イーグルに訊け 天外伺朗
アメリカインディアンの精神性が窺えて興味深い本。
パイプセレモニーって面白そう。完全平等な共同体なのかな。狩猟生活が主体だからじゃないでしょうか。農耕が中心ということになると、階級とか貧富の差とかがでてくるから、難しくなりますね。
それと、非常にインディアンの精神性を高く評価しているわけだけれど、白人の武力に負けたことを考慮しても、本当の宗教性があれば、現代アメリカの競争社会でも芯の強さを発揮して生き抜いていけるはず。ギリシャのエトスと似た話。古代ギリシャにはエトスといって宇宙との関係性が確立していたが敗戦によって文明が滅ぼされて、エトスが失われたというのだが、ほんとにエトスが確立していたのなら敗戦くらいのことで失われるものなんでしょうか。仏教なんかインドで完璧に滅んだけれど、世界中で脈々と伝統が続いているんですよ。
スピリットって光ったり、道案内したりして凄い。けど、僕に言わせれば、スピリットにもピンからキリまでいろいろあるんじゃないかと思う。
スピリットであればなんでも凄いという思い込みは、宗教を考えるうえでは、あまりに幼稚すぎるんじゃないでしょうか。
2004-02-25
今日は上の牡丹の花壇に芝桜を植えた。ちょっと余ったがもう植えるところが無い。これでブロックの花壇がかくれて見えなくなる。
天気がいいのでチーを洗う。ニャーニャーないていやがったが、かまわず手荒にゴシゴシ洗った。室井さんに写真を撮ってもらった時はきれいだったが、どうもあれから調子がおかしくて、喧嘩ばかりして毛もボサボサになってきた。これでツキも変わるかも。
2004-02-21
土塀修理
白壁の土塀の漆喰がはがれ落ちてくるので修理中。漆喰を塗ったうえに油性のペンキを塗ってみることにする。強度が倍位違うと思う。見た目は、説明されて手でさわっても分からないだろう。
漆喰壁は大体1,2年にいちど塗り直さないとはがれてくる。雨だれの落ちるところは黒ずんでくる。ペンキを塗って仕上げておけば剥げ落ちも黒ずみもない。
こうやっていつもどこか修理をしている。
2004-02-17
Jupiter
こうやって書いていると、ほんと僕って散文的な感性ね。ポエジーも叙情もない。Jupiter平原綾香いいですね。声の感じがユーミンみたいになるのね。19歳だって。それで、あの詩。取り巻きのおじさん達は大事に育てて欲しい。
2004-02-14
光の瞑想 解説
光の瞑想に手を加えて読んだだけでも実習しやすいようにした。なにかの参考にとは思うが、細かいことや、実は大事なことでも書かずにいることなどかなりある。
大慈悲の光明が降り注ぐイメージだが、実際はかなり強くイメージできないとうまくいかない。新興宗教や拝み屋にはまった経歴のある人などは、神をかたる化け物的存在が取り付く可能性がある。伝統のあるまともな霊場に参拝したとしても、この手の存在はしつこいから、なかなか本当の仏や神に気持ちが届かなくなる。まともな仏かどうかを見抜ける人が手助けしないと、振り払うきっかけがなかなかつかめない。理屈が先行して瞑想をやっている人は色々なところに平気で出入りするから、本人が気が付かないうちに脱線してしまう。凶暴になるとか、憎しみや怒りが抑えられないとか、猜疑心が強くなるとか、精神分裂病になるとかろくなことがない。
強烈な苦痛を味わって、そこから、自分がいままで罵り嘲り凶暴な暴力をふるった相手から大きな慈愛をそそがれて救ってもらうような経験をする必要があるのかも知れない。とにかく慈悲というものがどんなものか思い知っていないと、どうもほんとうのところはうまくいかないのではないか。一口に言って、徳のある人はここのところはうまく切り抜けられる。ただ,自分がうまくいったからといって、誰でも簡単にうまくいくということではないのである。
瞑想の奥深いところは、縁のある神僧か護法善神が守り導く。偉そうに無宗教を気取っていたら危険極まりない。ハッキリとした信仰心がなくて瞑想するのは眼をつぶってラッシュアワーの高速道路を歩くようなものだ。ニューエイジふうに宇宙の善意とか大自然の心とか言っても、徳の高い祖霊がこっそり守護してくれていなかったら、ほとんど確実に狐・狸・蛇に取り付かれる。ほんとに甘くはないのですよ。
法界定印を組んで座るのは、これは仏教だけのもので、仏教の修行をしていることが明らかなわけで、神僧の加護を得て色々な魔事を避けることになる。総礼伽陀をとなえれば天台の神僧が見守ってくれるでしょう。
目に見えることさえ疑ってかかる時代ですから、このようなことを言ったところですぐに真面目にうけとめてもらえるとも思わないが、大事なところですね。それなりの徳がそなわっているか、きちんとした信仰をお持ちの方で、大慈悲というところが体得できていると突き抜けていけますので、瞑想法をここに書いておけば、いずれ何かの参考にはなるだろうとは思ってはおります。
それと、これは心のバランスを取り戻すための瞑想ですから、なにか具体的な願望をもった瞑想はしないようにしたほうがいい。それは祈願法とか祈祷法とかの類になる。今自分に本当に必要なものは魂の奥底ではわかっているので、ただ光にひたればよいと思う。この光は、キリスト教徒であれば復活されたキリストのお心です。イスラム教徒ならばアラーのお心です。漠然と宇宙の心と考えるのはお勧めしません。人間に国籍があるように、心にも住処が必要です。パスポートもなくジプシーのように心の世界を放浪するのはお勧めできません。色々な国がそれぞれの伝統と主権を尊重して地球が成り立つように、色々な宗教の伝統が共存しているのが本当の姿です。
さまざまな宗教紛争は、地上にある、宗教が生み出した副産物に執着するから生まれるのではないでしょうか。
2004-02-11
初薬師
今日は多喜寺の初薬師に出仕。小さな田舎の寺ですが、檀家さんも熱心でお参りしていて気持ちがいい。天台の拝み方には細かい決め事がたくさんあって、住職になっても、まだまだ覚えなければならないことが沢山あります。けっこう手順を間違えたりしますので、行事が終わったあとは、皆で反省会と勉強会になります。一年の終わりには、いろいろあった行事のNG大賞は誰だ、とか言って盛り上がります。
2004-02-08
言葉にすると
慈悲、善意、善、愛etc言葉にすると、それなりの歴史やら行きがかりやらがあって、実際ややこしい問題を引きずることになる。これらのことについて書かれた本も数え切れないくらいあるだろう。
「美しい花」はあるが「花の美しさ」はどこにあるのだろうか。「美しい花」を押し花にすることはできるし、写真に撮ることもできる。絵にも書けるだろう。それが、「花の美しさ」となると、まさか物差を持ってきて計る人はないと思うが、捉えることができるとすれば言葉位だろうか。言葉で表現したものが必ずそこにあるかというと、これが難しい。哲学的な考察は省くが、あまりあてにはできないというのが結論だろう。
余談だが、悟りの内容について、不立文字という禅宗に膨大な書籍があり、法身説法の密教に案外書籍が無いのはなぜだろうかと興味深い。
さて、ダスカロスも言っているが、塩水の「しょっぱさ」をどう言葉で伝えるのか。これは、塩水を口に含めばわかるというのが結論でしょう。で、慈悲とか善意とか言いますが、自分が先ず愛された経験がないと、どうにもわからんのじゃないでしょうか。本など何冊も読んで理論武装したところで、「絶対的な愛」を経験したことの無い人は、やっぱり「絶対的な愛」はわからんと思うよ。
それをなんとかいたしましょう、と言うのがつまり宗教の目指しているところなのであって、霊能力や超能力は副産物ではあっても目的ではないということになる。
世界は益々狭くなるが、仏教は多神教だからね、目指しているのが「絶対的な愛」なら、八百万の神にキリストとアラーを加えても別段困らないんで、唯一の神が二人も三人も居ちゃ困るだろうけど、この際表現された言葉は横に置いておいて、「この指止まれ」って言いたいところなんですけどね。
こう書いても、別に私が神秘体験を否定しているわけじゃありません。神秘体験から先に書くと、どうにも誤解されてしまう恐れがありますんで、念のため書いてるということです。「絶対的な愛」を経験するのが本当の神秘体験、とも言えますね。
2004-02-07
那智
那智は熊野三山があって、もともと霊域だったとも考えられますが、どうなんでしょうね。私は、霊域と呼ばれる地域は日本全国にたくさんあるわけで、熊野はそのうちの一つということでいいと思います。それが、中心に青岸渡寺があるので熊野はこれほどの霊場にはなったということじゃないでしょうか。滝と青岸渡寺が周辺の神域と組み合わさって渾然とした熊野信仰になったと。皇族の熊野参拝も根源に観音信仰があればこそですよ。皇族の往来があったので枝葉も茂ったと。明治以降は熊野地方でも仏教の破壊が深刻に行われましたから、成り立ちについては近年になって神道よりにかなり脚色されたんじゃないの。まあ、このへんの議論をしたい人は好きなようにやればいいですけど。こんど世界遺産になるそうですが、高野山と熊野をこじつけて合体させるので、「信仰の道」とか言ってかなり無理をした政治的屁理屈を考えだしましたから、また議論がややこしくはなるね。
で、その青岸渡寺ですけど裸形上人といってインドからの渡来僧が那智の滝で修行を始めたのが、そもそもの始まりです。なさけないことに名前はわからないらしい。インドではこちらの鎌倉時代位の時のグプタ朝までに、完璧に仏教は消滅するわけで、心有る仏教徒は忍び寄る仏教消滅の危機を肌で感じて、伝導に活路をもとめていった、というか、海のかなた大陸のかなたに出かけようという心を持ったほんの一握りの僧侶だけが結果として生き残ったというわけですな。裸形上人は観音信仰を伝えたわけでが、観音信仰がインドのどのあたりで盛んだったか、今となってはよくわからんわけです。如意輪観音は密教の仏ですから、後期密教のあったナーランダーか、そのあたり。いずれにしても、爛熟した仏教がもたらされたということになります。紀三井寺もインド渡来僧の為光上人が始めていますが、インドから黒潮にのった渡来僧が、多数東の海を目指したのは間違いありません。で、那智は裸形上人の心と滝と三山の神力があいまって世界有数の霊場になったと。
ちなみに、熊野三千六百峰ともいわれる深山幽谷に囲まれた中に那智山があります。那智の滝は高さ133mで日本一。水源の那智山原始林は国天然記念物。青岸渡寺は西国三十三ヶ所の第一番札所。那智大社には桓務天皇の書いた日本第一大霊験処の偏額がある。山裾の熊野灘の黒潮を望む海辺には勝浦温泉があります。
2004-02-04
節分
那智の節分の祈祷の手伝いに行ってきた。朝4時半起床。5時勤行。7時からご祈祷。千人以上の方のご祈祷をした。私は毎年太鼓を叩く役。霊界や超能力とは無縁の世界ですね。素朴で真面目な信仰の世界です。
2004-02-03