如来
スーフィーと密教は似ているんだそうです
スーフィーとは、イスラムの神秘主義です
なんか、難しいです
瞑想をするのと、マントラを唱えるのが似ていると言えば似ています
マントラは、イスラムではズィクルというそうです
純粋できれいな宗教です
日の光にきらめく小川のせせらぎのような、清冽な宗教です
でも、やっぱ、密教とは違いますね
密教にはアッラーはいません
イスラムとキリスト教と本質的に違うのは、イスラムの場合、崇拝行為そのものが不可欠で、行動規範を行うことが宗教を実践することになる点です
神の秩序を実践するのが日々の生活の目的とでもいいましょうか、そういう生活を受け入れなければなりません
いわゆる信じる信じないではなく、行うか行わないか、が最大の問題です
キリスト教は考え方に対する規範は重視しますが、行為そのものは、裁量にまかされます
その点は仏教も同じです
神の教えをうけて、自分が個人としてどう考え、生活するか、個人としての自由の中でどうするかが問われます
ふつうのイスラムは、そこまではいかないのです
生活規範には無条件に従わなければなりません
ですが、スーフィーになると、神と個人の、心の関係性が重視されます
これは密教的です
ですけど、スーフィーは、あくまでも、アッラーと個人の関係だけしかありません
密教は、礼拝の対象となる神は、時と場合によって違います
密教にはアッラーという概念はありません
これは、仏教そのものの本質です
仏教には創造主という考え方はありません
じゃ、この世界はだれが作ったんだということになった場合は、無記といって、沈黙します、答え無しです
徹底して実存的に、自分がどうするか、から離れません
離れてしまえば、それは自分勝手な神話であり、空想になり、また妄想と変わらない、というのが仏教的な考え方です
超越的な存在がいることは、仏教でも認めます
それを如来(にょらい)と言います
来るが如きもの、ということです
絶対神と言ってしまえば、その定義を決めなければなりません
そうすると、決められた定義が、その絶対神の限界です
宇宙の全てを創造した神、と言えば、宇宙の全てを創造した神を創造した神、と言われたらおしまいです
神に限界はない、と言えば、限界のない神を造った神、とでも言えます
で、如きもの、という便利な表現を使います
ですから、仏教的に言えば、「悟り」ではなくて「悟りの如きもの」です
無上正等正覚ともいいます
覚とは言わず、覚と等しいと表現します
釈迦牟尼如来、阿弥陀如来、薬師如来、大日如来
みな、如来です
来るが如きものです
これは、絶対にはずせません
へりくつだ、と言われるかもしれません
でも、これは、インドの長い論争の歴史から生まれた、結論です
あーいえば、こーゆう、を延々と繰り返すなかから、たどり着いた、神の概念に対する智慧です
これが、仏教です
♪仏教は、創造主がいるかいないか、結局、関心がないみたいですね。ま、お好きなようにどうぞ♪
スーフィーとは、イスラムの神秘主義です
なんか、難しいです
瞑想をするのと、マントラを唱えるのが似ていると言えば似ています
マントラは、イスラムではズィクルというそうです
純粋できれいな宗教です
日の光にきらめく小川のせせらぎのような、清冽な宗教です
でも、やっぱ、密教とは違いますね
密教にはアッラーはいません
イスラムとキリスト教と本質的に違うのは、イスラムの場合、崇拝行為そのものが不可欠で、行動規範を行うことが宗教を実践することになる点です
神の秩序を実践するのが日々の生活の目的とでもいいましょうか、そういう生活を受け入れなければなりません
いわゆる信じる信じないではなく、行うか行わないか、が最大の問題です
キリスト教は考え方に対する規範は重視しますが、行為そのものは、裁量にまかされます
その点は仏教も同じです
神の教えをうけて、自分が個人としてどう考え、生活するか、個人としての自由の中でどうするかが問われます
ふつうのイスラムは、そこまではいかないのです
生活規範には無条件に従わなければなりません
ですが、スーフィーになると、神と個人の、心の関係性が重視されます
これは密教的です
ですけど、スーフィーは、あくまでも、アッラーと個人の関係だけしかありません
密教は、礼拝の対象となる神は、時と場合によって違います
密教にはアッラーという概念はありません
これは、仏教そのものの本質です
仏教には創造主という考え方はありません
じゃ、この世界はだれが作ったんだということになった場合は、無記といって、沈黙します、答え無しです
徹底して実存的に、自分がどうするか、から離れません
離れてしまえば、それは自分勝手な神話であり、空想になり、また妄想と変わらない、というのが仏教的な考え方です
超越的な存在がいることは、仏教でも認めます
それを如来(にょらい)と言います
来るが如きもの、ということです
絶対神と言ってしまえば、その定義を決めなければなりません
そうすると、決められた定義が、その絶対神の限界です
宇宙の全てを創造した神、と言えば、宇宙の全てを創造した神を創造した神、と言われたらおしまいです
神に限界はない、と言えば、限界のない神を造った神、とでも言えます
で、如きもの、という便利な表現を使います
ですから、仏教的に言えば、「悟り」ではなくて「悟りの如きもの」です
無上正等正覚ともいいます
覚とは言わず、覚と等しいと表現します
釈迦牟尼如来、阿弥陀如来、薬師如来、大日如来
みな、如来です
来るが如きものです
これは、絶対にはずせません
へりくつだ、と言われるかもしれません
でも、これは、インドの長い論争の歴史から生まれた、結論です
あーいえば、こーゆう、を延々と繰り返すなかから、たどり着いた、神の概念に対する智慧です
これが、仏教です
♪仏教は、創造主がいるかいないか、結局、関心がないみたいですね。ま、お好きなようにどうぞ♪
3 件のコメント:
Terraさんのらくがき帖の中の「修行」について考えていたら、閃いたんです。
身体を、精神が自在に動かせるようになることが修行なのかもしれないと。
怠けたい気持ちは、肉体と密接につながっていて、動かしきれないから怠ける。
肉体と脳がつながって考える思考と、心の精神が求める思考は別のものだから、そこを、精神が自在に動かすことが出来るようになることが「悟る」ということなのかもしれないと、感じました。
以前のブログで、お釈迦様が、ハンドクに掃除をする事で悟りをひらかせたお話がありました。
なぜ?掃除で悟るのか?ずっと疑問に思っていた謎が、わたしの中では解決しました(笑)。
あくまでもわたしの勝手な解釈として見逃して(笑)頂きたいのですが
>イスラムの場合、崇拝行為そのものが不可欠で、行動規範を行うことが宗教を実践することになる
といのも、まさしく「ハンドク」のお話に通ずるのではないか?と感じました。(ごめんなさい、勝手な解釈です)
単純な行動には、肉体とつながる脳の思考は必要ない訳です。つまり単純作業に必要な思考は精神力だけ。精神の力を鍛える作業が、「修行」なのかもしれないと、感じました。
・・って、頭でわかっても、実践となると難しい・・というところが、「上に行くほど難しい」ことなんだ、と深く理解しました(笑)。
yukiさん
ごめんね
違いますね
早いですね!Terraさん(笑)。
ありがとうございました!
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