2007.08.23
マイナスイオン
EM菌
波動(水への伝言など)
遠赤外線
など、似非科学になるらしい
石のパワーとか、オーラの色、などは似非の範囲にもはいらないらしい
EM菌は、科学か似非科学かどうでもいいことで、少なくとも、うちの寺では他ではできない効果が実際あります
牡丹の生育が、とてもいい
牡丹を自分で作っている人は、皆、うちの牡丹を見て驚きます
大きくて、茎が太いのです
それと、汚水に入れると、全く臭いがしなくなる
畑にも使っているが、これは、効果がよくわからない
似たような酵素とか発酵堆肥とかいろいろあるんで、ややこしくて比べられない
遠赤外線もあると思うなぁ
ある特殊な木材は、同じ所に置いておいても、それだけが、微妙に温もりがあるんです
通称、尾州と言われてる、檜なんですが、木曽の赤沢の檜を特に尾州と呼びます
尾州は、鎌倉時代から日本一の檜として知られていました
江戸時代、尾張の徳川家が独占して管理して、他の者に切らせない、「お留め山」にしていました
江戸時代は、「木一本首一本」と言って、勝手に木を切り出すと死罪でした
尾張の尾をとって尾州と呼ばれています
この木は今では林野庁が管理して、やはり切ることはできません
唯一切り出すのは、伊勢の遷宮の時の材木用です
江戸時代、尾州は徳川家だけが使う事ができたのです
江戸城、名古屋城、などのお城や、長保寺などの徳川家の寺や、徳川家の武家屋敷だけで使うことができました
ですが、徳川家が建てた建物は、火災などでほとんど失われてしまいましたから、実際に尾州で造られた建物はほとんど見ることはできません
長保寺の御霊屋は、その数少ない尾州で造られた、総檜造の建造物です
床、天井、雨戸などの建具類を含めて、すべて尾州です
柱を、さわってもらうとわかるんですが、横にある桑の木で造った結界と温度がハッキリ違います
同じ所にあって、日も当たりませんから、同じ温度になるはずですが、明らかに違いがあります
これは、多分、檜に含まれる油分から遠赤外線が出ていて温かいのだろうと考えています
尾州は特に品質がいいので油分が多いのだろうと思われます
まあ、伊勢の御神木に使われるのですから、神の力が加わっているという説明でもいいんですが、遠赤外線の方が科学的な理解に近いと思いますけどね
鎌倉時代から、尾州に触る職人さんは、他の木との違いを、実際触るのですから、よくわかっていたと思います
マイナスイオンですけど
似非かもなぁ、とは思いますけれど
那智の滝の滝壺ですね
全く空気が違います
マイナスイオンの正体は水の飛沫だと言うんですが、まあ、滝壺ですから飛沫はあります
マイナスイオンの効果が有るという器械がいろいろありますが、量的には那智の滝ほどにはないでしょうね
で、量を抜きにして考えようとするから似非になるのであって、那智の滝ほどのスケールであれば効果がある、と言うのは、科学に近いんじゃないでしょうか
さて、波動
愛とか怒りとか、文字を張り付けると。水の結晶が変わるという現象なんですが
心と物質の相関関係、ましてや文字と物質の相関関係、これを科学的に説明する方法論は、今のところ無いわけです
説明できないから、水の結晶が実際変化しても、科学の対象になりません
で、問題はそこからで。波動理論というものを創って、それに基づいて病気の治療をするということまで考えられていて、実際に機械が造られています
http://www.hado.com/vibrationalmedicine/starlight-1.htm
波動医学と言うらしいですが
医学には臨床があって、つまりは、病気が治ればいいんであって、理屈は後で考えれば間に合うのですが、科学的な説明ができなければ似非科学ということにはなります
いろんな問題があるわけです
たとえば、加持祈祷で病気が治る、とします
祈祷師が、まず、病人に会って病状を確認するとします
この時点で、医師法違反で刑事罰です
病気の診断と治療行為は医師の国家試験合格者だけにしか認められていません
病状の確認をしないと、治ったことも確認できませんね
ですから、ここらへんから、かなり怪しい治療行為が派生するわけです
病気の診断と治療を公然と言うなら、医師免許が必要です
僕は、病気の治せる坊さんを何人も知ってますが、このような理由で、公然とやってる人はいません
法に抵触しないノウハウがあることはあります
ま、いずれにせよ、病気が治ればいいんですけど、あまりに多くのデタラメがあるので、法律は必要でしょう
ええと、波動ですが
波動現象があるからと言って、そこから延々と理論を紡いでいくと、ホントにとんでもないことになるかもしれません
神学論争とでも言いましょうか、観念論は妄想を大量に含むことになるのは歴史が証明しています
キリスト教神学でも、イスラム神学でも、その世界の中では辻褄があってます
もちろん仏教哲学もです
当然ながら、科学も、辻褄があってます
理論には前提条件が必要なのですが、前提条件については、それ以上の証明は必要とされません
科学で言えば、物質の存在
実験と観察という方法論
一神教では神の存在
仏教はなんだろな
今、自分がいるという感覚かな
波動理論では
波動の存在
でもって、波動とはいったいなにか
弘法大師の声字実相義では、声と字が実相ということになってますが、この場合の声字は、物理的には測定不可能です
心の中の現象だからです
水に影響を及ぼす、心の波動を、測定したという話は無いようですね
石の波動、とか簡単に言う人もあるようですが、まあ、測定できないのですから、波動かどうかわからんのが実体です
心のエネルギー、などという表現も似たようなもので、どんな計測器で測定するんでしょうね
各自の主観で、有る無し、強弱を勝手に決めているんじゃないですか
パワースポットという言葉も同類ですよ
主観的な「印象」を、あたかも客観的に比較可能な「現象」にすり替えているんじゃないですか
あちこちの神社や寺などを、凄いパワーがあると言う人もいれば、エネルギーが感じられないという人もいたり、勝手なもんです
まあ、独裁者が決めるなら、ナチズムに近いな
主観を客観に見せかけるのに、悪意が有っても無くても、この二つは違うんだから混同してはいけません
波動、パワー、エネルギーなど、あたかも客観性があるかのような言葉を精神世界に持ち込むのは、下劣な行為だという自覚をどうぞお持ちください
「感触」「愛」「素晴らしい」、など、個人的な感覚なのであって、それ以上でもそれ以下でもありません
どうも経済活動のグローバリズムが精神世界の普遍化の可能性にもつながるようにも思えるのですが、方法論そのものが客観性を持つことがないのですよ
僕は、パワーストーンなど、文学の範囲じゃないかと考えてますけどね
ま、こういうことは、仏教の唯識論なら整然と説明つくんですけどね
いずれ、注目されるようになるでしょう
アメリカで唯識の意義を再発見、とかね
そう言えば、グロフとかウィルバーは、どうなったんですか
トランスパーソナル心理学は忘れられちゃったんでしょうかね
再現可能性、実験再現性、再観測可能性が乏しいということで、これも似非科学でしょうなぁ