苦集滅道とは、苦しみ(苦)の原因(集)を取り除く(滅)方法(道)ということで、仏教の根本的な存在理由になっている。
苦しみの無い人には仏教はあまり意味が無いということにもなる。
仏教では我があるから(自分が存在するから)苦を受ける、と考えている。世界を作ったのは誰かとか、苦がどこから来たのかとかはそれほど重視されない。重要なのは苦の除去である。
苦を受ける自分というものが無くなれば、苦も無くなる。それはそうなのだが、自分というものが無くなるというのも、これは辛い。日本で今、自殺者が年間3万人いるそうだが、自分が無くなってしまう辛さよりも、いま受けている苦しみのほうが大きく感じられれば、手っ取り早く自殺という手段をとるということなのでしょう。
これが、「人は転生する」ということになるとどうなるか。我の消滅によって苦を受ける事は無くなるのだが、実際には我は永遠に無くならない。だから理屈から言うと苦も永遠に無くならない。影が体に従うように、生ある限り苦は付いてまわる。死んでもまた生まれ変わって、苦に脅かされることになる。自殺したら、今の苦しみはより大きなトラウマとなって転生したあなたを襲うことになる。
転生によって愛する人との再会も果たすことができるが、恨みを持った敵とも再会するし、何よりも我がある限り苦は無くならない。で、仏教では輪廻転生は苦からの離脱と直接の関係が無いと考えられている。転生が必ずしも進歩を約束するのではない。
最近の転生の研究の成果として、「人は自分の人生を計画して生まれてくる」という認識があるが、物は言い様で、つまりは自分の自由意志で選択した行為の結果として現在があるということに他ならない。ところがこの選択の自由が怪しい物で、過去の鬱積した業にとことん憑依されて選ばされているのが現実である。「因果は巡る小車」で、なかなかここから脱出できるものではないのである。
ここのところがわかっていないと、ニューエイジもなかなか愛憎の谷間から出られなくなる。我の強化、拡大は苦の滅とは関係ないのである。むしろ、まかり間違えばとんでもない惨劇を招くことにもなる。
我は消滅せずに転生を重ねるわけだが、最後にたどり着くとしたら、どんな状態だろう。終着駅があるとしたらそれはどこだろうか。
我というものが究極まで進化完成すると、我が無くなって欲しいのだが、どうにも無くならない。我が有るでも、無いでもない状態。我が限りなくゼロに近い状態。それはなにか。
我が限りなくゼロに近い状態ということは、自他の区別の無い状態。他人の苦しみが我が苦しみ、他人の楽しみが我が楽しみ、森羅万象と我が同化した状態である。つまり純粋な慈悲である。誰かの我欲の実現を助けるのは、慈悲に近くはあるが、純粋な慈悲ではないということでもある。この叡智に満ちた純粋な慈悲を大慈悲心という。
我が有る--->苦が有る
我の消滅--->苦の消滅
我は永遠に転生を重ねる--->我は無くならない--->苦は無くならない
我の進化完成--->我がゼロに近づく--->苦の消滅--->大慈悲心
ですから我々は、好むと好まざるとにかかわらず、選択の余地無く、大慈悲心に向かって転生を重ねているのです。苦痛から離れるにはそれしかないのです。
寄り道、道草、失敗、間違い、後戻り、休憩、など色々とあるでしょうが結局は大慈悲心に向かっていくのです。
その過程では、誰かに助けられているか、誰かを助けているか、このどちらかしかありません。
なにも出来ない、無力だというあなたにも出来ることがあります。
大慈悲の世界には自他の区別はありません、つまり、あなたの心の深層は全ての心有るもの達に慈悲を通して繋がっているのです。ですから、縁ある人々に大きな慈愛の心を送ってください。心の中で縁ある人々を慈しんでください。
心の中で、慈悲とはなにか、慈悲有る行いとはなにかを思い、慈悲が実現されることを祈ってください。よく考えたら、これ以上の価値有る行いはそんなにないんじゃないですか。
2003/1/15
輪廻転生は仏教では成立前からある概念で、おそらくは古代インドでは常識的な考え方であったのだろう。
ジャータカという形で釈尊の様々な前世について語られている。一身を犠牲にし善行をなしながら不条理な殺され方をした前世も何回もある。聖者であった前世で瞑想の木陰を作っていた大きな木が一番弟子のシャリープトラになっているとか、助けた小さな虫が王様になって恩返しするとか、膨大な前世がある。
ヒンドゥー教では釈尊をビシュヌ神の7番目だったか9番目だったかの生まれ変わりだとしている。当然にビシュヌ神は釈尊より上の存在だと言いたいわけだが、仏教の側ではビシュヌ神は毘沙門天で仏教を護る護法善神になっている。
また、過去七仏といって釈尊以前にも仏陀がいたことになっている。時代と共にこれがだんだん増えて過去と未来と三千仏までの名前が書いたお経があって、私なども加行で三千仏名礼といって五体投地を3000回やらされた。
まあとにかく、「人は生まれ変わる」ということを前提に仏教は説かれている。
ただ、前世を思い出すのが信仰の前提であるとか、前世の記憶が必要であるとかの立場はとらない。来世については今生の行為の結果がもたらされるので地獄に行く人もいれば極楽に行く人もいるから、ストレートに迷わず極楽世界に行くように勧めている。
たとえ神に生まれ変わったとしても、延々と輪廻を続けるのは苦痛であると規定している。
思うに口に念仏を唱えても、今生に未練があればまた生まれ変わってくるのでしょう。
仏教では四苦八苦といって苦痛を忌み嫌う。仏の境地とは一切の苦痛のない境地とも言える。苦痛も神の計画、とは考えない。
退行催眠で自分が惨殺された場面を見たいと思う人はあまりないだろう。仏教ではその必要は無いとされている。仏の与える大慈悲力、加持力、神力、観音力によって無量の過去世の業が消え速疾に悉地成就することになっている。
一切の法に自性無く、空・無想・無願なり。ー大日経ー
そこのところを越えたところに仏心がある。仏心とは茫漠とした虚無の闇の中に燦然と輝く太陽であって、この苦痛に満ちた世界を創造した造物主のような存在ではない。
混沌から抜け出た一縷の望み、完全な調和、苦の原因を滅ぼし去った存在、全てを学び終えた智慧、が仏心である。密教で三密加持というのは、仏心を己の魂にコピーする方法とでもいいましょうかね。今生で結果が出ることになっている。念仏は来世で結果が出る。
生まれ変わって素朴に学び続けた場合は、全てを学び終えるのに三劫(約38億3,952万年。 )かかるとされている。
凡夫は、仏の差し伸べた手にすがるのが一番手っ取り早いと気がつくまで、延々と輪廻転生し続けるのでしょう。
2003/01/03