忘己利他
ここまで、いろいろと書き連ねてきましたが、僕の独創なんてものはありあません
「己を忘れて他を利するは 慈悲の極みなり」伝教大師
忘己利他
ですね 比叡山の最澄さん、つまり伝教大師の言葉にすべて尽きてるのです
僕の本職のほうのホームページは1996年からやってます
これより古い年から始まったホームページは無いはずですよ
インターネットの商業利用が始まって、一般の人がホームページをつくることができるようになったのが96年ですから
そのときから、僕は「己を忘れて他を利するは 慈悲の極みなり」を一番最初に掲げてます
「己を忘れる」のが「感性と理性の統合」、「見る者・理」と「見られる物・智」の統合、「執着を棄て思考停止し感覚遮断した状態」です
「他を利する」のが慈悲ですよね、「誰かのために一生懸命、なにかをする」です
それが「慈悲の極み」と
理屈は、「理智不二」、「棄恩入無為」、「止観」、「輪廻して三界の中でいいポジションを持つのと違う」、とまあ、かなりややこしいですが要するに忘己利他です
僕は、高野山で修行者の監督をしてたことがあるのですけど、きちっとした仏さんを、きちっとした伝授で、監督者がついて拝んでれば、修行の初めの頃はいろんなことがありますが、最後にはうまくいきます
拝んでいるのを見ると、行者に金色の後光が見えるのですよ
拝みたくなりますよ
ですが、残念なことに、うまくいかないことも、たまにあります
すごい霊能力のある行者がいて、先輩のお父上でしたね
かなりの年輩でしたが、年下の僕のところで加行しました
これが、すごかったのは、僕は皆が勤行してるときは、いつも別室で護摩を焚いてたんです
かなりややこしい護摩で、加行道場にあるいろんな仏さんを勧請して拝んでました
それが、別の所にいるのに、なんの護摩かわかるのです
いや、たいしたもんです
僕は、若かったせいもあって、ものすごく怒られたりして怖かったですよ
でも、護摩は見抜いてました
九州の方だったですね
九州は霊能の強い人が多いです
僕は、温泉や火山が多いのと関係あるかなと思いますけど
ま、パワーですね 強い
それが、加行終えられて2,3年後だったかな、消息を聞くと、多臓器不全で、ありとあらゆる病気にかかって亡くなったということでした・・・
ある程度、予想はしてました
なんというか、加行中からね、力の信奉者でした
真言宗の修行では「慈悲」ってのをそんなに強調しないんです
言葉として、あんまり出てこない
キリスト教なんかのほうは、多いかなって印象ですね
それで、僕は、勘違いしないように、脱線しないように、それにはどうするかと、無い知恵をめぐらして、やっぱ慈悲を強調しようと、これは、経験から確信してます
フォトンベルトがどうたらこうたら、とか、なにかがどうかして、とかで、霊感が強くなるとか、今まで見えなかったものが見えてくるとか、言いますが、勘違いしないように
修行無しで霊感があったりすると、どうも、慈悲の感触がわからなくなることがあるので、最初から霊感強いと、むしろ難しいんですよ
パワーじゃなくて、愛ですよ くれぐれもよろしく
ヒーリングされる方は特に、カルマはやっぱり必要だから現れてくるんですから、簡単には消滅しないんです
こうすればこうなる、などと、機械みたいに考えてるとひどい目に遭いますよ
脱線してみて学ぶのもいいですけど、引き返せなくなった人を沢山見ましたからね
今も、沢山いるようにお見受けしますね
やっぱり、本当に、慈悲をわかってないとね
それには、やっぱり忘己利他の意味を理解してください
この三界にはいろんな存在がいて、輝いているのもいれば、腐った奴もいる
輝きだけまねするのもいますな
それで、慈悲の感触っていつも言うんです
オーラなんか、コントロール出来るよ
知ってるチベットの坊さんですけど、どんな色でも出すことが出来た
人間ってほら、化けるとか、なりきるってこともあるのでね
霊的な存在もそういうことになりますね
まあ、紫だから、金色だから、いい、とかは、これ、初心者の話で
病気が治った、てのも、カルマのつけ回しだったり
慈悲の感触っても、ヤクザの親分にも仁義はあるので
子供じみてお目出度く考えてる人が多いよ
やっぱり、けっこう難しいもんなんですよ
霊媒体質ってよく言うけど、己をむなしくすれば、自然と自他の境界は消えてきます
ですから、どうしても通っていかなければならない道です
見える、聞こえるは、智慧が開かれてきているのですから、後戻りはしません
自分の能力を無視することは出来ますが、愛に背を向けることになりますよ
怖がらないで、もっと深く慈悲を感じるしか進む道はありません
沢山の輝き達が守り導いてくれる、ってのを信仰というんだけれど
信仰をもってくださいね
♪そろそろネタ切れかな♪
「己を忘れて他を利するは 慈悲の極みなり」伝教大師
忘己利他
ですね 比叡山の最澄さん、つまり伝教大師の言葉にすべて尽きてるのです
僕の本職のほうのホームページは1996年からやってます
これより古い年から始まったホームページは無いはずですよ
インターネットの商業利用が始まって、一般の人がホームページをつくることができるようになったのが96年ですから
そのときから、僕は「己を忘れて他を利するは 慈悲の極みなり」を一番最初に掲げてます
「己を忘れる」のが「感性と理性の統合」、「見る者・理」と「見られる物・智」の統合、「執着を棄て思考停止し感覚遮断した状態」です
「他を利する」のが慈悲ですよね、「誰かのために一生懸命、なにかをする」です
それが「慈悲の極み」と
理屈は、「理智不二」、「棄恩入無為」、「止観」、「輪廻して三界の中でいいポジションを持つのと違う」、とまあ、かなりややこしいですが要するに忘己利他です
僕は、高野山で修行者の監督をしてたことがあるのですけど、きちっとした仏さんを、きちっとした伝授で、監督者がついて拝んでれば、修行の初めの頃はいろんなことがありますが、最後にはうまくいきます
拝んでいるのを見ると、行者に金色の後光が見えるのですよ
拝みたくなりますよ
ですが、残念なことに、うまくいかないことも、たまにあります
すごい霊能力のある行者がいて、先輩のお父上でしたね
かなりの年輩でしたが、年下の僕のところで加行しました
これが、すごかったのは、僕は皆が勤行してるときは、いつも別室で護摩を焚いてたんです
かなりややこしい護摩で、加行道場にあるいろんな仏さんを勧請して拝んでました
それが、別の所にいるのに、なんの護摩かわかるのです
いや、たいしたもんです
僕は、若かったせいもあって、ものすごく怒られたりして怖かったですよ
でも、護摩は見抜いてました
九州の方だったですね
九州は霊能の強い人が多いです
僕は、温泉や火山が多いのと関係あるかなと思いますけど
ま、パワーですね 強い
それが、加行終えられて2,3年後だったかな、消息を聞くと、多臓器不全で、ありとあらゆる病気にかかって亡くなったということでした・・・
ある程度、予想はしてました
なんというか、加行中からね、力の信奉者でした
真言宗の修行では「慈悲」ってのをそんなに強調しないんです
言葉として、あんまり出てこない
キリスト教なんかのほうは、多いかなって印象ですね
それで、僕は、勘違いしないように、脱線しないように、それにはどうするかと、無い知恵をめぐらして、やっぱ慈悲を強調しようと、これは、経験から確信してます
フォトンベルトがどうたらこうたら、とか、なにかがどうかして、とかで、霊感が強くなるとか、今まで見えなかったものが見えてくるとか、言いますが、勘違いしないように
修行無しで霊感があったりすると、どうも、慈悲の感触がわからなくなることがあるので、最初から霊感強いと、むしろ難しいんですよ
パワーじゃなくて、愛ですよ くれぐれもよろしく
ヒーリングされる方は特に、カルマはやっぱり必要だから現れてくるんですから、簡単には消滅しないんです
こうすればこうなる、などと、機械みたいに考えてるとひどい目に遭いますよ
脱線してみて学ぶのもいいですけど、引き返せなくなった人を沢山見ましたからね
今も、沢山いるようにお見受けしますね
やっぱり、本当に、慈悲をわかってないとね
それには、やっぱり忘己利他の意味を理解してください
この三界にはいろんな存在がいて、輝いているのもいれば、腐った奴もいる
輝きだけまねするのもいますな
それで、慈悲の感触っていつも言うんです
オーラなんか、コントロール出来るよ
知ってるチベットの坊さんですけど、どんな色でも出すことが出来た
人間ってほら、化けるとか、なりきるってこともあるのでね
霊的な存在もそういうことになりますね
まあ、紫だから、金色だから、いい、とかは、これ、初心者の話で
病気が治った、てのも、カルマのつけ回しだったり
慈悲の感触っても、ヤクザの親分にも仁義はあるので
子供じみてお目出度く考えてる人が多いよ
やっぱり、けっこう難しいもんなんですよ
霊媒体質ってよく言うけど、己をむなしくすれば、自然と自他の境界は消えてきます
ですから、どうしても通っていかなければならない道です
見える、聞こえるは、智慧が開かれてきているのですから、後戻りはしません
自分の能力を無視することは出来ますが、愛に背を向けることになりますよ
怖がらないで、もっと深く慈悲を感じるしか進む道はありません
沢山の輝き達が守り導いてくれる、ってのを信仰というんだけれど
信仰をもってくださいね
♪そろそろネタ切れかな♪
ラベル: 忘己利他
0 件のコメント:
コメントを投稿
この投稿へのリンク:
リンクを作成
<< ホーム