敵を身近に置け

2008.06.28

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法華曼陀羅 中央部 鎌倉時代 長保寺蔵

「デザインに限らず何事も、主観と客観のせめぎ合いで成り立っている

敵を身近に置け


これは、先日放送されたカンブリア宮殿の奥山清行さんの言葉

奥山さんは、イタリア人以外で唯一フェラーリをデザインした人

こちら

山形工房


敵を身近に置くのは、喧嘩をしろという意味ではなくて、ナカヨシコヨシの自己満足に終わらない為に、ライバル、自分より能力のある奴、客観的に見れる奴を側に置いておけということ
 
主観だけでは自己中になるし、客観だけではオリジナリティーが無く平均点しかとれない

 
右脳と左脳
感性と理性
能観と所観
智と理
止と観
金剛界と胎蔵

など、仏教では古くから問題意識を持っていたわけですが

西洋風には
イデアとロゴス
か、な


「敵を身近に置け」
とは、生きた言葉ですね

ほんとうの超一流の人物の、生きた言葉です


そういえば、隣の神社と張り合っている、ある札所の寺が
朝の5時から毎日勤行してる

あれは、隣にライバルがいるからできるんだよねぇ

水商売も何軒か固まった方がいいとも言うし

含蓄のある言葉ですねぇ

 

合理性

2008.06.24

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種字胎蔵曼荼羅図 絹本著色 鎌食後期(十四世紀) 長保寺蔵

 
霊感とか奇蹟など、超常現象全てに、いわば合理性がある、という話なんですが

仏教的には、森羅万象、法界ですから、つまり、法の世界
法とは、ダルマ(dharma)とも言います


これ、現代社会の法律ということではなくて、法則ですね
宇宙の原理、原則という意味です

で、全てがダルマに基づいていて、ダルマの範囲内にある

ダルマを解き明かそうという努力は、学問とか科学ということになります

 
それで、今の我々にとって、不可思議なことも、ダルマに則って生じていることになります
理解できないのは、ダルマを知らないからに過ぎません


 
なんで、こんな話をするのかといえば、合理性を突き詰めていくと、神仏の教えとたいして変わらないんじゃないかと感じるからです

つまり、僕らが考える合理性だけでは少しは違うところも出てくるわけですが、それが、理解不足ということでしょうね

逆に言うと、あまりに荒唐無稽なことは、神仏も考えて無い、ということでもあります

つまり、神仏は、合理的なんです

そして、神仏は、ダルマから解放されていても、この世の仕事をする時は、ダルマの範囲でしか動きません


霊界の教えも色々あって、案外、相互に矛盾してたりすることも多いのですが、サイキックマッス(心のゴミですね)とポピュリズム(大衆迎合)とエゴ(我執)を取り除けば、ダルマに近づくと考えられるわけです
 

で、そこのところの効率を問題にしてるのが密教なんです

まあ、そういう高度な興味を持ってる宗教は他に無いのですよ
正解にたどり着いたかどうかは別として

完璧ということではないにせよ、努力の方向としてはいいんじゃないかと思いますね

 
 
さて、

起死回生のありえない奇蹟を願うのは、筋違い、ということです

死んだ人が生き返るとか、目が覚めたら億万長者になるとか、まあ、なかなかそんなことは起こりません

心が変わって、やることが変わって、結果が変化してくる、というプロセスが必要なんです
絡み合った、因果関係を根気よく解きほぐすには時間も必要です

霊が動くときもありますが、この世と近ければ近いほど、代償も必要になりますよ
 

  
そういえば、大学の授業で、「密教は科学だ」って教わったなぁ
 
  

偶像崇拝は携帯電話

2008.06.22

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十八羅漢図  双幅左部分 絹本著色  室町前期(15世紀) 長保寺蔵

 
今、信仰と言えば、仏様を礼拝する、お寺参りをする、という形がすぐに思い浮かべられるんですが

これ、平安時代の密教からの形です

仏像、仏画を礼拝する
お線香を立てて、花を飾って、と

これ、鎌倉時代に、
「他の宗派が仏様の前に線香立てを置いたり、花を飾って拝むのは、密教の作法の勝手な模倣だ」
と言って、比叡山の坊さんが暴れたりしたこともあるくらいです

もともとは、密教の専売特許でした

 
で、その、あまりにわかりやすい作法が、大きな勘違いも生んでるわけです
どうも、その、仏像とか、仏様と繋がるんじゃないんです

仏様の心、慈悲心そのものと繋がるんです

カッコや、名前と繋がるんじゃありません

 
イスラムは、そこんとこが明確で、偶像崇拝を否定してます
ですが、これもまた、メッカの方角を向いて礼拝するとか、ある程度の縛りがないとケジメがつかないようですね
 

さて、どう考えるか、ということですが

 

今、携帯電話使ってますよね
買うときは、かなり、いろいろ考えたり悩んだりします

dokomoにするかAUかSoftbankか
機種はどうするか

友達に聞いたり、お店で相談したり
自分で調べたり

当然、買ったら、大事にします
なくしたら大変です

大事にするんですが、目的は、通話であり、コミュニケーションです
そんなこと、僕に言われなくても皆さんわかってます
 

dokomoやAUは宗派で

携帯電話が仏像で

コミュニケーションが、宗教の目標なのです
「慈愛」と繋がることです

適切な表現がありませんが、厳密に言うと「慈愛」という言葉と繋がるんでもありません
その心そのもの、実感と繋がるでんです
 

電話機がないと、遠くの人とは話が出来ませんが、繋がり方がわかってくると、電話機なしでも間に合うようになるのが、ちょっと違うところです


まあ、携帯も、番号そのままで会社を替えることが出来るようになったり、国を越えて繋がるようになってきてるわけで、宗教も、そっちの方向に進まないといけませんね

宗教の否定、破壊はどうかと思いますが、まあ、改善かな

 

僕とこの本堂は国宝ですけど、やっぱり、威儀を正して拝むと、繋がり方が違います
これは、歴然とした事実です

ですが、どこと繋がるか、間違えてたら、さっぱり繋がりませんよ
仏像や建造物は大事ですが、本質をまちがえちゃいけません

 

 

ナメクジウオ

2008.06.21

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脊椎動物はナメクジウオから進化したと、ハッキリした結論が出ました

こちら

「また、ヒトの遺伝子の9割がナメクジウオにもあることも、今回、わかった。 」

と言うことです

5億2千万年の間に、1割程の遺伝子が「進化」してナメクジウオから人間になった、ということになります

まあ、あと5億年もすると、今の人間は、かなり、変わるのであろうと思われますね

哺乳類の先祖ということだと、モグラじゃないかと言われてますので、イメージ的にはナメクジウオのほうがファンタスティックでしょうかね

どっちにしても、感情的には受け入れにくいね


 
 
それで

いろいろ、エラソーなことを言っても、ウンザリしても、もとを正せば、ナメクジウオなんだし、5億年もすれば、すべて様変わりしてしまうんだし、細かいことはどーでもいいじゃないかと、言いたい

 

 

地震はカルマ

2008.06.03

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アイコン

シャロンストーンさんの発言らしいですが

こちら

アメリカ人にはダライラマの信者が多いのです

アメリカには、チベット仏教の大学もあれば、お寺もありますからね

チベット文化を抹殺したい人達からすれば、腹の立つ発言でしょう

 

で「地震はカルマ」の発言ですが

前世とか転生という考え方は、カルマ(業)と不可分です

もともと古代インドの思想ということになってますが、まあ、これ、真実を言ってしまっただけのことです

ヒンドゥーでは、貧乏に生まれたり、病弱に生まれたりするのも、「前世のカルマが現れた」、と考えますから、徹底した身分差別をします
 
天災地異で死ぬのもカルマということになります

 
暴力で真実を隠すことができると思っている人達には悪いですが、カルマは厳然としてあります


 
仏教はカルマは否定しないのです

しないのですが、むしろ、カルマの現れそのものよりも、カルマの原因を考えます
「地震はカルマ」なのですが、それで終わりではなくて、カルマの原因が大事なのです
 
 

カルマの原因は心です

心を制御しなかったら、カルマの連鎖は終わりません

それから、ここが重要ですが、
心を変えれば、カルマも変わります

 
一分一秒を惜しんで、心を変えなければならない、ということになってきます

行き掛かりや、見栄や面子を捨てて、先ず、自分の心に向き合うことです
遠回りのようですが、それしか道は無いのです

 


 

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