無我と魂

2007.10.27

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仏教は、「我は無い」という立場をとっています
無我ですね

でも、普通考えると、我々には、自分という感覚があって、あなたと私は違うし、当然ながら別々の人格です

「我は有る」としか考えられないわけです

で、それを、魂とか、自我とか言うのですが・・・
 

しかし、それは、感覚器官で感じるこちら側の世界のことで、「感じる前の世界」には、やはり我はありません

とにかく、自分とか自分以外とか感じる前のことですから、実際は、我も無我も両方無いことになります
 

 
銀河系には2000億以上の恒星があるそうですが、宇宙全体には、そのような銀河が1000億以上あるらしいです

しかし、それは、眼で観測して数えるからで、響きとしてとらえれば、実はたった一つの響きしかありません
 


Barred Spiral Galaxy NGC 1300
->をクリックしてください 
 

響きは、華厳経でいう、無尽重々縁起で繋がっています
般若心経によれば、不生不滅不垢不浄不増不減です

まあ、波動のようなものと思えば、どこまでも無尽重々縁起で繋がっていて不思議は無いです

「感じる前の世界」なんですから、生滅とか浄不浄、増減など、感じてないわけです

感覚器官でとらえて、心に再構築された、こちら側では個別の存在も、「感じる前の世界」では、響きあい繋がって、不可分の存在です


  

 
 
自分を自分で、見る、聞く、感じる、その前は、これはどうしても、どのような状態かわかりません

絶対に、わかるはずがありません

見ても、聞いても、感じてもいないんですから

目の前の手の平を見て、ぱっと眼をつぶっても、もちろんそこに手の平があります
でも、見てないんだから、どのような状態か、絶対にわかりません

「感じる前の自分」を知ってる人はいないのです
 
 
それで

想像力を働かせてください

「感じる前の自分」はいったいどうなっているのか

 
 
宇宙飛行のような無重力状態

真っ暗闇で無音の温水プールに浮かぶ瞑想

自律訓練法による、感覚制御

一点集中による、制感

など、普段の生活の感覚から解放されると、「感じる前の自分」に一歩近づくわけです

「感じる前の自分」は、整然とした因果律を持ち、2000億の恒星のある銀河が1000億集まった輝きを持ち、過去現在未来の全ての叡智と繋がっています

つまり、それが、仏教で言う無我です

 

 

悟るということ

2007.10.22

悟るという字

「りっしんべん(立心偏)」と「吾」でできています

わが心ということになります


サンスクリットでいうとbodhi(菩提)
目覚めるというbudという語からできています

ですからbudha(仏陀)も語源はbudで、目覚めた人という意味になります

自分で自分の心に目覚めること、それが、悟るということです

ファイル 98-1.jpg

それで、実は、自分の身体も、自分自身で感じる前の本当の姿があるわけです

その、本当の姿は、空であり、法界であり、実相であり、無尽重々縁起であり、涅槃である世界にいます

その、感じる前の自分に会うことはできません
とにかく、感覚で感じる前の存在ですから

ところが、そんなことに関係なく、自分は存在してます


→をクリックしてみてください
 
 
御自分の手の平をじっと見てみてください

この形は、眼に写って色とか姿とか、また、皮膚の感覚など、脳内に再構成されています

「これは手だ」という言葉になる前の「手」は、感覚器官の向こう側にあって、どうしても感じることはできません

自分の心もそうです
意識される前の意識を意識する、など、できません
意識される前の意識を、「無意識」と総括することも出来ます

あるのはわかっていても、感じることができません


ここで、「感じられる前の世界」にいる自分を考えてみてください

時間と空間は、感じられる、こちら側にしかありません
時間と空間を決める、ということは、「感じる」ということですからね 


時間と空間が無い、ということは、宇宙全体が1ミクロンより小さく、同時に全てが起こっている、ということでもいいわけです
(本当は、そういうことが決められないのですが、便宜的に)


感じられる、こちら側の世界では、あなたと僕は別々の存在ですが、感じられる前の、あちら側の世界では、無尽重々縁起の因果律で繋がっています
そして、1ミクロンより小さい世界に同居してることになります

時間がありませんから
釈迦もイエスもマホメットも、あちら側では健在です

ご先祖様も、自分の未来の子孫も同居してることになります

諸仏・諸菩薩、八百万の神々も、世界中の神様達も、全部、繋がっています


さてと

それらを全て丸めて、ピンポン玉くらいの大きさにして

 

 


そのピンポン玉を、「感じる前の自分」と名付けることにしましょう

ですから
あなたの無意識は、全知全能です

それが、わかっていないだけのことです
わかってしまえば、それが、悟りです
 
 
「感じる前の自分」には、我がありません
でも因果律はあります


さて、そこまでわかったら、どうするか、ですね


「感じる前の自分」に、全くなにも求めず、感謝と愛を送り続けたら、全ての善きことが起こる、ということになりませんか

 

般若 Prajna6

2007.10.13

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色と空

造境と法界

能観と所観

主と客

影像と本当の姿

見ると、見られる

と、難しく考えてもいいのですが

「言葉」と「真実」の関係も、似たような事なのです
 
 

リンゴという「言葉」と、実際スーパーで売ってるリンゴの「現物」は別々です
リンゴという言葉は食べることが出来ません

なんだ、あたりまえじゃないか、ということなんですが

「寒い」という言葉と、実際の寒さ

「宗教」という言葉と、実際の宗教

「救い」という言葉と、実際の救い

やっぱり、間に壁があって、絶対に同じ物にはなりません


 
「波動」を感じるとか簡単に言いますが、額にジーっとしたチリチリ感を感じているのか、指で押すような圧迫を感じているのか、体全体に風が吹いてきているような輻射を感じているのか、様々なわけです

それでも「波動」という言葉にすると、まるで、計器で測定出来るような客観的な事実として解釈することも出来てしまいます

感触は、再現性や客観的な測定が難しいので、科学の対象としてそもそも不向きです

音楽や絵の感動を、科学的に解明するなど、まあ、する人は無いです

ところが

「この石の波動は、あなたを慰め癒します」
「よい波動の人の回りには幸運が多い」
「いい波動の音楽」

とか、どこにでも通じる事実のように「波動」を一人歩きさせる事ができます

エネルギー、パワーなども同じです

「宇宙のエネルギーを、あなたを通じて流します」
「この神様はパワーが強いので御利益がある」
など

主観的な感覚が、言葉によって、あたかも独立して存在する事実になって、他人に通用する力として扱えることになってしまいます

こういうのを、「広義の魔術」と言うこともできます

 
 
 
それで、「理解する」ということなんですが

そもそも無理なんじゃないのか、ということになってくるわけです
 
 

こうやって、モニターの字を読んでいるのも、言葉を使って、理解してるわけです

「理解」と「実体」ですね

この間にも壁があるのです


ソクラテスの「無知の知」

最澄の「極愚」

親鸞の「愚禿」

 
まあ、夢から覚めれば、このあたりが本当のところです

それで、「理解」を新陳代謝させ、よい部分を残し、不十分は補い、間違いは正し、深めていくしかない

それを、たとえば宗教で言うと、原理主義とか、教条主義、権威主義、一方的独断、は新陳代謝が止まっているわけで、生命で言えば、死んでるのです

「古師、謬(あやまり)あらば、新師、改むべし」最澄

なのです 
 
 
色即是空。空即是色

色--見る・見られるの壁-->空
空--
見る・見られるの壁-->色

 
理解即是実体。実体即是理解

理解--見る・見られるの壁-->実体
実体--
見る・見られるの壁-->理解


 
自分が、あの人はいい人だと判断する

理解-->実体


誰かが、自分のことを噂してるが、まったく見当違いしてる

実体-->理解

 
どっちもどっちなんですよ
それでも、人は人を求めてる


 
さて、これで般若心経の話は終わります

般若心経の場合は、最後に呪があるのが救いですね

 

 

般若 Prajna5

2007.10.11

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我々の側(色)と向こう岸(空)の間には壁があります

色--見る・見られるの壁-->空
空--
見る・見られるの壁-->色

見る・見られるの壁が大問題になってくるわけです
 
自己が存在する限り、見る・見られるの壁は無くなりません

これは、肉眼で見る聞くだけでなく、霊感で感じる見える、瞑想で経験する、自分が神の啓示を受ける、などを含めて、「自分」と「自分意外の存在」の間の壁、すべてにおいて言えることです

自他の分別が壁です

自分と、自分意外を隔てる壁は、自分がいる以上、なくなる事は絶対にありません
 
 

 
眼の前にモニターがありますが

見てる自分と、モニターは別々です

見えているモニターは、自分の眼でとらえた影像です

影像と、そこにあるモニターは別々です

影像は本当のモニターではありません

本当のモニターを知るには、「自分」と「自分意外」の間の壁を越えるしかありません

影像とモニターの間にある壁を越えるには、自分がモニターになるしかありません

モニターには、どうしてもなれず、本当のモニターを知ることは出来ないのですが、モニターはそこにあります

 

ファイル 95-1.jpg
 
自分の眼でとらえた影像としてのモニターは「顛倒した夢想」です

本当のモニターは「空の中」にあります

「顛倒した夢想」と「空」の間の壁を埋めるのが、般若波羅蜜多(向こう岸に至る智慧)です

 
向こう岸に至る智慧は、自分自身で獲得しなければ問題解決になりません

壁は自分の中にあるからです

自分の素朴な感覚や感情、経験だけでは壁は越えられず、本当の姿はわかりません

智慧が、どうしても必要なんです

智慧による新陳代謝で、影像が本当の姿に近づいていきます
 
  
壁は無くなりませんが、実は、「影像」と「本当の姿」は繋がっています

なぜなら、「影像」も「本当の姿」の一部だからです

 
「空の中」に住む観自在菩薩によって説かれる呪によって「影像」と「本当の姿」は繋がっています

呪が見る見られるを繋いでいます

繋がっていますから、一気に、スッキリ、全てが解決します


 
 
 
p.s.

ですから
前世、チャクラ、パワーストーン、パワースポット、オーラ、ヒーリング、占い、まじない
など、否定はしませんが、雑多な豆知識なんです

守護霊様はありがたいけど、とどのつまり、自分のかわりに飯を食べてくれるわけでも、便所に行ってくれるわけでもありません

智慧に意識を集中することを思い出してくださいね

 

般若 Prajna4

2007.10.10

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この般若心経で図示するとわかりやすいですが
 
ファイル 94-2.jpg 

赤枠
この経の功徳が書かれてる部分です

(向こう岸に至る智慧)を行じ
五蘊は皆な空なりと照し見て
一切苦厄を度(解決)した
 
 

緑枠 

色=空 空=色

色--見る・見られるの壁-->空
空--
見る・見られるの壁-->色

空=不生不滅不垢不浄不増不減

色=五蘊・十二因縁・四聖諦

五蘊・十二因縁・四聖諦--見る・見られるの壁-->不生不滅不垢不浄不増不減
不生不滅不垢不浄不増不減--
見る・見られるの壁-->五蘊・十二因縁・四聖諦


このゆえに、空の中には

五蘊・十二因縁・四聖諦は無い

無色。無受想行識
無眼耳鼻舌身意
無色声香味触法
無眼界。乃至。無意識界
無無明亦無無明尽。乃至。無老死亦無老死尽
無苦集滅道
無智亦無得


赤枠
後半の効能書きですね

心に?礙(障げ覆うもの)が無いので、恐怖あること無し

顛倒した夢想を離れ、涅槃を究竟す(涅槃に行き着く)

(向こう岸に至る智慧)によるが故に正覚を得る

 
それで、青枠の部分ですが


般若波羅蜜多(向こう岸に至る智慧)は

大神呪。大明呪。無上呪。無等等呪

であると知る

つまり

智慧は呪である

と言ってるわけです

ですから呪の定義が問題になるわけです

呪をサンスクリットで言うとdharaniですけど陀羅尼ですね

呪文、真言、まじないの言葉、などの意味に使われることが多いわけですが

もともとは精神統一の意味で、それが、だんだんと精神統一する時に使う呪文そのもをさすようになりました

呪=精神統一

 
ですから

般若波羅蜜多(向こう岸に至る智慧)は

大いなる神のごとき(精神統一)であり
大いなる明らかなる(精神統一)であり
この上なき(精神統一)であり
無等等(比べるものなき)(精神統一)である

という意味になります
 
 

続いて最後の部分がですね
 

故説般若波羅蜜多呪

ゆえに般若波羅蜜多(向こう岸に至る智慧)のを説く

即説呪曰

すなわち、を説いていわく

 

呪が2種類あるんです

精神統一の、と、呪文の意味の


般若波羅蜜多(向こう岸に至る智慧)の(精神統一)、と
呪を説いていわく、の(呪文)


 
 
この「呪が2種類ある」というあたりがわかると、般若心経はわかりやすくなります

それで

向こう岸に至る智慧=精神統一=呪

なわけですが

たとえて言えば

我々は、いっぺんに幾つものことに集中できないわけです

こうやって字を読んで考えながら、昨日の朝飯は何だったか思い出し、人指し指で三角形を書け、とか

足の裏に神経を集中させながら、おでこを意識し、字を読んで考えろ、とか

できません

ですから、般若波羅蜜多(向こう岸に至る智慧)に集中している間は、他のことは出来なくなります

般若波羅蜜多(向こう岸に至る智慧)に集中しているということは、呪(精神統一)である

ということになります

で、その精神統一をするための呪文が

羯諦羯諦波羅羯諦波羅僧羯諦菩提薩婆訶

ギャーテーギャーテー、ハーラーギャーテー、ハラソウギャーテー、ボージソワカ

だと

 
 
それで、結論的に言うと
 
羯諦羯諦波羅羯諦波羅僧羯諦菩提薩婆訶を唱えると、「向こう岸に至る智慧」に集中できる、ということですね

 

般若 Prajna3

2007.10.09

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色と空の関係
空の説明
五蘊・十二因縁・四聖諦は無い

般若心経は、要点を書いたお経ですから、結局この三つが仏教の要点だという立場です

ただ、お経そのものとして考えると、前後についている効能書の部分も必要です

この効能書が、無味乾燥な要点の記述から、現実的な力を引き出しています

般若心経の場合は、最後に呪もついていますから、より力は強くなります

 
 
とりあえず、要点の整理をします
 
 

ファイル 93-1.jpg
般若心経 一巻
紙本墨書 縦26.0 横42.2  奈良後期(8世紀) 長保寺蔵

この経巻は、奈良時代中ごろの天平時代に書写された隅寺心経と呼ばれる一連の般若心経のうちの一巻です

隅寺心経は現在50枚ほどが確認されていますが、これより古い般若心経は現存しません
 

色不異空。空不異色

色=空 空=色


これ、順逆両方言ってるわけですが

色は、我々の存在の側です<見る側>ですね

空は、<見られる側>です
 

たとえて言えば、<鏡の影像(見る側)>とそれに<写り込む世界(見られる側)>の関係です

それを、どちら側から見ても、同じ、と言いたいわけです

鏡の影像=写り込む世界 写り込む世界=鏡の影像

ということです
 

で、この場合のは,五蘊・十二因縁・四聖諦を代表して言っていることになります

五蘊・十二因縁・四聖諦=空 空=五蘊・十二因縁・四聖諦

 
不生不滅不垢不浄不増不減と書かれていますから

五蘊・十二因縁・四聖諦=不生不滅不垢不浄不増不減
不生不滅不垢不浄不増不減=五蘊・十二因縁・四聖諦

になります
 
 
 
色即是空。空即是色

このですけれど、これをどう解釈するかですね
古来、様々に解釈されているわけです
般若心経の中には書かれていません

少なくとも、言いたいことは 色=空 ではないわけです

それで

色-->空 空-->色

とします
完全な一致ではない、だけど同質である

即には、すなわち、ただちに、そのころ、そうして、とりもなおさず、そうなるときは、などの意味があります

まあ、縮めて要点を書いてるお経ですから、あまり言葉尻にこだわってもしょうがないでしょう
 
 

で、僕の解釈です

色--見る・見られるの壁-->空
空--
見る・見られるの壁-->色

これで、この般若心経の中に、自分自身が入り込みます
 
 
五蘊・十二因縁・四聖諦--見る・見られるの壁-->不生不滅不垢不浄不増不減

不生不滅不垢不浄不増不減--見る・見られるの壁-->五蘊・十二因縁・四聖諦

という意味になります

 
 
見る・見られるの壁ということなんですが

「見る前の世界」がつまり(見られる側)です

目の前のモニターを、今、見てますが
目をつぶったら、モニターが月に飛んでいった、などと考えてる人はいないと思います
見て無くても、モニターはそこにあります

ですが

見てないんだから、どうなっているかは、結局、わかりません

わからないのですが、どうしても、そこに有るという事はわかっています

それで、ですが、見る前の世界なんですから、見てないんです
それを「わかる」なんて言ったら、嘘です

でも、そこに有るんです

どうしても「わからない」、でも、そこに有る
それがです
 
 
それでを説明することは出来ない、というのが本当だと思いますよ

でも、そこに有る、と

 
それを、眼耳鼻舌身の五感全部で考えると

今、自分がいるという感覚も、だと

貧・病・争もだと

前世の業も、宿命も、運命も、だと

そこのところが、腑に落ちていくのが、般若波羅蜜多(向こう岸に至る智慧)ですよ、と

まあ、そんなところです


 

般若 Prajna2

2007.10.08

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般若心経は数あるお経の中でも、短くて、リズムよく唱えられて、威力も御利益もあるので、一番よく使われているお経です

それでいて、仏教の深い意味を含蓄してるわけです

読み継がれてきたお経は、たいしたもんです


で、この般若心経を題材にしてみようかと思っています


 
般若心経はいろいろな解説がありますから、意味を詳しくお知りになりたければ、本をお読みになるなり、サイトを検索すれば、ほぼ満足できる情報があると思います

で、僕なりに、今はどう感じているかという事を書いてみます


 
先ず、飾りの部分を取り除きます

<

観自在菩薩行深般若波羅蜜多時

観自在菩薩が、深く般若波羅蜜(向こう岸に至る智慧)を行じたまいし時

照見五蘊皆空。度一切苦厄

五蘊(色蘊・物質、受・感受作用、想・表象作用、行・意志作用、識・認識作用)は皆、空なりと照らし見て、一切の苦(苦痛)と厄(災害や事故)を度(解決)したまいき


これは能書です
どのお経にもあります
効能書ですね

<
菩提薩?

菩提薩?(シャリープトラ)よ

依般若波羅蜜多。故心無?礙

般若波羅蜜多(向こう岸に至る智慧)によるが故に心に?礙(障げ覆うもの)無し

無?礙。故無有恐怖

?礙(障げ覆うもの)無きが故に恐怖あること無し

遠離一切顛倒夢想。究竟涅槃

遠く一切の顛倒した夢想を離れ、涅槃を究竟す(涅槃に行き着く)


三世諸仏

(過去、現在、未来の)三世の諸仏(諸々の全ての仏)は

依般若波羅蜜多。故得阿耨多羅三藐三菩提

般若波羅蜜多(向こう岸に至る智慧)によるが故に、阿耨多羅三藐三菩提(無上正等正覚、無上にして正しい覚りに正に等しきもの)を得たまいし


故知。般若波羅蜜多

故に知る、般若波羅蜜多(向こう岸に至る智慧)は

是大神呪。是大明呪。是無上呪。是無等等呪

是れ大神呪なり。是れ大明呪なり。是れ無上呪なり。是れ無等等呪なり

能除一切苦

よく一切の苦を除き

真実不虚

真実にして虚にあらず


つまり、これも効能書ですね

それで、本文だけ取り出すと


<
舎利子

舎利子(智慧第一のシャリープトラ)よ

色不異空。空不異色

色(物質)は空に異ならず。空は色(物質)に異ならず

色即是空。空即是色

色(物質)はすなわちこれ空。空はすなわちこれ色(物質)

受想行識亦復如是

(感受作用、表象作用、意志作用、認識作用の)受想行識もまたかくの如し


舎利子

舎利子(智慧第一のシャリープトラ)よ

是諸法空相

この(物質、感受作用、表象作用、意志作用、認識作用の五蘊の)諸法は空を相とし

不生不滅不垢不浄不増不減

生ぜず、滅せず、垢つかず、浄からず、増さず、減らず


是故空中

このゆえに、空の中には

無色。無受想行識

(五蘊である)色無く、受想行識無く

無眼耳鼻舌身意

(五蘊を生じさせる)眼耳鼻舌身意無く

無色声香味触法

(五蘊によって生じる)色声香味触法無し

無眼界。乃至。無意識界

(したがって)眼界も無く、(耳界、鼻界、舌界、身界)ないし意識界も無く

無無明亦無無明尽。乃至。無老死亦無老死尽

(十二因縁の)無明も無く、無明の尽きることも無く、(行も無く、行の尽きることも無く、識も無く、識の尽きることも無く、名色も無く、名識の尽きることも無く、六処も無く、六処の尽きることも無く、触も無く、触の尽きることも無く、受も無く、受の尽きることも無く、愛も無く、愛の尽きることも無く、取も無く、取の尽きることも無く、有も無く、有の尽きることも無く、生も無く、生の尽きることも無く、)ないし、老死も無く、老死の尽きることも無く

無苦集滅道

(四聖諦の)苦集滅道も無く

無智亦無得

智も無く、また、得も無し

以無所得故

(空の中には)得るところ無きをもっての故に


で、これは三つに別れます


色と空の関係

<
舎利子

舎利子(智慧第一のシャリープトラ)よ

色不異空。空不異色

色(物質)は空に異ならず。空は色(物質)に異ならず

色即是空。空即是色

色(物質)はすなわちこれ空。空はすなわちこれ色(物質)

受想行識亦復如是

(感受作用、表象作用、意志作用、認識作用の)受想行識もまたかくの如し

 
 
空の説明

<
舎利子

舎利子(智慧第一のシャリープトラ)よ

是諸法空相

この(物質、感受作用、表象作用、意志作用、認識作用の五蘊の)諸法は空を相とし

不生不滅不垢不浄不増不減

生ぜず、滅せず、垢つかず、浄からず、増さず、減らず


五蘊・十二因縁・四聖諦は無い

<
是故空中

このゆえに、空の中には

無色。無受想行識

(五蘊である)色無く、受想行識無く

無眼耳鼻舌身意

(五蘊を生じさせる)眼耳鼻舌身意無く

無色声香味触法

(五蘊によって生じる)色声香味触法無し

無眼界。乃至。無意識界

(したがって)眼界も無く、(耳界、鼻界、舌界、身界)ないし意識界も無く

無無明亦無無明尽。乃至。無老死亦無老死尽

(十二因縁の)無明も無く、無明の尽きることも無く、(行も無く、行の尽きることも無く、識も無く、識の尽きることも無く、名色も無く、名識の尽きることも無く、六処も無く、六処の尽きることも無く、触も無く、触の尽きることも無く、受も無く、受の尽きることも無く、愛も無く、愛の尽きることも無く、取も無く、取の尽きることも無く、有も無く、有の尽きることも無く、生も無く、生の尽きることも無く、)ないし、老死も無く、老死の尽きることも無く

無苦集滅道

(四聖諦の)苦集滅道も無く

無智亦無得

智も無く、また、得も無し

以無所得故

(空の中には)得るところ無きをもっての故に

 
 
ちょっと長くなりましたが

ファイル 92-1.jpg

色と空の関係
空の説明
五蘊・十二因縁・四聖諦は無い

この三つしか書いてないんです


 

 

般若 Prajna

2007.10.07

ファイル 91-1.jpg

アイコン

摩訶般若波羅蜜多心経

摩訶(偉大なる)般若(智慧の)波羅蜜多(向こう岸に至る)心(要点の)経(縦糸)

 
観自在菩薩行深般若波羅蜜多時

観自在菩薩が、深く般若波羅蜜(向こう岸に至る智慧)を行じたまいし時

照見五蘊皆空。度一切苦厄

五蘊(色蘊・物質、受・感受作用、想・表象作用、行・意志作用、識・認識作用)は皆、空なりと照らし見て、一切の苦(苦痛)と厄(災害や事故)を度(解決)したまいき


舎利子

舎利子(智慧第一のシャリープトラ)よ

色不異空。空不異色

色(物質)は空に異ならず。空は色(物質)に異ならず

色即是空。空即是色

色(物質)はすなわちこれ空。空はすなわちこれ色(物質)

受想行識亦復如是

(感受作用、表象作用、意志作用、認識作用の)受想行識もまたかくの如し


舎利子

舎利子(智慧第一のシャリープトラ)よ

是諸法空相

この(物質、感受作用、表象作用、意志作用、認識作用の五蘊の)諸法は空を相とし

不生不滅不垢不浄不増不減

生ぜず、滅せず、垢つかず、浄からず、増さず、減らず


是故空中

このゆえに、空の中には

無色。無受想行識

(五蘊である)色無く、受想行識無く

無眼耳鼻舌身意

(五蘊を生じさせる)眼耳鼻舌身意無く

無色声香味触法

(五蘊によって生じる)色声香味触法無し

無眼界。乃至。無意識界

(したがって)眼界も無く、(耳界、鼻界、舌界、身界)ないし意識界も無く

無無明亦無無明尽。乃至。無老死亦無老死尽

(十二因縁の)無明も無く、無明の尽きることも無く、(行も無く、行の尽きることも無く、識も無く、識の尽きることも無く、名色も無く、名識の尽きることも無く、六処も無く、六処の尽きることも無く、触も無く、触の尽きることも無く、受も無く、受の尽きることも無く、愛も無く、愛の尽きることも無く、取も無く、取の尽きることも無く、有も無く、有の尽きることも無く、生も無く、生の尽きることも無く、)ないし、老死も無く、老死の尽きることも無く

無苦集滅道

(四聖諦の)苦集滅道も無く

無智亦無得

智も無く、また、得も無し

以無所得故

(空の中には)得るところ無きをもっての故に

 
 
菩提薩?

菩提薩?(シャリープトラ)よ

依般若波羅蜜多。故心無?礙

般若波羅蜜多(向こう岸に至る智慧)によるが故に心に?礙(障げ覆うもの)無し

無?礙。故無有恐怖

?礙(障げ覆うもの)無きが故に恐怖あること無し

遠離一切顛倒夢想。究竟涅槃

遠く一切の顛倒した夢想を離れ、涅槃を究竟す(涅槃に行き着く)


三世諸仏

(過去、現在、未来の)三世の諸仏(諸々の全ての仏)は

依般若波羅蜜多。故得阿耨多羅三藐三菩提

般若波羅蜜多(向こう岸に至る智慧)によるが故に、阿耨多羅三藐三菩提(無上正等正覚、無上にして正しい覚りに正に等しきもの)を得たまいし


故知。般若波羅蜜多

故に知る、般若波羅蜜多(向こう岸に至る智慧)は

是大神呪。是大明呪。是無上呪。是無等等呪

是れ大神呪なり。是れ大明呪なり。是れ無上呪なり。是れ無等等呪なり

能除一切苦

よく一切の苦を除き

真実不虚

真実にして虚にあらず


故説般若波羅蜜多呪

ゆえに般若波羅蜜多(向こう岸に至る智慧)の呪を説く

即説呪曰

すなわち、呪を説いていわく

羯諦羯諦波羅羯諦波羅僧羯諦菩提薩婆訶

ギャーテーギャーテー、ハーラーギャーテー、ハラソウギャーテー、ボージソワカ

(行くものよ 行くものよ 向こう岸に行くものよ 全ての向こう岸に行くものよ 目覚めよ 栄えあれ)

般若心経

般若(智慧)の心(要点)の経(縦糸)

 

 

メタボリックコスモロジー

2007.10.05

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コスモロジーは、つねに新陳代謝をしている

「意味の如きもの」は、YesとNoを繰り返し、「意味」に限りなく近づく

ファイル 90-1.jpg

「意味」は「感じる前の世界」にある
「意味」は生死を越えている

「意味」-->五感<==意識==>「意味の如きもの」

意識によって「意味の如きもの」は新陳代謝を続け、「意味」に近づく

 
 
「意味」を考え

「意味」を問い

「意味」を探し

「意味」を求め

「意味」を生きる

そのためには、先ず、「意味」が常にそこにあることに気がつかなければならない

 

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三密加持は、一番手っ取り早く、「意味」に近づく方法を求めた結果だろう

いかに楽に、早く、努力せず、目的を達成するか

つまり、怠け者の成就法

筋肉トレーニングのアイソメトリックス法に似てる

三密と言いながら、実際は、五感の全てを使っている

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コスモロジーのフィードバック

2007.10.03

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深層心理の絶対的経験がコスモロジーに収斂するのは、指摘されてきた

しかし、その逆の、コスモロジーが深層心理にフィードバックされるのは、見落とされている


脳科学や哲学、心理学は、(感性--->コスモロジー)で作られる

(コスモロジー--->感性)の瞑想が見落とされている

 
生まれながらに霊感があっても、それが正しいコスモロジーになるとは限らない
しかし、歴史の風雪で磨かれたコスモロジーがフィードバックされて出てきた霊感は、コスモロジーの中に収まる


仏教は、見られる側の「意味」を、全ての基準にする
なぜなら、見る前の世界には、「見る、見られる」が無いから我執が無い
世界の分離も無い

トップダウンの一神教は、「見る、見られる」を越える事は無い
いつまでも我々は見る側に止まらなくてはならない

日本やヒンドゥー、ギリシャのような人格神は、成長した「もあもあ」であって、見られる側にいるのではない

 
 

フィードバックの仕組みは極めて単純で

肯定する ほめる   正のフィードバック
否定する 怒る    負のフィードバック

密教なら三密加持になるが、大乗経典の読誦もフィードバックになる

見られる側にある「意味」が、フィードバックの目標になる

コスモロジーを正常に保つには、フィードバックが絶対に必要になる
フィードバックをしなかったら、一方通行で妄想が生産されることになってしまう

 

 

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神事
儀式

神殿、伽藍

コスモロジーのフィードバックが行われている

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意味を生きる

2007.10.03

法界にあらかじめある「意味」は、感覚器官に脚色されて、「意味の如きもの」となる

好むと好まざるとに係わらず、「意味の如きもの」は自動的に作られる

「意味の如きもの」を上手に作れなければ、妄想になり
「意味の如きもの」を現実だと思いこむと執着になる


作善

ファイル 88-2.jpg
 
 
 
止悪

ファイル 88-1.jpg
 

この両方の繰り返しが、仏教の修行の基本

 
意味を強くイメージして、妄想・執着を圧倒する 
意味の如きものから、妄想・執着を取り除く


この作善・止悪は智慧によっておこなわれる

 
 
妄想と執着の原因は

無知と私利私欲
 
細かいことを言えばキリが無いが、実際に実行できるのはこの程度の大まかなもんだろう

  

 

ロジック--->感性

2007.10.02

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感性がロジックを創る

感性--->ロジック

感性は意識化されると自動的、無意識的、あるいは意図的にロジックに組み込まれる
ロジックに組み込まれることが、意識化されることであるから

感性--(意識化)-->ロジック


無神論、科学主義、宗教などなんらかのロジックが生成される


実はこの逆のプロセスがある

 
 
ロジック--->感性

これを、瞑想と言う


言語の肉体化が修行であり、言語の行為化が道である、とも言える


ロジック--->感性  瞑想

ロジック--->肉体  修行

ロジック--->行為  道

動物には

感性--->ロジック の働きは無い


 
 
人間は、ロジックを獲得することで、自分をコントロールする力を手に入れた

ロジックが不完全であれば、人間は幸福にはなれない

ロジックを完全なものに近づける努力が必要
ロジックは感性と矛盾しないことを自ら求めている


 
 

感性<===>ロジック

この関係からは逃れることはできない

感性は生理現象、自然法則に左右され続ける

ロジックの感性への関与は、人間性を実現するかすかな可能性

したがって、瞑想、修行、道は極めて重要


 
どこを強調するか、ということはある

ロジックの真贋を厳しく問われるのは
ロジック--->感性
矛盾すれば生理的に受け付けないから

したがって

瞑想が、人間性において最も重要、ということになる

 


 

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人に教えることで、体験が言語化される
つまりロジックになる

あるいは書くことで、これは直にロジックになる

そのロジックが感性にフィードバックされる必要がある

なぜなら、ロジックが乖離しないように検証されないと、限りない妄想になる

ロジックそのものは、実際は、賛成と反対の応酬で洗練することができる

仏教で問答議論を重視する流れも、それが理由

チベットでは、今も盛んらしい
天台では平安時代
真言は江戸時代

 

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瞑想

ひょっとして、睡眠は、無意識下で行われる瞑想ではないのか

睡眠は、「理性のたがのはずれた感情」に支配され、先ず恐怖、不安が主題になる

私利私欲、不安、恐怖などの感情から離れた、睡眠

それが瞑想ではないのか

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意味

2007.10.01

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よく会議で、「なんのメリットがあるんだ」って言うけど
本当は「どんな意味があるんだ」なんですよ

「こんなことやって意味があるのかな」って時、その「意味」

 
あらかじめ「意味」はある

探さなくても、気がつけば、いつもある
生きるってことは、「意味」を求めること

 
「意味」はいつでも、どこにでも、常にある
気がつかないだけ

雲も風も、葉っぱも、意味を求めてる
「求めてる」ってことが「存在してる」ってこと

 

 
「見る、見られる」って時
見る、も意味
見られる、も意味
意味だけしかない

 
本覚とか、感性とコスモロジーの統合とか言うけど
つまり、「意味」において統合している
 
 
求めないところに「意味」は無い
「意味」を求めて生きることこそが「意味」

 


 

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