自然石の石段

本堂前の白砂

2000年に創建1000年記念として、比叡山の浄土院に倣って敷きつめた。

長保寺は現在天台宗だが、鎌倉時代頃は真言宗だった。国宝に指定されている本堂・多宝塔・大門は真言宗の時代に建立されている。宗教統制ががんじがらめになり檀家制度が行き渡る江戸時代より前は、宗派が変わることは全国的に日常茶飯事だった。長保寺にいらっしゃる観光客の方によく「この寺は何宗ですか?」と聞かれるが、仏教の中のセクトの違いに目くじら立てるのは時代的な流行であって、普遍的な真実に対してそれほど大きな意味は無いように感じる。お仏壇の前にすわって先祖を拝む、お墓参りをする、葬式に坊さんを呼ぶ、等やっていることに大きな違いは無い。

2003/6/29


 

自然石の石段

自然石の石段 (紀州青石)

初代藩主の頼宣が初めて来た時にはすでにこの石段があった。頼宣は切石を使うなと奉行に命じている。

長保寺のサイト内は相当に奥が深くてわかりずらい。スッキリさせたいのだがどうにもページが増えていくので、なかなか難しいのです。それで、サイト内検索が出来るようにいたしましたのでお使い下さい。

2003/6/22

 


 

 

 

このところアクセス数が急激に増えている。どうもこんどのNHKドラマのロケのせいらしいのだが、検索したりとかファンクラブのリンクからとか、インターネットの威力を感じますね。来年の大河ドラマは新撰組だが、14代将軍家茂のことを検索する人も多い。はるばるこのページを訪ねてくれる人、ほんとにありがとうございます。このページを見てくれた人にお教えしますが、明日も長保寺でロケがあるよ。まる一日撮影しても使えるのは7,8分だそうです。

2003/6/19

 


 

絹糸刺繍蔦葵紋七条袈裟  江戸時代

こんどのNHKドラマのストーリー。よくある話であるのだろう。放送前なので詳しく書けぬが、状況はうちとよく似ている。
ただ、戦時中は徳川さんが疎開していた。また、港に精油所があるので艦載機の空襲でラジオ体操どころではなかった。
瀬戸内という設定で脳裏に浮かんだが、戦争前、先代の住職が近くの寺の住職にと世話した坊さん、四国の丸亀の人であったが終戦の日の二日前に戦死した。婚約者であったと言うおばあさんが最近はるばるお墓を訪ね当てていらっしゃった。ずっと結婚せずに独身で過ごされてきたらしい。
命からがら復員してきたら、空襲で一家全滅していて、一人ぽつんと取り残された人。石段の下に平和地蔵尊を建立した。もう亡くなったが死ぬまでアメリカは嫌いだった。
和歌山市の大空襲の中を逃げまどい、素っ裸で立ったまま死んでいる女性に出くわした話。お経の焼けちぎれた切れ端が山を越えて飛んできた話。色々聞かされました。
長保寺の大門を狙って500キロ爆弾を落としたが、外れて山に落ちた。そこは、今でも抉れた崖になっていて木が生えないでいる。特攻隊が積んでいたのが250キロというから500キロとすれば、ほんまかいなと思うほどどえらい威力になる。仁王さんの力で外れたという人もいるが、まあ、誉めてくれたつもりだから、ありがたく聞いておくことにした。

過去と言えば過去の話だが、生々しすぎる記憶を持つ人はまだまだ沢山いる。こんどのドラマが少しでも供養になればと思う。

2003/6/15

 


 

寂光庭

 

砂の中の石は島にも見えるし、雲海の中の山にも見えるが、砂紋を書いていると人にも見えてきて、砂紋のせめぎ合いが人間関係のようにも感じられてくる。

2003/6/14

 


 

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