2007.09.11
それで、この模式図から、じゃいったい我々はどうしたらいいんだ、という教訓を導きだすとしたらどうなるんでしょうか
図の上では、「意識」をマナ識の赤線の外側に出すように書きましたが
つまり、「見る」と「見られる」の分離を越えます
お釈迦様の出家の動機は「苦の滅」です
極めて大まかに言うと、「自分」が存在するかぎり、喜怒哀楽、苦楽、幸不幸、禍福、からは逃れられません
で、マナ識こそが、自分と他者との境界線です
じゃ、マナ識が無くなればそれでいいのか、ということです
境界線がなくなれば「自分」は無くなり、苦も無くなりますが楽も無くなります
「見る」と「見られる」の分離(マナ識)の中に「意識」があるということは、私利私欲、自己中、独善があるということです
マナ識を越えるということは
慈善事業など人の為になることをする、という事ではありません
外には、自分と他人という境界線が無いんですから
自己犠牲でもありません、自己という自分の外ですから
無心でもないんです、有るとか無いとかは自分の中の問題ですから
いわく言い難し、なんですが
それが、仏教で言う、慈悲です
「忘己利他」とはうまいことを言うなあと思いますよ
僕は天台ですけど、身びいきで言うんじゃありませんよ
「己を忘れて他を利するは、慈悲の極みなり」伝教大師
捨身供養でもなければ、滅私奉公でもないんです
忘れるんです
捨てないし、滅しません
平等、互恵、共存共栄、共生です
そして、「意識」が分離の外にあるということは、感覚器官で認識された「脚色された情報」ではないナマの情報に接するということです
つまり、智慧です
感覚器官からの情報、知識や学問は、智慧の一部分ではありますが、その根底にある真実への洞察が必要です
私利私欲、溺愛、勝手な思いこみなどにとらわれていたら、洞察は生まれません
もたらされた情報の、本質を把握するのが智慧です
それで
慈悲と智慧
でもいいんですが、一言で言えないか、ということで「菩提心」という言葉が仏教にあるんですが、一般的ではないですね
「菩提心」には、向上心も含まれることになってます
「苦しみ」がある限り、どうしても、「慈悲と智慧」が必要です
全ての生きとし生ける者の苦しみが無くならない限り終わりはない、とハッキリ自覚するのが「菩提心」です
まだ続きます
とっくの昔から、この菩提心を持って活躍してるのが、菩薩であり仏です
神と呼ぼうが、守護霊と呼ぼうが同じことですが、いちおう仏教のテクニカルタームです(^^)
まあ、仏教では、菩薩と神は違うと考えてますけど
神は霊界の存在ではありますが、菩薩のように完全に自覚してはいません
僕らが、自称菩薩であっても、あるときは間違い、怒り、欲に負けるのと同じように、煩悩があると考えています
で、菩薩や仏の助けを積極的に受けよう、と考えてるのが密教です
菩薩や仏は、肉眼に見えませんから、秘密仏教という言い方をせざるを得ないわけです
十八羅漢図 右側部分 長保寺蔵 絹本著色 室町前期