十非心については、これで終わりにします
十非心は、ある程度の段階がこないと、しっくり感じないかもしれません
人から、立派な人だと賞賛されるようになる、先生と呼ばれるようになる、責任者として人の上に立つ、などしないと、わからないかも
心が脱線するのは、初心者とか、熟練者とか、また、身分地位などに関係ないわけです
むしろ、熟練して、いろんなこと(霊感を含めて)が細部までわかってきてからが難しい
だけど、あれしちゃダメ、こんなことダメ、それもダメ、と腫れ物にさわるように自分の心に向き合っていると、まあ、いずれ鬱病かなー
それで、僕的には、法界と繋がるのが最も大事で、反省やら自省などは、暇なときにすればいいんじゃないかと思ってます
ただその、一言いたいんだけど
まず、ガードを固めることですよ
これが、わかってない人が結構いる
何遍も言うけど、仏教は2500年もやってますから、止悪や懺悔にかかわる研究やら、文章は、腐るほどあります
でも、それだけ、心は、あっちこっち勝手に行ってしまうという事なんですね
負けないサッカー
負けない野球
負けない相撲
地味だけど、長いことやってると、やっぱり、似たようなところに行き着くんじゃないでしょうか
まったく反省しないなら、繋がりが切れちゃうよ
そんな人をいくらも見ました
十非心
我等いま衆生と共に大菩提心を起す。先ず十非の心相を簡却すべし。凡そ十非の心相とは
一つには その心念々に貪瞋痴を専らにして、之を摂すれども還らず之を抜けども出でず、日に増し月に甚だしうして、上品の十悪を起すこと五扇提羅の如くなるは、これ地獄の心を発して火途道を行ずるなり
二つには その心念々に眷属多からんを欲し、海の流れを呑むが如く火の薪を焚くが如く、中品の十悪を起して調達の衆を誘うが如きは、此れ畜生の心を発して血途道を行ずるなり。
三つには その心念々に名の四遠八万に聞え、称揚欽詠せらるるを得んと欲し、内に実徳無うして虚しく腎聖に比べ、下品の十悪を起すこと魔けん堤の如きは、此れ鬼心を発して刀途道を行ずるなり。
四つには その心念々に常に彼に勝れんことを欲し、人に下るに耐えず、他を軽んじて己れを珍ぶこと、とびの高く飛んで下し視るが如く、而も外に仁義礼智信を揚げ、下品の善心を起すは阿修羅道を行ずるなり。
五つには その心念々に世間の楽を欣んでその臭身を安んじ、その痴心を悦ばしむるは、此れ中品の善心を起して人道を行ずるなり。
六つには その心念々に三悪は苦しみ多く、人間は苦楽相間はり、天上は純ら楽なリと知って、天上の楽の為め六恨を関して出さず、六塵を入らざらしむるは、これ上品の善心を起して天道を行ずるなリ。
七つには その心念々に大威勢ありて、身口意纔かに所作あり、一切弭き従わんを欲するは、これ欲界主の心を発して魔道を行ずるなり。
八つには その心念々に利智弁聡、高才勇哲にして六合に鑒達し、十方にぎょうぎょうたるを得んと欲す、これ世智心を発して 尼けん道を行ずるなり。
九つには その心念々に五塵六欲は外の楽にして、けだし微なり、三禅の楽は石泉の如く、その楽内に重しとおもうは、此れ梵心を発して色無色の道を行ずるなり。
十には その心念々に善悪の輪環、凡夫は耽めんし賢聖は呵するところ、破悪は浄慧に由り、浄慧は浄禅に由り、浄禅は浄戒に由ると知って此の三法を尚ぶこと飢たるが如く渇するが如き、此れ無漏の心を発して二乗道を行ずるなり。
破戒の心は地獄に堕し、慳貪の心は餓鬼に堕し、無慚愧の心は畜生に堕す
若は心若は道その非甚だ多し、いま之を簡び、無上第一義のために金剛不壊不退の誓願を発さん
衆生無辺誓願度。煩悩無蓋誓願断。
法門無量誓願学。仏道無上誓願成。