感性と理性
法華曼荼羅図 一幅
絹本著色 縦137.8 横124.2(曼荼羅部分)
江戸中期(18世紀)
長保寺第7世徳因が天明3年(1783)に描かせたものである。
法華経宝塔品によって、釈迦如来・多宝如来の二仏を主尊にした曼陀羅で、法華経法を修するときに用います
右が釈迦如来です
現在、法華経法は特殊な法要でしかやらないと思います
僕は、どこかでやったというのを聞いたことはないです
真ん中に釈迦如来・多宝如来がならんでいるのは、密教的には、釈迦如来を金剛界、多宝如来を胎蔵と考えて、金剛界と胎蔵の徳を法華経が合わせ持っていることを示しています
いま普通に使う曼陀羅には、金剛界曼陀羅と胎蔵曼陀羅の二種類ありますが、金剛界大日如来と胎蔵大日如来を別々に拝みます
曼陀羅として完成したのが、今から1500年位前だろうと考えられています
金剛界大日如来は南インド、胎蔵大日如来は北インドで信仰されていたのではないかと考えられていて、もともと、まったく別々に発達したものが中国にもたらされ、別々に伝えられていたものが、日本で一つにまとめられて信仰されるようになりました
それでも、曼陀羅は別々のものでしたが、この法華曼陀羅では一つにまとめられました
密教の日本的な特徴の完成形とも言えます
金剛界というのは唯識観で、胎蔵が空観です
この唯識観と空観が、仏教のもっとも基本的な考え方です
唯識観は、つまり、全ては心だ、ということで、仏教的には、物質も心に感じられる対象物ととらえます
硬く、重たい感じ、と言えば、物質のことになるという調子で、かなり、こじつけのようですが、それなりに辻褄はあうようになっています
空観は、全ては空、ということなのですが、全ては流動的な因果関係であり、常に変転して定まった性質というものはない、という考え方です
世界の全ては「変化し続ける心」によって出来ている、という考え方になるわけです
全ては繋がっています、というか、一つの意識しかないということになります
えーと、ですから、他人の考えてる事がわかり、他人の痛みを感じてヒーリングしたり、神仏の境地を体験したりしても、不思議ではないです
だから、変化し続けるのだから、なにごとにも執着するなと説くし、はてしなく因果関係はつながっているのだから、悪いことをすれば最後は自分に悪い報いが生じ、善いことをすれば必ず自分に善い報いが生じるとも説きます
自分と他人を区別して考えるのは表面的なとらえかたで、「変化し続ける心」というひとまとまりの存在であるのだから、他人の苦しみを自分のことと感じ、喜びを自分の事と感じる、と説きます
ですから、「慈悲」は仏教的には、自分が他人に対してすることではなく、「変化し続ける心」という一つの意識のなかで、自他の区別なく感じ、行うことの意味になります
説明は、それなりにあるわけですが、じゃ、自分の意志というか、自分で自分をコントロールする、自分で自分を観察する、なにかをするのを決める自由とか、そういうものをどう説明しているのか
それはですね、釈迦如来・多宝如来がならんで坐っているのが答えです
これを、感性と理性と、考えてもいいです
融合して一つの仏になる、という考え方は仏教にはないのです
釈迦如来の言うことを多宝如来が、そうだそうだ、と相槌を打ちます
それがどうした、ということですが
感性と理性、これが分裂しているのを、釈迦如来・多宝如来が並んでいる姿で表しています
弘法大師は修業を始めた頃、東大寺の大仏に対して、「願わくば不二を与えたまえ」と祈ったのですが、感性と理性が分裂しているのが迷いの状態で、一致したのが悟りの状態ということなのです
で、理性は常に自分を観察しているわけです
感性は、感触にひたりますが、評価はしません
「自灯明 法灯明」で、なんでもうまくいくかというと、なかなかそうでもないのですが
それでも、常に、自分で自分を検証する作用が人間には備わっているということなのです
で、常に、感性と理性は分裂していて葛藤があります
迷い、さまよい、苦しんでいます
それが統合した、無心の状態
そんな生き方を仏教は求めているということです
無心の状態のなかに、慈悲がある、ということです
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