我を忘れて没頭する」
    「無我夢中で」
     
    ですね
     
    で、これ、なんでも夢中ならいいと、そんな都合のいいことは無いわけで
    対象が「空」である必要があります
    それで、わかりやすい便利な言葉がないか、探してみると
     
    「己を忘れて、他を利するは、慈悲の極みなり」 伝教大師
     

    伝教大師は比叡山の天台宗の開祖ですが、この比叡山で、日本仏教の天才達は一度は修行し勉学しているのです
    法然・浄土宗(10年)、親鸞・浄土真宗(20年)、道元・曹洞宗(4年)、栄西・臨済宗(14年)、日蓮・日蓮宗(6年)など
    括弧の中の数字は、比叡山で天台宗の修行をした、およその年数です
    「忘己利他」が、日本仏教の根底にある言葉だと言っていいでしょう

     
    つまり
     
    我を忘れて、誰かのために働く
    無我夢中で、人助けをする
     
    その時に、自分自身の仏性に出会うのです
     
     
                     

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  61. JAN
    7
     

    仏教の瞑想

    仏滅後100年頃バイシャーリで行われた第二結集で、仏弟子は上座部と大衆部に分裂します
    伝統を墨守するのが上座部、臨機応変に本質を求めるのが大衆部です

    上座部はほぼ原型のまま、南伝してタイやミャンマー、スリランカなどに伝わり
    大衆部はインドで密教化しつつ、大乗仏教として中国やチベットに伝わり、日本はこの流れに属します

    上座仏教の修行の実践方法は「清浄道論」に、まとめられています
    実に克明に解説が書かれています
    瞑想方法も各種解説されていますが、主要な方法は、シャマタ(止)ビバシャナ(観)と言い、つまり、止観です

    パーリ語から口語訳された500ページくらいの本が三冊です
    上座仏教の修行法が説きつくされた、と言っていいでしょうね

    一方の大乗仏教では、膨大なものがありそうですが、修行について体系形的にまとめられた本は天台大師が書いた「摩訶止観」とその要点をまとめた「天台小止観」しかありません
    あとは、その2冊の止観の解説書があるだけです
    仏教の修行を止観という概念で統合しています

    「摩訶止観」は文庫本にもなっていて、400ページくらいのが2冊です
    今、この本は絶版してしまっているようです
    漢文の書き下しですが、細かい字で、けっこう大部です
    「摩訶止観」以上の止観の体系的解説書は、結局現れませんでした

    「清浄道論」と「摩訶止観」が、仏教の修行法の解説本の双璧です
    止観が、上座部・大衆部の修行法の共通概念であることがわかります

    これを、きちんと理解しなければ仏教の修行ができないということだと、坊さんは皆、大学院で仏教学を専攻しなければならなくなりますね(^^;;

    で、実際は
    僕は高野山で僧侶専門の修行道場の監督を1年やりましたし、比叡山で一から修行しなおしましたけれど、部分的な引用などはあったかもしれませんが、通して読んだりはしません

    現在は、こういう古典的論書を踏まえた、もっと洗練された方法が、各宗派で研究され実施されています

    主要な修行法は

    天台系 経典読誦と密教
    真言系 密教
    浄土系 念仏
    禅宗系 坐禅
    法華系 題目と経典読誦

    まちまちで統一感がありませんが
    密教を印と真言と観念に分解すると

    身  印
    口  真言 経典読誦 念仏 題目
    意  観念 坐禅

    と、おおまかに、身口意の三つに分類できます

    身口意の全ての要素を含んでいるのが密教です
    密教は、日本では平安時代からある古い宗派になりますが、仏教史の流れからすればインドで仏滅1000年後位に成立した、もっとも新しい宗派です
    ですから、修行法は、古くからある方法を統合した、洗練された方法に進化しているとも言えます
    また、逆に、各宗派は、一つだけを深く追求しているとも言えます

    密教では止観を踏まえて、加持という概念が成立しました

    いろいろ書きましたが
    つまり仏教では、自分が脳内に作り出す、生きているという素朴な感覚ではなく、その感覚を感じる前の世界を求めている、ということなのです

     
     

    なぜなら、自分という存在が、執着、妄想、間違い、思い込み、など様々な歪みを作り出しているからです

    これを学習と経験から学ぶ、というのが世間一般の常識なのですが、その学習すべき対象も、果分不可説で、あまり当てにはならないのです

    でまあ、学習ももちろん大事ですが、瞑想は必要だということになるのです

     

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  62. JAN
    6
     

    果分不可説(かぶんふかせつ)

    蝋梅
     
     

    果分不可説  これ、仏教語です

    説明をはしょりますが「空(くう)」を、つまり「果分」といいます

    この「空」を、言葉によって説明しようとすると、説明する人の使う言語とか、知識量とか語彙の制約を受けます
    つまり、言葉による説明は脳内に生成される「色(しき)」です
    言葉によらない「写真」「絵」「音」「動画」は、やや「空」に迫るかもしれませんが、やはり脳内に生成されるので同じことです

    「色」は「空」をどんなに上手に説明しても、「空」そのものには絶対になりません
    それを果分不可説といいます

    目の前に「PC画面」がありますが、これを「モニターです」と説明したとしても、液晶の種類、大きさ、解像度など千差万別で一言で言い切れるものではありません
    言葉は便利ですが、実際は、真実の一部分を描写するだけです

    いや、こういった話は退屈かもしれませんが、仏教ではもう2500年間、このような議論を継続しているのです

    現在の仏教学会では、漢訳、サンスクリット語、パーリ語、チベット語、の諸経典を比較校定した研究が主流です
    これこそ、退屈なんですが、学問の手順としては避けられません

    ところがですね

    この、厳密にテキストクリティークされた経典の語句は、果分不可説で、どのみち真実の説明の断片でしかないということが、最初から了解されているのです

    (ちなみに、世界の仏教史でただ一人、弘法大師は、果分不可説ではなく果分可説を説いています。天才といえばそうだし、主流でないといえばそのとおりです)

    とまあ、ここまでが前振りです

    僕の「色即是空」を図示した上のイラストなど、実は、仏教学の精緻な議論からすれば、かなり大雑把なものです
    しかしながら、そもそも、仏教の説明は、真実の断片の集積でしかないのです

    それで、僕の場合、これらのイラストを「仏教の目的」を達成するための道具と割り切って、実用上まにあうだろう精度で作っています
    「仏教の目的」とは、「成仏、仏となる」ことですけど

    さて、こういった話を、長年の僕の読者(1996年からやってますから)は、また同じようなことを書いてる、と思ってらっしゃるかもしれませんが、実は、それが狙いでして、絶え間なく反復することで、理解が身についてしまうものなのです
    「同じような」と思った瞬間、すでに記憶の片隅に仕舞われていることに気づいたわけですよ

    このBlogにあるのは、大雑把なイラストや議論なのですが、そもそも説明というものは脳内生成物で「色」だから、さほど信用していない、という立場ですから、これ以上精度を上げた議論に踏み込むことは、意図的にあまりしないつもりです

    それで、前回からの続きのプラトンですけれど
    プラトンに限らず、哲学は、言葉でします
    ここに、瞑想や祈りを持ち込んだら、少なくとも西洋哲学ではなくなってしまいますが、仏教哲学やスコラ哲学は平気でそれをしているのです

    それを敷衍して、科学もですね、実験と観察に基づくのを拡大して、ここに念とか意志とかを加味すると、これは、一気にオカルトになりますね
    しかし、そういう分野も実際あるわけで
    「ありがとう」と書いた容器に入れたら腐るのが遅くなったとか

    果分不可説ということを踏まえれば、「言葉による哲学」や「実験観察による科学」と、「瞑想する哲学」「念じる科学」は、共存できると考えるべきではなかろうか、ということになりませんか

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  63. JAN
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    プラトンは、なぜ瞑想をしなかったのか?

     
     
    プラトンは、なぜ瞑想をしなかったのか?
     
    プラトンに詳しい人に近くでいろいろ聞ければいちばんいいのですが、僕なりに調べてみると
     
    ネオプラトニズムの創始者とされるプロティノスが瞑想をしていた形跡があるらしいのがわかりました
    まあ、でも、廃れてしまっています
     
    で、プロティノスがアウグスティヌスに強い影響を与えたことで、キリスト教ともつながってきます
     
     
    僕的には
     
     
    大雑把に、仏教の空観とプラトンのidea論が、極めて似た構造をしていると考えているわけです
     
    仏教的には、「色」は人間的妄想や執着によって脚色された「空」ということになり、迷いや過ちの根本原因になり得ます
    で、生きている間には、「空」によってリフレッシュされる、まあ、癒される必要があります
    そのために、瞑想、いわゆる禅が必要だという論理です
     
     
    そこを、プラトンは、ideaを説くのですが、それをいかにして獲得するのか、も一つわからない
    プロティノスが瞑想をした、ということで、いいところまで来ているのですが、主知的な、言葉だけによる展開のなかに埋没してしまいます
    しかし、アウグスティヌスを通じて、キリスト教神学に影響を与えていくのです
     
    キリスト教のニカイア公会議で三位一体説が正統だということに、議論の末に決着します
    ローマ帝国の統一には、神と人間の接点は教会だけだという、教会を中心とした権威を最大化する必要があったからです
    実はここにも、仏教と接近遭遇する、きわどい部分があるのです
    アウグスティヌスは、その著書である「三位一体論」で「父と子と聖霊が、三つなる神ではなく一つなる神であると聞けば、諸君はこのことに困惑するだろう」と、三位一体説の理論構築に人為的な操作が必要であることを認めています
     
    三位一体説を平たく言うと、キリスト以外に神はいない、人間は皆、迷える子羊でキリストによる救いを必要としている、という論理になります
    キリストの復活された精霊に触れることができるのは教会しかない、と言えばカトリックになり
    聖書を通して触れる、と言えばプロテスタントになります
     
    人間に仏性があり、人は修行によって仏に近づく、などという発想は、キリスト教にはありません
    人は皆、子羊であり、キリストによる救いを必要としていると考えています
    (キリストをアラーに読み替えれば、イスラムになってきます。アラーは肉体を持ったことはないので、偶像崇拝を排除します)
     
    ですが、三位一体ではなく、三位がバラバラに成立する、とローマ帝国の政治的都合によりニカイア公会議で異端にされてしまった考え方を採用すれば
    父と子と精霊を、父=神、子=イエス、精霊=神性、とまあ、整理させてもらうと、父=仏、子=衆生、精霊=仏性と飛躍するのも紙一重ということになります
    キリスト教世界に、お釈迦様が出現しなかったから、飛躍できなかったのでしょうけれど
     
     
     
     
    つまり
     
    視点を変えれば、仏教とプラトンとキリスト教は、共有する接点があると言えるのです(大まかに言えば)
     
    idea論に瞑想を加味すれば、禅になり
    キリスト教で三位一体説を拡大解釈すれば、一切衆生悉有仏性になります
     
    宗教や哲学は、基本的に人間の脳内の産物で、「真実の説明」なのですから、真実そのものは一つしかないということを前提にすれば、「説明の改善」によって、一見全く違う立場にあるような主義主張も、近似するものに変わってくると、まあ、考えられるわけです
     
    そうなると、本当に重要なのは、宗派宗旨の教学を学んで脳内に言語を紡ぐことよりも、「真実の体得」あるいは「真実を実感する」ことです
     
    今のところ、その最も身近な方法は瞑想です
    瞑想を、最も精緻に壮大に構成しているのは、プラトンでもキリスト教でもなく、仏教です
    仏教の場合は、ここに、仏典に説かれる菩薩とか、大師と尊称される高僧方など、この瞑想の階梯を達成した存在が想定されてきます
     
    で、なぜにideaがそこにあるのに、プラトンは瞑想をしなかったのか?
    ここに戻ってくるわけです
     
     
       
     
     

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  64. JAN
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    新春雑感

    年始めということで、この一年のことを、あれこれ考えてみたいと思います

    =領土問題=

    ロシア、韓国、中国と、それぞれ立場と内容に違いはありますが、日本の小さな島に領有権を露骨に主張しています

    民主党が日米同盟を軽視した影響が大きいとは思います
    自民党の長期政権のときにはなかった動きが強くなりつつあります

    ならばどうするか、という各論はさておいて

    結論を申し上げれば、領土に対する「執念」の強さが問われているのではないでしょうか
    端的に言って、「殺してでも盗る」という国と「命を捨てて守る」と言う国の「執念」の差が帰趨を決めると思います

    否応も無く、「国家」というものに、自分なりの立ち位置を決めることを求められているのだと思います

    憲法改正や国防軍など、この文脈の上にあるのではないですか

    =エネルギー問題=

    つまり、原発をどうするかです

    現在進行中の原発事故をどう収束させ、地元の人の安全をどう確保するのか、という問題と、日本のエネルギーをどう確保するのか、と言う問題を切り分ける必要があります

    そのうえで
    原発は危険な代物である、というのは、どこからどう考えても結論でいいと思いますが、ならば、「その危険な原発を安全なレベルに維持して利用する」のか、
    あるいは「制御不能の危険を生み出す原発は、どんな困難があっても廃止する」のか
    世界レベルで見れば、まだまだ多数の建設計画のある原発に対し、「積極的に安全策を提供する努力をする」のか、「廃止を要求する」のか

    「安全策を講じて利用」「困難があっても廃止」
    どちらにしても、実際のところ、言ったとおりのことが実施できるのか
    政局の材料にして、選挙結果が明白に出たところで、原発問題の困難さが消えてなくなるわけではありません

    僕は、個人的には、日本のような地震や津波の多発する、可住面積の狭い国に原発をつくるのが、そもそも間違っている、と思っています
    フェードアウトするべきだと思います
    これは自公の政策協定には「徐々に原発依存度を下げる」と書かれました

    実に魅力的なエネルギー確保の手段が複数、すでにあるのです
    思いつくまま上げても
    地熱(実はアメリカが地熱発電先進国、日本では国立公園法がじゃましてる)
    風力(エネルギー変換効率40%)
    太陽光(全てを解決してはいないが、エネルギー変換効率10%程度で、まだ技術的な伸びしろがある)
    小水力発電(水利権の法整備をすれば、すぐにでも結果が出ます)
    ガス(新型原子炉に金をかけるなら、新型タービンの改良に金をかけるべき)
    藻から石油(すでに日本では耕運機を運転する実証実験に成功してる)
    メタンハイドレート(これなど石油メジャーの妨害工作をもろに受けている。胸に手を当ててよく考えて欲しい)
    その他、火力発電の燃料に芋を使うとか、送電網を超伝導にしてスマートグリッドで列島を覆うとか、波力発電とか、いろいろアイディアはあるし、これからも新しい技術がでてくるでしょう
    奇抜とばかり言っていられないのです

    今すぐにエネルギー問題全てを解決しなければ、駄目だ、などと言っているのは目先の利権にしがみついているからです

    利権とか政局とか過去のしがらみとか、離れればいくらでもアイディアはあるし、有効利用の可能性は十分にあるのです
    むしろ、原発無しの世界を構築する技術を国産化すれば、世界に貢献できるし、日本の産業にも大きな利益をもたらすのではないですか
    大げさでもなんでもなく、人類の生存に貢献すると思いますよ

    =核武装=

    広い意味で言えば、日米同盟によって、すでに日本は核武装しています
    アメリカは、核の先制攻撃をしないとは言っていません
    アメリカが、自分を危険にさらしてまで、核攻撃をするかしないか、それは別問題ですが

    そこを、もう一歩踏み込んで、日本が核武装する必然性が逼迫しているのかどうか、ということではないですか

    =経済=

    「国家のバランスシート」と会社や家庭の会計は、本質的に違います

    国は、お金を印刷できるのです、つまり「金融緩和」
    それを、需要不足のデフレ対策として、乗数効果や有望分野を勘案して配分する、つまり「財政出動」
    その目的は、所得の再配分や、政治的な歓心を買うことではなく、つまり「経済成長」

    経済成長によって税収が増え、山積した問題が一掃される
    TPPなどの経済自由化は、供給効率化のデフレ促進策であって、現在の供給過剰で需要不足のデフレには逆効果なのです

    アベノミクスを批判する人達は、これがわかりませんかねぇ
    実際は、過去20年以上、このデフレ対策が行われずに来た、ということですよ

    議論すべきことや、選択を迫られることは、それでも、まだまだ多々あります
    「国家のバランスシート」を理解したうえで、「いかに効果的な財政出動をするか」などについて、生産的な議論をする必要があります
    現在の日本には国土強靭化という切迫した問題がありますから、過去の不動産バブルのように、金融緩和が投機的マネーにしかならなかったようなことを教訓にしなければなりません

    カツカレーや病歴揶揄、差別的世襲批判、漢字の読み間違い探し、テレビの影響力を利用した洗脳工作など、自虐的自己満足などしてる場合じゃありませんよ

    =日本の政治=

    夏の参院選にむけて、なんでもかんでも政局にするのだろうけれど、日本が今直面している問題は、人が変わってもなくなるわけではありません

    領土、国防、原発、エネルギー、不景気、少子高齢化、などなど

    おととしの那智の水害の復興すら、いまだおぼつかないのです

    仕組みを変える、制度に問題がある、などと息巻いたところで、自分に政策実施能力がなければ、結局なにもできないのです
    悪口をいくら言っても、自分が偉くなるわけではないのです

    バラバラな心を一つにまとめるような、鮮烈な活動をして欲しい
    揚げ足取りなどやめて、敵をも味方に変えるような、熱いスピーチをして欲しい
    利害得失や打算も大事かもしれないが、国家がどこに向かっているのか、的確に読みきって欲しい

    =宗教=

    「自分を信じる」必要に、さらに迫られる、のではないでしょうか

    情報化のせいで、いろんな権威の化けの皮が剥がれてしまったのです

    誰も信じるな、とは申しません

    ただ、自分を信じることのできない人は、誰かを信じているようで、それは判断を他人に依存する「おすがり」でしかありません
    「おすがり」は、結局、利用され、踏み台にされて終わる、と言うのが歴史の教訓ですよ

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  65. JAN
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