マハトマガンディーブリッジよりの日の出 |
宗教は、実は誰にとっても一番身近にある。日本の場合、ほぼ型が出来上がって、黙っていても社会慣習でそれなりのことが出来るようになっているところがある。葬式、法事、墓参り、など、一応宗教であるけれど、実際は「しきたり」でやっているに過ぎない一面もある。ただ、長い間かけて作られた伝統はそれなりの良さも持っていて、社会に違和感なく溶け込んでいる。ムキになって異議をとなえる程のこともないかのように自然なものになっている。
それでも、改めて、肉親の死であるとか、自分の死に直面したり、解決の糸口の見えない苦しみや、やり場のない空虚感に捉えられてしまった時、本当の意味で、自分の持っている、世界を認識する根本的なスタイルが問われる事になる。
死んだ後どうなるか、本当のところは誰にもわからない。あの世に行くのか、それで終わりか。どちらかと言えば、あの世がある事など証明のしようがないのだから、終わりであるとするのが常識的な線であるようにも思える。極楽に行くとか、地獄にいくとか、死後に別の世界があるという説は、地球が太陽の周りを回っているという説ほどの説得力も無いし、支持も得ていないかもしれない。地球と太陽の関係など、はるか宇宙の彼方から望遠鏡で覗いて確認した訳ではないが、広く常識として認知されている。しかし、何を措いても一番大切な、自分自身の死後の事については、当分一致する見解は出てきそうにない。
何によっても証明されないことを、無批判に信じ込むのが宗教だという考え方が根強くある。宗教が「しきたり」化した日本社会で、素朴かつ保守的に「しきたり」を守るのも一つの宗教行為ではある。それでも、私のように内側から寺院や宗派を眺めてみると、いい加減な「しきたり」が多いのに呆れる。贅肉を刮ぎ取ったら、今の日本の宗派に、いかほどの骨格が残るのであろうか。
死後どうなるか、まるでおとぎ話や説話をあたかも本当のことであるかと信じ込むかのように、好き勝手な物語を信じこんで事足りるとするのであればそれでいい。あるいは、証明されていなくても、真実があるとも言えるわけで、真実を証明出来ない無知を知らなければならないのかもしれない。何れにしても、知性や、経験の及ばない所に「死後」はある。
さて、死んだらどうなるか。死んでみてからのお楽しみということになる。念仏を称えた人は、極楽へ行くかもしれないし、イエスを信じた人は神に迎えられるのかもしれない。あるいは、何もない無に帰るのか。
ところで、「明日」について我々は何かを知っている。その次の日についてもある程度。1年後については、朧気に。10年後はどうだろうか。100年後は。
正直に考えてみれば当然のことながら、未来のことについて、ほんとうに確信の持てることなど実はあまりない。「死後」のことよりは知っていると言えるのだろうか。たいして知らなくても、慌てずに生活している。
今、地球上には地上の全てを破壊し尽くしても余りある核兵器が貯蔵されている。生命科学が、制御不能のウィルスを作り出すかもしれないし、種としての人間を崩壊させるかもしれない。地球や人類の破滅は、ありえる話である。地球規模の死と、隣り合わせに地球の生命がある。人間は破滅するかもしれないし、生存を続けるかもしれない。生存を続けたとしても、ひょっとしたら、はるか遠くの未来に宇宙の終焉があるのかもしれない。地球の終わりは容易にイメージできるが、地球の生存のイメージは実のところなかなか難しい。難しく考えなくても、どんなに優れた芸術や美徳でも永遠に残る物などなさそうである。
いずれ、全てのことは無に帰るのかもしれぬ。全ての最後に無があるのなら、意味のあることなど成立しないのか。遠い、或いは近い、未来にどうなるかは、どのみち分からない。
アジャンター石窟壁画 |
大事なことであっても、理解することのできないことが厳然としてある。死について、未来について、確信などどこにもない。まるで、闇である。我々は、闇に向かって進んで行くだけである。我々は必ず闇に行き着く。生ある限り、必ず死ぬ。未来において確実なのは、いつか死が訪れるということだけである。あるいは、宇宙そのものも闇に行き着くのか。それならば、生に意味はあるのか。
行き着くところ、善も悪も無意味で、正義も真実もその場しのぎの勝手な思いこみに過ぎないということになるのだろうか。判断の基準は、好き嫌いと動物的感覚だけなのか。善や正義は、生物が環境に適応する歴史の中で、より確実な生存環境を求めてプログラムされたものに過ぎないのか。
死は闇である。理解の向こう側にある。拠り所のない、無価値な生活も闇である。我々は底知れぬ深い闇の中にいる。それだけは間違いない。信仰によって光明に導かれるかもしれないし、闇のままかもしれない。信仰があってもなくても、闇は恐怖の対象である。我々は光明を求めている。
闇について思いを巡らす必要はない。思いが届かぬから闇なのである。それならば、闇の中に安住したいのか。闇の中に心地よさがあるのか。喜びや充実があるのか。闇はわざわざ求めなくても、いつでもどこにでもある。しかし、我々には、光明が必要である。光明はどこにあるのか。偽りのない、本物の光明はあるのか。探せば見つかるものであるのか。
闇を見つめる必要はない、光明を探そう。
人間には動物的な感覚が生まれながらに備わっている。目、鼻、耳、舌、皮膚である。あるいは、勘の鋭い人にとっては、これに第六感が加わる。この感覚器官を使いながら、我々は外界を認識している。外界と認識は別物である。認識されたものから、人間の場合、意味の一面を抽出し、言語、絵画、彫刻、音楽、舞踏などによって表象させ、他の人と相互に交換している。動物の行動をよく観察すると、シンボル化を経ない意志の疎通も行われている様である。未加工の認識や、シンボル化された表象のうち、印象に残ったものは記憶として蓄積されていく。
シンプルに図式化して言えば、人はそれぞれ皆、心の中に鏡を持っている。外から感覚器官を通じて入ってきた信号は、鏡に映る影のようなものである。
{外界}-*->感覚器官-*->《[認識]=*=>{抽出-*->表象化}》-*->交換
↓
蓄積
{信号}-*->→《[影]=*=>{シンボル}》-*->交換
↓
蓄積
《 》で囲まれた部分が、蓄積可能な部分である。まとめて印影とする。
=*=>が抽象化の作用の部分である。
*
は選択的意志作用である。人間を自然から解き放ち、完全な自由を可能にした、分かれ目である。妄想を生み出す我執でもある。この力が強ければ、自由意志が強くなり、弱ければ動物に近くなるとも言える。あまりに強烈な力も苦悩をもたらす。*は我執であるが、自己を自己として存在せしめる究極の自意識である。
シンボルの交換は*が介在しているので、誤解や改竄の危機に常にさらされている。どのように巧妙なものであっても元々の認識そのものにはならない。あくまで近似値である。
あなた自身と、ほかの人は、シンボルだけでお互いを認識している訳ではない。常に全体の印象で、お互いを認識している。
蓄積<-*-《印影》<-*-【{信号}…{信号}】-*->《印影》-*->蓄積
【 】が入れ物としての世界であり、宇宙である。ここには、物質も精神もシンボルもすべて一緒くたにして存在している。ありのままの自然である。
蓄積は記憶でもあるし、*とともに時を刻んだ業でもある。
記憶<-*-《印影》<-*-【世界】-*->《印影》-*->記憶
それぞれの印影は確固として独立している。似たような印影が形成されていない限り、仲間や友とはなれない。他人は敵にもなるし、味方にもなる。*で分断されている。
生ける者全て、強弱の差こそあれ*で世界から分断されている。
*は世界そのものとの分かれ目であるから、「死」によっても消滅しない。死によって失われるのは、信号を受け入れる感覚器官とその周辺部だけである。蓄積された記憶から、再び自己を再生させる。これが転生である。
*は永遠に世界とは別物である。分断する力そのものであるからである。静かに世界に溶け込む、などということは無い。
どのような質の記憶が残されたかが、転生を特徴づける。
これを天台学では
とし、【器世間】は仏界であると言う。【器世間】には天国もあれば地獄もある。修羅もいれば、人間もいるし、神もいる。戦争もあれば平和もある。生もあれば死もある。嘘も真実も、浄も不浄もある。右も左も、有も無もある。闇もあるし、光明もある。
相対立する諸々のことが、同時にすべてある完全な混沌であり、原初の状態である。
地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天・声聞・縁覚・菩薩・佛の十の世界に一応分ける。それぞれが内部に十の世界を持っている。これが己界・仏界・衆生界とあるから10×10×3で3000世界となる。一念三千と言う。
【器世間】イコール「仏界」であるという説を、本覚論ともいう。本来的には覚っている世界の中で我々は生きている、という意味になるが、単純な性善説ではなく、理解される以前の世界が仏界である。
理解される以前の根元の世界は、鏡に映って初めて存在が確認される。鏡に映るのは受動的作用であるので、「来る」と表現する。世界は先ず来なければ認識されないが、来ていても意識しなければ鏡には映らない。根元の世界を「如来」とする。如と言うのは、右とか左とか、表象化される前の状態であるからである。
宇宙の生成という概念があるが、そもそも表象化されていないという事は、始まっていないという事である。始まっていない以上、終わるといこととは無縁である。「一切諸法本不生不可得」とも言うし、「空(くう)」とも言う。
本当の宇宙そのものには、始まりもなく、終わりもない。過去、現在、未来もない。
死は今の「私」の終わりである。新たに始まる「次の私」は、もはや「私」とは違うとも言えるし、衣替えした「私」とも言える。「次の私」が「今の私」を思いだしてくれるとは限らないことは、自分の経験からでもいえる。あるいは、好き嫌いや性格などは、過去を伺う手掛かりなのかもしれない。
誰かを憎んだ記憶は、いずれ自分自身を深く傷つける。うち倒した敵や、傷つけたか弱き生命は、いずれ復活して立ちはだかる事になる。
愛情や思いやりは、今は帰ってこなくてもいずれ自分の元に帰ってくる。
喜怒哀楽、浮沈、禍福、幸不幸、運不運、苦楽を繰り返すのが人生である。
つまり、ここから導き出される処世訓は、「人を傷つけず、愛情深く生活する者に、ささやかな幸福がある」という事である。同時に、生き物を殺して食べて生きていく我々の生き様は、罪深く、深い恨みを買うという事でもある。
結末が望んだものになるかどうかは分からないが、怒りを含んだ者に出会ったら、許しを請うしかない。また、自分の中にある怒りを棄てなければ、いずれまた新たな怒りに出くわすことになる。
この様な考え方からは、人生訓や処世訓を導き出せるかもしれないが、根本的な問題解決には至らない。自我が存在すること自体が、諸悪の根元である。永遠に苦楽の波涛から逃れられない。
仏教とはつまり
【空】-*->《私》-*->業
という図式を
【空】-0->《私》-0->【空】
という図式に変えるのが目的である。
0の獲得によって、究極の生命進化が達成される。流転の波涛に翻弄されることに終わりを告げることができる。
【空】-0->《私》-0->【空】
はつまり
【空】<-0->《私》<-0->【空】
である。
*から0への転換はつまり、「我執」から、反対概念である「慈悲」への転換である。
【空】-我執->《私》-我執->業
から
【空】<-慈悲->《私》<-慈悲->【空】
に転換するのが仏教の目的である。
これには前段階として
【空】-慈悲->→《私》-我執->【空の形成・成長】
というプロセスが必要になる。
「慈悲」を獲得する為に、巡礼、礼拝、聖典読誦、念仏、座禅、三密加持、戒律の遵守などが行われる。よき師に出会えればそれにこしたことはないが、混沌とした闇の中には全てが含まれているのだから、その気になれば徐々に慈悲を見いだすことはできる。
いままでの仏教修行はともするとカッコをまねる事に終始したきらいがある。立派な言葉を暗記したり、所作を習ったり、しかめ面して座禅したりしても、「慈悲」を獲得し、「慈悲」を行うという一点が理解されていないから、脱線するのである。
仏教の目指しているのは、神に従うことではない。小さな自分自身が「慈悲」で満たされ、自から進んで「慈悲」を行うことを目指しているのである。
萩原朔太郎の書いた文章で、印象に残っている一節がある。
「釈迦は王子として生まれ安楽に生活していたから、6年苦行しなければならなかった。イエスは馬小屋で生まれたから、荒野を40日さまよっただけで真理に到達した。」といった意味だったと思う。
予言によって、イエスが生まれて王位を脅かされると知っていたピラトは、予言された日に生まれた赤ん坊を全て探しだし、皆殺しにした。その時難を逃れたイエスも、結局殺される。そのような土地だからこそ、選んで生まれたのだとも考えられる。
聖徳太子も馬屋で生まれたそうだ。この人には幸い格別の苦労はなかったらしいが、太子の死後、一族は政争に巻き込まれ、一人残らず根絶やしに殺されてしまう。
ブッダガヤに今ある大塔は、13世紀初頭、不殺生を信奉する仏教徒達がイスラム教徒に追われた時、戦いを放棄し地中深く埋めて逃げたので残っている。1880年にイギリスのカニンガムによって地中から発見された。500年間地中に埋もれている間に、仏教徒は一人残らずインドから消えてしまった。イスラムがしばらくインドを支配した時、仏教に関わる施設は徹底して破壊された。仏教はヒンドゥー教の中に僅かに痕跡を残しているだけであったが、ようやく最近、復活の兆しを見せ始めている。
ブッダガヤ大塔 |
涅槃会の準備をする比丘尼 |
今、釈尊の聖跡のあるインドのビハール州は、農業地域であるがゆえにインドの中でも最も貧しい地域になってしまっている。インドでは法律によって、州から州への移住が制限されているので、農民達が貧しさから逃れるのは非常に困難である。カーストによる差別も厳しく、識字率も低い。女性が識字学校に通うのには、今でも勇気がいる。コーサラ国やマガダ国の繁栄は農業を基盤としていた。近代産業社会に乗り遅れたビハール州には、もはや昔の面影はない。
東京ディズニーランドに遊びに行った人は多いと思う。私も、ミッキーと握手してきた。ミッキーはネズミである。我々の普通に生活する身の回りで、ネズミより小さく弱い動物はおそらく無いと思う。ディズニーが作ったのは、一番の弱者が主人公の、愛の物語である。
資本主義社会は、強い者が勝ち残るための仕組みである。この社会で勝ち残ったからと言って、真実に近いわけではない。むしろ、踏まれ、虐げられている者にしか見えない真実がある。弱く貧しい者にしか見えない世界があることを忘れてはならない。強さに対する過信からは共感は生まれない。共感がなければ、慈悲はない。
慈悲を求めるなら、勝ち残ることだけが道ではない事を知らねばならない。
真言念誦の前後に仏眼の真言を念誦するのはなぜか?
大日如来はなぜ人間の形をしているのか?
真言はなぜ、ほぼサンスクリット語の文法に従っているのか?
天台宗と真言宗で、同じ真言でも発音が違う時があるが、それでよいのか?
同じ仏でも、伝承によって様々な形があるのはなぜか?
等々。これらの疑問はすべて、最初の仏眼の問題に帰着する。仏眼で見るとは、行者が自分の心中に法界を象徴的に把握することである。密教はナーガルジュナに始まることになっているが、つまりは大日如来を中心とした宇宙観はナーガルジュナによって象徴的に把握された法界の姿である。
釈尊の在世中は、言葉が体験を説明する道具に選ばれた。そして、より高度な精神の交流は言葉を越えた次元で行われた。それを、ナーガルジュナが三摩耶という象徴を使う方法を発見し、釈尊からの伝承を説明することに成功した。三密とか加持とかいう概念は、インド的論理の洗練の中から洗い出され、密教に取り入れられた。
密教では灌頂が絶対に必要だが、たった一つの正しい精神の伝承を受け継ぎ、ナーガルジュナの見いだした象徴の形と意味とを正しくつなげるには、正しい僧団に所属しなければならないからである。灌頂は単なる儀式ではない、僧団への入団式である。
密教の歴史は、ナーガルジュナから考えればすでに1500年位ある。その間に、悉地を成就した天才達によって新たな象徴が発見され、時代にあわせて整理されてきた。実は天台宗の開祖もナーガルジュナだ、ということになっている。当然のことだが、釈尊の境地は一つしかない。言葉による伝承の道を歩めば天台となり、象徴を借りる道を歩めば密教となる。象徴を借りる方法は、非常に繊細な感覚を精密に描写できるため、様々に拡張されてきた。言葉を象徴の一種としてとらえれば、言葉による伝承の方法は眼耳鼻舌身意の象徴全部を動員して説明する密教にはかなわない。
天台宗と真言宗はどちらもナーガルジュナから発する密教の流れを汲んでいる。やっていることは極めて似ている。違いを探す方がたいへんである。しかし、もうすでに1200年の間、別々の僧団で熟成を重ねてきた。両方の象徴を同時に使うことは、もう出来ない場合もある。天台宗の大日如来は、恐らくは慈覚大師の心中にある姿である。釈尊の境地が示されている。天台大師も観普賢経などを根拠に、釈尊と大日を同一体と考えていると思う。真言宗の大日如来は、当然ながら弘法大師の心中にある姿である。弘法大師にとっては、釈尊も宇宙根元の大日如来の一部である。
全国に数万軒の寺院があるが、本尊は様々である。本尊にはそれぞれ始まりがあり、意味があり、歴史がある。無数の人々の心の中に生き続けている。本尊の真の姿は、心の中にある。道を求めるには、自分の心を見つめるしかないのである。
新年にあたり、なにか新しい企画をと思い、法話のリンク集を作ってみました。
私がインターネットを始めた、3年程前とはうって変わって、充実したページが多くなってきたようです。大きな書店にいけば宗教や精神世界のコーナーがあり、膨大な書籍が並べられて、立派な本がたくさんあります。正直に言えば「これらの本を読まなければ、賢くなれないのか。しんどい。」という脱力感を感じます。しかし、インターネットの中にある文章は比較的短く、読みやすいものばかりです。今のところ、長文は紙の出版に回されるようです。
インターネットの中の文章を読んで、意見や質問があれば、遠慮なく著者にメールを出してみてください。大抵の人が丁寧な返事をくれます。インターネットは、本のように読みっぱなしではありません。直接のやりとりが簡単にできます。読むという感覚よりも、ページに参加するといった感覚でしょうか。いままでなかったものだと思います。まだ、我々はそういった感覚に不慣れですが、新しい大きな可能性を感じませんか。
さて、鐘声では折りに触れて、法話リンクにあるページについての感想を書いてみようかと思います。
第一回は、Buddhist Women Online Indexにある水子供養について。
水子供養は今やどこの寺でもやっています。隣の寺のまねをして始めた、という寺も多いんじゃないかと思います。長保寺では表だっては承ってはおりまんせが、私も頼まれて水子供養をしたことが何回かあります。境内の霊園には水子地蔵がたくさん建てられています。
私の寺は、仏像が多いのでいっぺんに全部拝めません。順番に念入りに供養しています。不思議と地蔵菩薩の供養を念入りにしていると、急に見ず知らずの女性から水子供養を頼まれる事があります。それぞれ、たいへん印象深く記憶に残っております。
中絶したその日に、供養してほしいとやってきた女性がいました。フラフラと歩いていました。急な事なので、準備をする間、待ってもらいました。顔色が悪いので尋ねると、今日中絶してきたということです。照れ笑いをした男の人が付き添っていました。もちろん、この男の人が父にあたるとは限りません。話をする時は、慎重に言葉を選びます。なぜ長保寺に来たのか聞いたら、大きくて有名な寺だからという返事です。「供養料はおいくらですか」とぶっきらぼうに男の人に聞かれ、のどまで言葉が出かかりましたがこらえました。それでも供養が終わって帰る時は、本当に安心して、それでもフラフラと帰るのです。
やはり男の人と二人でやってやってきた女性がいます。とてもかわいい女性です。男の人はおろおろとしていました。さてこれから供養しようという時、この女性がちょっと待ってくださいと言いました。そして胸に抱いたハンドバックからなにやら取り出しました。手にとって見ると、小さなガラス瓶に入れられた胎児です。抱きしめていたためか温もりがあります。心底ギョッとしましたが、平静を装いました。それをお地蔵様の足元において供養しました。この赤ちゃんをどうするつもりか聞いたら、家の裏庭に埋めるということでした。
私なりに感想を言えば、水子の霊と言われるものがあるかどうかはわからないが、水子の供養はある、ということです。中絶に至るには、それぞれ色々な事情があります。それがどの様な事情であれ、中絶は当人と周囲の人に大きな精神的苦痛をもたらします。この苦痛は、何によって癒されるのでしょうか。信仰と祈りによって癒そうとする人が、圧倒的に多いのです。他に方法があるのでしょうか。
金と引き替えに「癒し」を買おうとする人がいることも事実です。これは、実際の所、水子供養に限ったことではありません。責めるのは簡単です。金で心の癒しを買おうなどど、愚かな救い難いことかもしれません。救い難い事かもしれませんが、救いが無いからこそ、今は祈るしかないのではないでしょうか。
これからも中絶のある限り、水子供養もあるということでしょう。あなたは、どうお考えになりますか?
天台大師の法華懺法の一番最初に
我が此の道場は「帝珠」の如し
十方の三宝(仏法僧)が中に影現す。
我が身も三宝の前に影現し
頭面を足に接し帰命礼す。
という偈文がある。
弘法大師の即身成仏の頌に
重重「帝網」なるを即身と名づく
法然(本来自然に)に薩般若(すべての智慧)を具足して
心数心王(生きとし生ける者の心)、刹塵(数え切れないくらい多く)に過ぎたり
という一節がある。
「帝珠」というのは、宇宙を覆い尽くす帝釈天の網の目の、結び目毎にある宝珠で、お互いの宝珠は、お互いを相互に映し出している。それぞれの宝珠一粒が、皆、宇宙の全てを映し出している。即身成仏頌の「帝網」はこの網のことをさしている。
天台大師も弘法大師も、似たような境地であったことになる。
自心を見極めれば、宇宙の森羅万象が手に取るようにわかるようになる、ということである。
仏教で神通ということを言うが、天眼通(天界を見る)、天耳通(天界の声を聞く)他心通(他人の心がわかる)、宿命通(過去世と未来を知る)、神境通(遠隔地の物を見・聞き・触る)、漏尽通(煩悩が絶たれる)などである。これらはつまり、帝珠に例えられる自心を清らかにすれば(漏尽)、他の帝珠が自心に反映し、自分の事のように法界の全てが明瞭に分かるということに他ならない。
奉仕活動というのは、こう考えてくると、隣の帝珠を磨いてあげることになってくる。隣の輝きは、そのまま反映され自分の輝きになる。奉仕によって救われるのは、隣人だけではない、実は自分も救われる。
この帝珠が何によって汚れるのか、を知ることは、最も重要なことである。帝珠を磨くのを「慈悲」としたら、つまり「慈悲」の反対行為の事になる。簡単に言えば、「暴力」である。だから、ここでは、難しく考えず「暴力」によって帝珠が汚れる、ということにしておく。
さて、では仏教では、最終的な目標である成仏とは、自心の帝珠が完全に清らかになった状態を言うのであろうか。そうではない。帝珠から離れずにいたら、どこかの帝珠が汚れれば、すぐに自分も汚れてしまう。安心も安楽も、極めて不安定になってしまう。
見られる法界側と見る自心側が二つに分かれているのが消滅し、帝網が張り巡らされた法界全てを、静かに照観するのを成仏というのである。成仏とは「完全な目覚め」である。
こちらの岸辺から、あちらの岸辺に渡るように、過去に犯した全ての悪業と、全ての善事、全ての恩愛と富と名声、これらを無差別に一切捨て去って、一糸纏わぬ心になって初めて到達出来る境地である。では、どうすればそうした境地になれるのか。
それを、釈尊が、様々に教え導いているのである。