遠隔透視術 秋山眞人
超能力について考えさせる本。
実際に軍事利用とか犯罪捜査に利用しているらしい。
ギャンブルに応用するというのは前半の格調高さから比べるとお笑いだが、編集者の無理強いだったのかどうか。
ただ、訓練して強くなるという考え方、サイキック・マッスという概念など興味深い。PKが「発揮する能力」でESPが「受ける能力」でPKはESPが土台になっていて遠隔透視はESPの集大成になるという。
どうでもいい人にはどうでもいい話だろうが地道な研究の成果ですよ。実際にできる人が書いた本ということでは、第一次資料ということにもなるんだろう。潜在意識を説得するとか、飽きっぽいので色々工夫が必要などということは、他人の能力を評価しているような立場の人には考えつかないことですよ。いままで、いろんなわけのわからぬ超能力本が出てきたが、これからは実際にできる人が書いた本を評価していかなければならない時代のようですね。
2004-03-30
御霊屋(おたまや)の前の石庭に銘板を置いた。重森さんの作庭。
2004-03-18
涅槃会
今日は善福院(国宝)の涅槃会に出仕。天気もよく気持ちよかった。
お釈迦様の命日である涅槃の日は、2月15日だが、ちょっと寒いので昔からこの日に行っている。写真は世話人さんに撮ってもらった。
2004-03-15
生き方は星空が教えてくれる 木内鶴彦
人間の深淵を考えさせる本
著者は臨死体験をきっかけに人生が大きく変わった。その体験したことが真実なのか夢なのか興味のあるところだが、少なくとも著者の人生の全ては大きく変わってしまった。宇宙に夢を馳せるから宇宙大の夢を見たのか、宇宙大の意識につながっているから宇宙に興味を持つのか。
したいと思って出来る体験ではないのだが、なぜ限られた人にしか壮大な神秘的体験がゆるされていないのだろう。人間の意識はまだまだ進化の途上なのか。それとも、道を外れてしまった我々人間のなかに、時々正気に戻る人がいるのか。
「死ぬときにいちばんつらいのは、自分の才能を開花させることなく、人生を終える悔恨の思いです。」
これが、苦痛に満ちた人生にまた輪廻する最大の理由だろう。人生の中にある危険や苦痛より、やるべきことができなかった悔恨の苦痛のほうが大きいのかもしれない。
人間は死後、大きな意識に統合されるのだろうか。
仏教では、個性は維持され輪廻を繰り返しながら成長し涅槃を体得して、つまり仏陀となって輪廻を終えると考えている。この仏陀は一人しかいないというのではない。数え上げたら過去に1000人、現在に1000人、未来に1000人あるのだという経典もある。釈尊はそのうちの一人ということになる。仏陀にならず、生きとし生ける者を救う請願をたてて輪廻のなかに留まる菩薩もいる。いずれにせよ仏陀となるには、その過程、道筋があるわけで、これは一つとして同じものはない。そして、一つの意識に統合されたかに見えても、それぞれ千差万別の固有の歴史を刻んでいるのは厳然とした事実である。この歴史は消せない。ヒプノでは潜在意識を書き換えることがあるのだそうだが、書き換えたという事実は残る。
つまり、統合されても個性の記憶はどこかにある。だから、理屈で言えば、仏陀の数は無限に増え続ける。それを生命の豊饒と言うなら、宇宙はこの豊饒を作り出すために存在しているということになる。
今していることが、好きでも嫌いでも、成功でも失敗でも、大正解でも大きな過ちでも、忘れてしまっても、意図していなくても、それは意識に刻みつけられる。だからと言って、目隠しをして、目的地も知らされず、裸足で荒野をさ迷い歩くのだから苦痛から逃れられるはずが無い。目隠しをはずして一瞬でも世界を見ることができれば、自分の本当の使命を知ることができるのだろうが、このあたりが根本的な不条理でもある。
目隠しをはずす、というアイデアにたどり着いただけでも大きな進歩としよう。
2004-03-11
枝垂れ桜
大門横の両側の芝生に枝垂れ桜を植える。
写真の桜は去年亡くなった岩本章さんの供養のための植樹。
2004-03-08
バカの壁 養老孟司
示唆に富む本。
人間の織り成す様々な社会現象は、人間の脳の機能に由来する。一元論に閉じこもって壁を構築するのが快いものだとしたら、それは人間の種としての限界なのか。インプットとアウトプットの間にaという変数が、どうしても挟まってしまう。下手をすると人は幻想の中でしか生きていないのかもしれない。つまり、不可知論でもある。
ただ、脳をバラバラに解剖しても、社会はでてこない。共同体も、宗教もなにも見出せない。aという変数の要素がどこかにあるというのでもないらしい。
僕など、背後にあって脳に何かの機能を起こさせるあるもの、たとえば魂とか、を想定してしまう。と言っても、無理解が理解に変わるわけでもないか。
でも、魂が響き合うとしたら・・・・力ずくの解決は無用ということになる。
2004-03-05
菩薩と密教と個人化
伝統仏教宗派はトランスパーソナルな突っ込み、臨死体験からの突っ込み、誘導催眠からの突っ込みにさらされている。トランスパーソナル的にはキリスト教やらイスラム教やら世界各地のシャーマンの霊的教示やらと、どこかで整合性がなければならない。臨死体験からの驚くべき知見と大きく矛盾していても困る。誘導催眠で知られてきた潜在意識の精妙な働きについての知見はまだまだこれから症例が増えてくる。そういう時代になってしまっていること自体を認識していない坊さんがあまりに多い。葬式と法事をしていれば宗教をしていることになっていると思い込んでいる人がほとんどだろう。僕は真言と天台については内情を知り尽くしているからね、反論があるならどうぞ。
自分のお寺の宗旨に囲い込もうという動きが盛んなわけだが、つまりは金勘定が主たる動機で、精神性が無くて、ちっとも魅力的でない。一体全体、金勘定抜きで囲い込みをやってる人などいるのかね。馬鹿げたカルト教団のほうがよっぽど何かを信じる純粋性がある。
伝統仏教各派はその歴史的役割を終えつつあるのではないか。それでも仏教は、現代の霊的な新たな知見とそれほど大きくかけ離れていないのでキリスト教よりは将来性があると思っている。キリスト教もイスラム教も輪廻は認めてないのですよ。ああ、認めましょう、となるかもしれないが、かなりバツが悪いね。まあ、面子丸つぶれだよね。仏教の唯識、中観といった基本的な考え方は、これから益々注目されることはあっても廃れることは無いだろう。ただ、悪いけど専修念仏とか折伏とか、愚民主義的な単純仏教はもう終わりだろうね。禅宗も複雑怪奇な心霊世界にたいして事細かな回答を用意せざるを得ないでしょうからご苦労なことです。
密教だと思うよ、これから色々と注目されるのは。
真言の人は戒律の問題をすっとぼけて語りませんが、弘法大師のイメージしてた密教は、プロフェッショナルな高度に洗練された坊さん達によって維持されるべきものですよ。あまりの大天才の開祖なんで、後の者が大変ですわな。伝教大師は密教よりも菩薩という概念をより重視していた。でも、結局天台は密教だらけになっている。菩薩と密教と個人化、この取り合わせが糸口になるのではないか。
菩薩の慈悲と奉仕を強調した生活と、密教の洗練されて具体的な霊的規範、これらを基調として個々人が自分の中に普遍的な意味と価値があることに気づく。と、その前提に密教が、秘密仏教のベールを脱いで、わかりやすく自分自身を説明しなきゃならんでしょうな。
2004-03-04
密教の個人化
仏教は釈尊の当時とは様変わりしてしまっている。それはそれでいいとして、様変わりの始まりはバイシャリの第二結集あたりらしい。釈尊の教えを金科玉条に固く護ろうという上座部と、時代に会わせて変えていこうという大衆部に分かれた。大衆部の側からは上座部を自分の救いしか考えない小乗だという批判も出たが、連綿と今に続いて東南アジアの諸国に受け継がれている。大衆部の中から、法華経の信仰や密教が出てきた。しかし、戒律には根本的な修正はなされずに中国まで大衆部の経典は伝播してきた。
日本では中国経由の大衆部系の仏教一色になっているのだが、やはり日本的な展開が加わることになる。奈良から平安にかけての仏教輸入時代には戒律は上座部と同じ250戒あった。これを、伝教大師が菩薩戒ということを言い出して破棄してしまった。鎌倉仏教は皆この伝教大師の流れから出ることになる。戒律から見れば伝教大師は世界の仏教の中でも特異な存在だが、大衆部の流れを考えれば、上座部の戒律が破棄されるのは時間の問題だったといえる。
釈尊の教えを時代に合わせてアレンジするという発想の続きに、密教も菩薩戒もあるということになる。寺院の性格が国家中枢⇒上流貴族⇒地方豪族⇒地域社会⇒家庭⇒個人と変わってきたという流れも、仏教の大衆化という根本的な路線があったから可能になったといえる。
最近、伝統仏教の宗派のなかに原理主義的な復古運動を考えている人が出てきたが、どうなりますか。
次の答えは「密教の個人化」だろう。寺院に依存しない、教祖様にも頼らない、自分の中にある仏心に基づく信仰。そんなことが可能かどうかではなくて、どうにもそっちに行ってしまうということになる。ニューエイジとかトランスパーソナルとか各種ミニ宗教とかカルト教団などなど、大きな流れの中の試行錯誤の賜物といえる。当然、自分勝手な思い込みや独り善がりは廃れる。何がしかのフィードバックによって真実性が実証されることが求められるのだろう。それが霊験あらたかなる治病なのか、深く心の底に了解される神秘体験なのか、あるいは、なにか新しい概念があるのか。ここまで煮詰まれば、なにかを見出すか、見出すまえにハルマゲドンで自滅するかだろう。
2004-03-03
「個人化」と「イベント」
日本の仏教は、壮大な伽藍から始まり、平安時代に山岳仏教になり、中世に日本的な発展を遂げつつ地方へ伝播していきました。江戸時代に檀家制度が確立し、今日では各家庭に仏壇が置かれるところまできました。
中央集権的な時代には大伽藍で国家の威信を示し、平安時代には貴族の祈祷道場としての霊力を求められました。それが鎌倉時代にはいると、地方にも中央に拮抗するような勢力が芽生えはじめ、仏教の大衆に向けた発展が加速され、中規模な寺院が日本全国に作られました。江戸時代には封建社会を固定化するために、各村落にも寺院が作られ檀家制度が浸透しました。寺院は国家から地方、そして小さな村落へと変化しつつ発展してきました。そして今は各家庭に仏壇が置かれるようになり、違和感無く我々の生活に溶け込んでいます。
つまり、大⇒中⇒小と流れてきているわけです。で、次なる発展は、国家中枢⇒上流階級⇒地方豪族⇒地域社会⇒家庭ときて、こんどは個人でしょうか。たとえて言えば、大規模通信設備⇒公衆電話⇒固定電話の次に携帯電話がきたように、仏教の個人化がくると考えられます。
共同体の復活、連帯感の回復といったところで、作られ演出された空間だけのいわば、御祭りのようなものにしか見出されなくなるのでしょう。大衆を動員する大きなイベントはこれからも盛んに行われるでしょうが、人間が孤独を嫌う生物であるなら、これから益々必要になるのかも知れません。ただ、基本的な流れは、個人化へ向かっています。「個人化」と連帯感を味わうための「イベント」、これが次世代の心の行き場所でしょうか。
2004-03-01