吉宗ものしり帖 宝永2年(1705)10月6日22才で藩主となりました この年、将軍綱吉から「吉」の一字をもらい吉宗と名乗りました 正徳6年(1716)将軍となる 33才
開運 吉宗の修理した本尊 精神 吉宗寄進の香呂 ふるさと 吉宗桜 |
開運の寺、長保寺
長保寺の本尊釈迦如来は、吉宗が藩主の時に修理されました
その二年後に吉宗は将軍になったのです
紀州が生んだ将軍・吉宗とは、 かくなる人物でござる。
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徳川吉宗像 徳川記念財団所蔵
紀州藩主から、江戸暮府中興の立役者となった八代将軍徳川吉宗。 その波瀾に満ちた人生は、深い興味を誘います。 吉宗の生き方が再び注目され始めている今日、 彼にまつわる幾つかの出来事を通して、 そのユニークな人物像に迫ってみましょう。 |
二代藩主光貞の四男坊。 五歳までは、家臣の家で 育てられる?
吉宗は、貞享元年(1684)十月、徳川 御三家のひとつ紀州藩の二代藩主・光貞の四男 として生まれました。母はお由利の方という女 性だったと伝えられています。生まれるとすぐに 吉宗は、岡の宮(刺田比古神社)の神主の手を経 て、家臣である加納五郎左衛門の屋敷へ送り届 けられました。この屋敷で吉宗は五歳まで育て られたといわれています。立場の弱い、部屋住み の四男坊。しかし数々の運命と吉宗自身の才覚 が、八代将軍への道を開いたのです。 |
大人たちを驚かせた、 数字に明るい、いたずらっ子。
これは吉宗が六歳の時のエピソード。二の丸 大奥に通じる廊下の障子に、指で穴をあけるい たずらをしたそうです。その後、職人が修理に必 要な紙の量を見積もっていると、どこからか吉宗 (幼名源六)が出てきて「紙は五帖で足りるぞ」 と言ったとか。実際その通りで、驚いた職人がた ずねると、「簡単なこと。あげた穴の数を覚えて おいただけ」と答えたそうです。後年、経済政策 などで驚くほどの数字への強さをみせた吉宗ら しい逸話といえるでしょう。 |
身長180㎝を超える大男。 勇猛なエビソードは数知れず。
儒学や和歌より、もっぱら 法律や算術などに興味を示す。
「一汁三菜」の倹約で、 武土の精神を引き締める。
吉宗が藩主になった頃(宝永二年、1705)、武士たちの生活は派 手だったようです。そこで吉宗は、藩主自ら先頭 に立って倹約を推し進めました。着物は木綿、食 事は朝夕の二回とし、献立も「一汁三菜」としま した。この質素倹約と武芸の奨励によって、武士 たちの精神を引き締めたのです。 |
人々の意見に直接耳を傾けようと、 「目安箱」を設置する。
目安箱への投書をきっかけに、 「小石川養生所」を開設。
吉宗はまた、人々のための無料療養施設とし て「小石川養生所」を設立しました。そのきっか けとなったのは、目安箱に入れられた一通の意 見書でした。投書したのは、小石川伝通院前で 町医者を開業していた小川笙船という人。「貧 しい人や身寄りのない人のために病院を」という 声に、吉宗はさっそく応じたのでした。養生所で は、診療費、食費などはすべて無料で、衣類も支 給されました。そのため利用者は年を追って増 え、開設当初は40名だった定員も、のちに117名に増員されるほどでした。 |
優れた才覚を見込んで、 大岡忠相を江戸町奉行に抜てき。
将軍吉宗は積極的に多くの人材を登用しま したが、中でも最も有名なのは「大岡越前守忠相」でしょう。テレビや映画などでお馴染みの人 物ですが、山田町奉行(伊勢・志摩)時代に吉宗 に見込まれ、江戸に戻り御普請奉行を務めたあ と、江戸町奉行に任命されました。その時、41 歳。町奉行のほとんどが60歳過ぎの者だった当 時、それは大抜てきといえるものでした。それも 彼の能力が極めて高かったためで、享保の改革で は、吉宗に率直に意見を述べ、江戸城下の防火 対策や経済対策など、実務面で大いに活躍しま した。 |
藩主・吉宗は、 どんな生活をしていた?
藩主となってから吉宗は、 それまでの質素な生活を変えよう とはしませんでした。 羽織も下着も木綿 を着用し食事も以前と同じ。 料理には高価な「初物」では なく、風味も栄養価も高いことから、 必す「旬」のものを使うように命じました。 藩主自らガ倹約を率先することで、従来の贅沢 な気風を改善しようとしたのでしよう。 |
吉宗時代の和歌山。この国では 人と自然が何よりの自慢でござる。
温暖な気候と豊かな自然、そして雄大な黒潮の海に恵まれた紀州では、昔からミカンや醤油などの伝統産業が 盛んでした。また大坂と江戸を結ぶ海路の中間点としても、大きな役割を果たしていました。徳川御三家として、 幕府内でも重要な位置にあった紀州藩の、当時の模様を眺めてみましょう。(監修/安藤精一) |
農業支援策が徐々に実を結びはじめる。 城下町も多くの人々で活気づいていた。
この頃の、農民の暮らしはどうだったのでしょう。大畑 才蔵が記した「地方の聞書」によれば、年貢の負担が大 きく、また三年に一度は不作に見舞われていたらしく、 質素倹約に努めなければならなかったようです。しかし 吉宗が進めた新田開発や用水工事の充実により、この頃 から農業環境は徐々に改善されていきました。 町の様子をみてみましょう。城下の町割は、和歌山城 の天守閣を中心に武家屋敷を置き、商人町は主要道路 や外堀に沿って並び、職人町を反対側に配置していました。 全体的にきちんと区画整備された、美しい街並みだった と伝えられています。通りに は商品を天秤棒にかけて売 り歩く、様々な行商人の姿 がみられました。和歌山城 の北側にある寄合橋のあた りは、かつて昌平河岸と呼 ばれ、露店がずらりと並ぶ 繁華街でした。吉宗も、若い 時分には二~三人の家来を 連れて、賑わいを楽しんだと いわれています。 |
たびかさなる江戸屋敷の火事や 藩主の交代で、藩財政は火の車。
吉宗の時代、江戸の中屋敷は四度も焼失したため、そ のたびに建て直しが必要でした。また兄の綱教が将軍綱 吉の娘鶴姫と結婚した時や、綱吉が紀州藩中屋敷を訪 れるたびに、屋敷を新築したり調度品を新しく揃えた りしたので、これもまた大変な出費となりました。 それだけではありません。宝永二年(1705)には、 父光貞、兄綱教、頼職が相次いで死去し、その葬儀にも 多大なお金がかかりました。もちろん一年おきの参勤交 代の費用も大きな負担となりました。そのほか寛文八年 (1668)には大干魃が、宝永四年(1707)には大 津波が起こるなど天災による被害も続きました。このよ うな出費がかさみ、吉宗が藩主になった頃、藩の財政は 極度な危機状態にあったようです。 現在の花見の風習は、吉宗が上野の山にソメイヨシノを植えさせたのが始まりです。 |
豊かな紀州の風土に育まれ、 様々な伝統産業が発展する。
紀州廻船などの海運をはじめ、 漁業も充実。
紀州は、経済の中心地大坂と、政治の中心地江戸を 結ぶ海上交通路の中間点として重要な役割を果してい ました。元和年間(1615~24)には、最初の紀州 廻船が誕生し、その後、酒を運ぶ樽廻船や諸荷物を運ぶ 菱垣廻船となり活躍しました。 また漁業も、イワシ漁やカツオ漁などにより、紀州漁 民は四国・九州・関東など全国に進出していきました。 そして熊野大地浦では、船団による捕鯨が盛んに行わ れ、その歴史は今に受け継がれています。 |
紀州独自の文化が育つ中から、 数々の偉人が誕生する。
近世の紀州文化を語る上で、紀州が徳川御三家のひ とつであったことは大きなポイントとなります。というの も大きな権力が認められている分、幕府に対してある程 度の独自性をもつことが可能だからです。例えば幕府が 朱子学を奨励したのに対し、紀州藩は朱子学・古義学・ 復古学までを採り入れ、独自の折衷学をつくりあげま した。そんな気風の中から、榊原篁洲や仁井田好古など の折衷学派の人物が生まれました。 また絵画においても紀州文人の活躍は目ざましく、近 世の日本文人画を語る上で、祇園南海・桑山玉洲・野呂 介石の三人は欠かせない存在となっています。吉宗も学 問を奨励し藩主就任後には、かつての住居であった伝法 屋敷に講釈所を設け、広く人々に開放しました。 そのほか自然科学の分野では大畑才蔵・井沢弥惣兵 衛が、医学の世界では世界最初の全身麻酔による手術 を成功させた華岡青洲などが輩出しました。 |
リンク
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 徳川吉宗
参照資料
和歌山県知事公室 広報公聴課 「紀州 吉宗ものしり帖」
和歌山県立博物館 「八代将軍 吉宗と紀州徳川家」