絶対と相対
ミソとクソって言葉がある
ミソもクソもいっしょ
クソミソに言う
など
ミソは神聖なる味噌汁のもとであり
クソはばっちいダークサイド
てことになるのだが
ミソを役に立つ食品とし
クソをばっちいものと分ける、基準が必要になる
基準を決めるのは誰か
基準を決めるのは「神」である
というのが西欧的絶対主義
これが揺らいでくると
ミソとクソを比べてみれば、どっちがいいかわかる
という比較対照を経て結論をだす相対主義になる
ただし、相対主義は、各自勝手なことを言いだして収集つかなくなることがあって
あなたのミソは私のクソ
私のミソはあなたのクソ
となることもあり、孤独で憂鬱で混乱して、がっくり疲れることになる
西欧的絶対主義から神がいなくなると
ミソもクソも同じ事で
殺人、放火、なんでもやりたい放題って文明になる、らしい
敬虔なる信仰が揺らいできている現代では、結局、相対主義が幅をきかすことになる
ほいでもって
ここでトラスピな視点をもちだすと
ミソは味噌汁にして有益に
クソは畑の肥やしで有益に
で、すべてに存在理由がある
正月神社へ初詣、お盆は寺へ墓参り、年末はクリスマス
なんの、問題もない
「一切諸法、仏法に有らざる無し」圓頓章
視点を自在に変えて、万物有意義なりと考える
というか、個人的な感覚を越えた世界から見れば
ミソはミソなり、クソはクソなりの存在理由がある
どんな不思議体験も普通の体験も、解釈というか意味づけというか、宇宙観の中への位置づけ、つまりコスモロジーがあって初めて腑に落ちる
しかしながら
西欧的絶対主義が行き詰まり、相対主義もエゴのぶつかり合いで傷つき、どうしようもなくなっているのが現代ではないですか
学級崩壊、不登校など、純粋であるはずの子供の世界が深く傷ついている
それは、お互いを結びつける共通の価値観の喪失が原因の一つだろうと思いますね
みなさん、てんでんばらばら、勝って気まま、自己中、なのです
それを、絶対的な、誰もが認めるなにかの大きな権威があれば善い悪いを決めて、道筋がつくだろうが、結局ない
せいぜい、相対的な、私なりの価値観、あなたなりの価値観、てんでんばらばらの価値基準があるだけ
コスモロジーの喪失、ということ
で、トラスピに
なんにでも存在理由がある、ってことであれば
ミソもクソも意味があるんだから、ミソもクソも一緒、なのではなくて
ミソはミソなり、クソはクソなりに意味があるってことになる
ただし、勘違いしちゃいけません、ミソはどこまでもミソで、クソはやっぱりクソです
光も闇も一緒
じゃなくて
光には光の存在理由、闇には闇の存在理由がある
ってことです
光には意味があって有益で、闇はダークサイドだから嫌い、ってのは、そのとおりですけれど
いつまでも、そんな境地じゃ、輪廻転生・生死因果から抜け出せず、堂々巡りを続けることになる
光と闇を、ともに見つめる心はどんな心?
慈悲と智慧に満ちた心だと思いますよ
その心は三界の輪廻を越えたところにあるんです
♪わかってもらいたいなー♪
ミソもクソもいっしょ
クソミソに言う
など
ミソは神聖なる味噌汁のもとであり
クソはばっちいダークサイド
てことになるのだが
ミソを役に立つ食品とし
クソをばっちいものと分ける、基準が必要になる
基準を決めるのは誰か
基準を決めるのは「神」である
というのが西欧的絶対主義
これが揺らいでくると
ミソとクソを比べてみれば、どっちがいいかわかる
という比較対照を経て結論をだす相対主義になる
ただし、相対主義は、各自勝手なことを言いだして収集つかなくなることがあって
あなたのミソは私のクソ
私のミソはあなたのクソ
となることもあり、孤独で憂鬱で混乱して、がっくり疲れることになる
西欧的絶対主義から神がいなくなると
ミソもクソも同じ事で
殺人、放火、なんでもやりたい放題って文明になる、らしい
敬虔なる信仰が揺らいできている現代では、結局、相対主義が幅をきかすことになる
西欧絶対主義とイスラム絶対主義の相克は大変なことになるだろなー
ほいでもって
ここでトラスピな視点をもちだすと
ミソは味噌汁にして有益に
クソは畑の肥やしで有益に
で、すべてに存在理由がある
正月神社へ初詣、お盆は寺へ墓参り、年末はクリスマス
なんの、問題もない
「一切諸法、仏法に有らざる無し」圓頓章
視点を自在に変えて、万物有意義なりと考える
というか、個人的な感覚を越えた世界から見れば
ミソはミソなり、クソはクソなりの存在理由がある
神話的コスモロジーが存在することで、宗教体験はたんに日常意識からの逸脱ではなく、もう一つの世界における正当な体験として人々に認知されることが可能になるのである。
宗教クライシス
どんな不思議体験も普通の体験も、解釈というか意味づけというか、宇宙観の中への位置づけ、つまりコスモロジーがあって初めて腑に落ちる
しかしながら
西欧的絶対主義が行き詰まり、相対主義もエゴのぶつかり合いで傷つき、どうしようもなくなっているのが現代ではないですか
学級崩壊、不登校など、純粋であるはずの子供の世界が深く傷ついている
それは、お互いを結びつける共通の価値観の喪失が原因の一つだろうと思いますね
みなさん、てんでんばらばら、勝って気まま、自己中、なのです
それを、絶対的な、誰もが認めるなにかの大きな権威があれば善い悪いを決めて、道筋がつくだろうが、結局ない
せいぜい、相対的な、私なりの価値観、あなたなりの価値観、てんでんばらばらの価値基準があるだけ
コスモロジーの喪失、ということ
で、トラスピに
なんにでも存在理由がある、ってことであれば
ミソもクソも意味があるんだから、ミソもクソも一緒、なのではなくて
ミソはミソなり、クソはクソなりに意味があるってことになる
ただし、勘違いしちゃいけません、ミソはどこまでもミソで、クソはやっぱりクソです
光も闇も一緒
じゃなくて
光には光の存在理由、闇には闇の存在理由がある
ってことです
光には意味があって有益で、闇はダークサイドだから嫌い、ってのは、そのとおりですけれど
いつまでも、そんな境地じゃ、輪廻転生・生死因果から抜け出せず、堂々巡りを続けることになる
光と闇を、ともに見つめる心はどんな心?
慈悲と智慧に満ちた心だと思いますよ
その心は三界の輪廻を越えたところにあるんです
♪わかってもらいたいなー♪
参考になりました
久しぶりに、示唆に富んでいて面白かった
仏教と精神分析 レグルス文庫
三枝 充悳 (著), 岸田 秀 (著)
5 件のコメント:
Terraさん、トラックバックをありがとう!
ミソ、クソのお話、おもしろかったです。
なるほど!
と、思いました。
とても、共感しました。
「本当の愛」は、「白黒の世界」の中にはないのですよね。
自分の意識の中に、白黒がある限り、深い愛を自分の中に育むことは、難しいのかもしれませんね。
Terraさんのいわれる「慈悲と智慧に満ちた心」を、目指して、
今世で無理でも、何回かの転生輪廻を通して、そのような心境に達することができたらいいなあと、
Terraさんのブログを読ませていただいて、改めて思いました。
アミより
なんだか、深いです。
ヨガの瞑想でも、陰と陽を自分のなかでバランス取るみたいな瞑想法がありますね。
自分の中のクソとミソを分けて、認めてあげるってことなんでしょうか?
アミさん
>今世で無理でも、何回かの転生輪廻を通して、そのような心境に達することができたらいいなあと
すごいなあ
僕なんか、がんばらなくっちゃ、なんて思ってしまう
仏教は、ものすごく、輪廻の循環に戻るのを嫌うんですよ
そのために修業するといってもいい
アミさんの言う「愛」とか僕が言う「慈悲」は、いわば「蜘蛛の糸」じゃないかと思います
天上から僕らに与えられた、唯一の救いの可能性かなー、って考えてます
spiritwalker さん
>ヨガの瞑想でも、陰と陽を自分のなかでバランス取るみたいな瞑想法がありますね。
へー、そうなんですか
陰陽といえば道教にもあるし、やっぱり、気になるんでしょうね
>自分の中のクソとミソを分けて、認めてあげるってことなんでしょうか?
分けるとき、どうするか、ってこともあります
たぶん、これが常識だろー、てな調子で直感的に仕訳するんですが、そのへんから疑ってかかるんですよ
文明や文化によって洗脳されている部分が、かなりあります
正義の味方にも、悪漢にも、お日様は照らすし雨は降る
正義の味方と悪漢が撃ち合いをして、どっちがやられても、憎しみと復讐心が残る
どこまでも延々と仇討ちが続く
それを、お空から見てるとき、どんな気持ちか
「馬鹿じゃなかろか」
なのか
「なんとかならないか」
なのか
僕は「なんとかならないか」と思ってくれていると感じます
それを、信仰心ということもできる
「なんとかならないか」って心が、僕らの中にあるのなら、それを僕は「光のかけら」と言いたい
か弱く無知な「光のかけら」が、さまよい歩くのが、今、僕らがいる世界なんじゃないかなー
Terraさま、拙い私のブログまで御越し頂いてありがとうございます。子供の描いたイラスト明日の朝まで見れるように設定しています。良かったら見に来てください。
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