僕を変えた神秘体験1
僕はお寺の出身じゃないんです、縁あって坊さんをやってるんです。
超能力者でもないし、霊感が鋭いということでもない。
それでも、いろいろ、不思議な体験はするし、いろんなことを見聞した。
まあ、でも、まだまだスゴイのがいるのよ。相撲で言えば僕など、ようやく十両入りくらいのところでしょうね。本当の悉地成就者には、やっぱ、かなり修行しないと出会えないもんですよ。(僕より年上になるからBlogなんかやらんだろうしね)
そういう人は、いわゆる五神通ね、当然あるよ。これは、密教系でないと、ほとんど無理だろうね。なぜかって、とことんやってくと、神僧の加持がないと進めないからね。行くところまで行くと、自分であれこれ考えてやってるようじゃ、まにあわんのよ。教えてもらうの、悉地成就した菩薩に。仏教2500年の歴史の霊団はスゴイよ。
えっと、それは今回の本題ではないのです。
僕が密教やってるきっかけの話。
僕が高校生のころ、学園紛争は下火にはなってきたけど、まだまだ大きな事件があって、連合赤軍事件が高校生のころと言えば、もう昔の話になるけどね。
大学いっても校庭でデモ行進などやってて授業ができないなんてことがしょっちゅあった時代。
僕はデモにはいかなかったけど、まあ、いろんなことがありましたよ。
三島由紀夫の割腹自殺とか警察幹部の家族に対する残忍な爆弾テロとかは、けっこう身近な人が関係者だったりした。
ベトナム戦死者の死体をヘリで運んで八王子で縫い合わせてた、なんて話は知らん人も多いでしょう。
あれ、また話がそれてきた
愛とか平和とかいう言葉は、世の中にたいしてまったく非力でしたね。今は誰でも口に出すけど、当時は言えば一つの政治的な立場に立たされたりして、一口で言えば、スピリチュアルじゃなかった、世の中全体が。
そんな時代に僕は哲学少年でした。哲学書を読みふけり、本気で哲学者になろうか、などと思ったこともある。アビダルマなどの仏教哲学にも興味をもっていた。興味以上のものではなかったけど。
ショーペンハウエル、ベルクソンといったところが愛読書。そういえば、ユリイカなども読んだなー(雑誌じゃないよ、ポーのやつ)。もう細かいことは忘れちまったけど。
専門家になるには、ドイツ語やフランス語をやらなきゃならんのでめんどくせえなー、などとノンキに考えていた少年でした
それでも、哲学ってのはいろいろ考え事をしても、特に人が幸せになるわけでもなく、まあ、病気がなおるのでもない、平和を作り出すわけでもない。平和にどんな意味がある?てな調子ですから。
もどかしいって言うか、今風に言えば、左脳だけですから。右脳どころか、全人格など、どうなっちゃってるの、てこと
そんなとき、仏教経典を和訳した本を手にした。法句経から始まって、内容はよく覚えてないけど、大乗仏教経典から密教の金剛頂経まで、和訳されて一冊に編集されている本。金剛頂経は後に高野山大学で講義を聞いた先生の訳だった。手軽な経典入門書てなもんですな。
法句経やアビダルマなどは、読んで考えて、ある程度理解することができる。これが、般若経典から密教になったら、もう全くわからん。
今考えても、なんで始めたのか思い出せないけど、そのころ成瀬悟作のセルフコントロールを熱心にやってた。リラクゼーションを深めていって、手の重量感や温感を感じていく。それが、潜在意識のコントロールにつながる。
やってると、幽体離脱みたいになることもある
寝る前に、熱心にやったなー
初めての仏教経典は魅力的だった。平気で、こうすればこうなる、って、まるでホラ話みたいなことを延々と書いてたりするけど、経典のなかでは辻褄があってる。複雑精緻な専門用語。そして2500年間の気の遠くなるような研究の継続。インド、チベット、パーリ、中国、日本での甚深広博な歴史。
これに比べれば、西洋哲学や今はやりのチャネリング書など簡単でええわ。仏教は宗教でなく哲学だ、などとはよくいわれる言葉だけど、己の無学をさらけ出してるとしか思えない。今風に評価したいなら、トランスパーソナルでスピリチュアルな物語の集成とでも言ったらいいと思うよ。とにかく2500年もやってるんだから、およそ、霊的な事に関しては全ての思いつきが出尽くしてるんじゃないの。知らんで勝手なこと言ってたら恥ずかしいよ。
密教はまるで歯が立たなかった。理解不能。これが10代の終わりの僕でした。
続く
超能力者でもないし、霊感が鋭いということでもない。
それでも、いろいろ、不思議な体験はするし、いろんなことを見聞した。
まあ、でも、まだまだスゴイのがいるのよ。相撲で言えば僕など、ようやく十両入りくらいのところでしょうね。本当の悉地成就者には、やっぱ、かなり修行しないと出会えないもんですよ。(僕より年上になるからBlogなんかやらんだろうしね)
そういう人は、いわゆる五神通ね、当然あるよ。これは、密教系でないと、ほとんど無理だろうね。なぜかって、とことんやってくと、神僧の加持がないと進めないからね。行くところまで行くと、自分であれこれ考えてやってるようじゃ、まにあわんのよ。教えてもらうの、悉地成就した菩薩に。仏教2500年の歴史の霊団はスゴイよ。
えっと、それは今回の本題ではないのです。
僕が密教やってるきっかけの話。
僕が高校生のころ、学園紛争は下火にはなってきたけど、まだまだ大きな事件があって、連合赤軍事件が高校生のころと言えば、もう昔の話になるけどね。
大学いっても校庭でデモ行進などやってて授業ができないなんてことがしょっちゅあった時代。
僕はデモにはいかなかったけど、まあ、いろんなことがありましたよ。
三島由紀夫の割腹自殺とか警察幹部の家族に対する残忍な爆弾テロとかは、けっこう身近な人が関係者だったりした。
ベトナム戦死者の死体をヘリで運んで八王子で縫い合わせてた、なんて話は知らん人も多いでしょう。
あれ、また話がそれてきた
愛とか平和とかいう言葉は、世の中にたいしてまったく非力でしたね。今は誰でも口に出すけど、当時は言えば一つの政治的な立場に立たされたりして、一口で言えば、スピリチュアルじゃなかった、世の中全体が。
そんな時代に僕は哲学少年でした。哲学書を読みふけり、本気で哲学者になろうか、などと思ったこともある。アビダルマなどの仏教哲学にも興味をもっていた。興味以上のものではなかったけど。
ショーペンハウエル、ベルクソンといったところが愛読書。そういえば、ユリイカなども読んだなー(雑誌じゃないよ、ポーのやつ)。もう細かいことは忘れちまったけど。
専門家になるには、ドイツ語やフランス語をやらなきゃならんのでめんどくせえなー、などとノンキに考えていた少年でした
それでも、哲学ってのはいろいろ考え事をしても、特に人が幸せになるわけでもなく、まあ、病気がなおるのでもない、平和を作り出すわけでもない。平和にどんな意味がある?てな調子ですから。
もどかしいって言うか、今風に言えば、左脳だけですから。右脳どころか、全人格など、どうなっちゃってるの、てこと
そんなとき、仏教経典を和訳した本を手にした。法句経から始まって、内容はよく覚えてないけど、大乗仏教経典から密教の金剛頂経まで、和訳されて一冊に編集されている本。金剛頂経は後に高野山大学で講義を聞いた先生の訳だった。手軽な経典入門書てなもんですな。
法句経やアビダルマなどは、読んで考えて、ある程度理解することができる。これが、般若経典から密教になったら、もう全くわからん。
今考えても、なんで始めたのか思い出せないけど、そのころ成瀬悟作のセルフコントロールを熱心にやってた。リラクゼーションを深めていって、手の重量感や温感を感じていく。それが、潜在意識のコントロールにつながる。
やってると、幽体離脱みたいになることもある
寝る前に、熱心にやったなー
初めての仏教経典は魅力的だった。平気で、こうすればこうなる、って、まるでホラ話みたいなことを延々と書いてたりするけど、経典のなかでは辻褄があってる。複雑精緻な専門用語。そして2500年間の気の遠くなるような研究の継続。インド、チベット、パーリ、中国、日本での甚深広博な歴史。
これに比べれば、西洋哲学や今はやりのチャネリング書など簡単でええわ。仏教は宗教でなく哲学だ、などとはよくいわれる言葉だけど、己の無学をさらけ出してるとしか思えない。今風に評価したいなら、トランスパーソナルでスピリチュアルな物語の集成とでも言ったらいいと思うよ。とにかく2500年もやってるんだから、およそ、霊的な事に関しては全ての思いつきが出尽くしてるんじゃないの。知らんで勝手なこと言ってたら恥ずかしいよ。
密教はまるで歯が立たなかった。理解不能。これが10代の終わりの僕でした。
続く
0 件のコメント:
コメントを投稿
この投稿へのリンク:
リンクを作成
<< ホーム