「心経」に書かれていない部分

「心経」には、書かれていない部分があります

感覚器官である「眼耳鼻舌身意」を、仏教では前五識というのですが、この続き、末那識と阿頼耶識が「心経」には書かれていません

書かれていないのですから「心経」の説明では省いてもいいのですが、実は、ここから極めて重要なことがわかります

「空」の中には「眼耳鼻舌身意」は「無い」>>「心経」

しかし、末那識と阿頼耶識については「無い」とは書いていない

つまり、空の中に、末那識と阿頼耶識は、あるでもないでもなく、Entanglementな状態で存在している

「心経」では「眼耳鼻舌身意」は遠離されるべき転倒した夢想なのですが、末那識と阿頼耶識はそうではないことになる

この、「空」のなかで「不生不滅、不垢不浄、不増不減」な末那識と阿頼耶識が、死後の世界の存在の核、あるいは、輪廻転生の核となっているのです

 

末那識(まなしき)と阿頼耶識(あらやしき)については、ざっくりと、XのGrokで調べても出てくるので、のせときます

末那識(まなしき)

意味: 末那識は「意識」とも呼ばれ、8つの意識(八識)のうち7番目にあたります。サンスクリット語では「マナス(manas)」と言います。

役割: 末那識は自我意識の根源であり、「我」という感覚を生み出す働きを持っています。常に自己を中心にして物事を捉え、執着や分別を生み出す原因となります。この意識が働くことで、「自分」と「他者」や「外界」を分けて認識するようになります。

特徴: 末那識は阿頼耶識に依拠して活動し、阿頼耶識に蓄積された「種子(しゅうじ、潜在的な傾向やカルマ)」を元に自我を形成します。そのため、迷いや苦しみの原因ともされています。

例: 「これは私のもの」「私はこう思う」といった自我に基づく思考が、末那識の働きによるものです。

阿頼耶識(あらやしき)

意味: 阿頼耶識は「蔵識」とも呼ばれ、8つの意識の8番目、つまり最も深い層にあたります。サンスクリット語では「アーラヤ・ヴィジュナーナ(ālaya-vijñāna)」と言います。

役割: 阿頼耶識はすべての経験や行為の「種子」を貯蔵する倉庫のようなもので、過去のカルマや潜在意識を保持しています。これが現在の意識や行動の基盤となり、また新たな行為によって新しい種子が蓄積されていきます。

特徴: 阿頼耶識自体は善でも悪でもなく、中立的な働きを持ちます。しかし、そこに貯蔵された種子が他の意識(特に末那識)に影響を与え、迷いや苦しみを生み出すこともあります。悟りに達すると、この阿頼耶識が清浄なものに転換するとされます。

例: なぜか理由もなく特定の感情や癖が湧いてくるのは、阿頼耶識に蓄積された過去の種子が影響していると考えられます。

関係性

末那識は阿頼耶識に依存しており、阿頼耶識に貯蔵された種子を「自分」というフィルターを通して解釈します。

唯識思想では、これらの意識を理解し、末那識の自我執着を離れ、阿頼耶識の種子を清浄化することが悟りへの道とされています。

まとめ

末那識: 自我意識を生み出す「意」の働き。

阿頼耶識: すべての経験やカルマの種子を貯蔵する「蔵」の働き。

例えば、今、「富士山を思い浮かべてください」と言われたとします

頭の中に、富士山の姿が浮かんだと思います

その時、理屈を言えば、自分という意識を作っている末那識が、意識や記憶の貯蔵庫である阿頼耶識から富士山の記憶を選んで、思い浮かべた、ということになります

で、実は、この末那識と阿頼耶識は死んでも失われません

「空」は不生不滅ですから

「心経」が書かれた目的は、苦と厄を解決することですから、「心経」に特に書かれていないということは、末那識と阿頼耶識は、問題解決の役にはたたないみたいですね

むしろ、問題の原因となっている

それで、仏教では、輪廻転生すれば単純に問題が解決して苦しみが無くなる、とは考えていないのです

図式化すると、眼耳鼻舌身意は「色」にあり、末那識、阿頼耶識は「空」にあります

死んだら、つまり、「色」の部分がなくなるわけですが、末那識、阿頼耶識は「空」ですから不生不滅で、そのままです

人間死んだらそれでお終いということではないですが、自動的に幸せになることもなさそうです

縮めて言えば、「空」の中には有象無象、いろんなものが蠢いているのです
いわゆる、不成仏の霊、悪霊、魑魅魍魎から始まって、佛菩薩、数多の神々に至るまで、ピンからキリまでいるということです

 

それで、貴方が救われるためには、「空」で貴方を待ってる存在が必要です

だれでもいいわけじゃありません

一切の苦厄を解決した先達である、「心経」で言うところの、涅槃にいる三世諸仏でなければなりません

それで、「心経」の最後には三世諸仏に繋がる咒が、お釈迦様によって説かれているのです

ボンヤリとあてもなく瞑想しても、やはり、あてはないのです

誰が自分を救うのか、きちんと見定めてください

 
そもそもの話
人間は、悟りをひらいて佛となれるのか?
 
これは、日本仏教は、伝教大師以来、大乗仏教ですので「一切衆生悉有佛性」で、誰でも「いつかは佛となる」という立場です
 
ところがですね、伝教大師以前の日本仏教の一部では、「佛となれる人間と、なれない人間がいる」という説の仏教もありました
タイやミャンマーなどの上座部仏教は、この「なれない人間もいる」派です
 
キリスト教やイスラムなど一神教は、人間と神は絶対的に違う存在で、なるならないなど議論もされません
まあ、佛は「世界の創造者」ではなくて「完全な理解者」ですから、比べにくいですが
 
となると、「いつか佛となる」というのは、案外少数派です
 
「一切衆生悉有佛性」は、涅槃経に書かれた言葉なのですが、お釈迦様のお亡くなりになる間際の遺言です
しかも、涅槃経には、時代や地域で色々な異訳本があるのですが、南方に伝わった涅槃経には「一切衆生悉有佛性」は書かれていません
いよいよ「いつか佛になる」のがあやしくなってきます
 
「心経」に限っていえば、「苦厄からの解放」が目的ですから、この議論の結論にこだわらなくてもいいのでしょう