プロトコル
脳味噌が別々だってことで、僕らの脳内イメージは、常に、違うのは、これはどうしようもないのですけど、このどうしようもないところから、発想をするしかないです
お経なんかでも、「如是我聞」といって、かくのごとく私は聞いたで始まって、このあたりは厳密に考えてます
それで、仏教は南伝、北伝とかいって、伝播の経路で分類したりしますが、これすべて、お釈迦さんが直接話したとかいう話じゃなくて、伝え聞きのそのまた変化形とか、進化形だったりいろいろなわけです
現在の研究では、スリランカが一番、お釈迦様の原型に近いんじゃないかと考えられているようです
まあ、チベットがどうだとか、阿含がどうとかとか言うわけですが、もともと全部「如是我聞」なんだから、お互い様なのです
僕的には、どっちが優れているかなどという話の持ってきかたは、「どんぶり鉢」の優秀さを比べるようなもんで、どうでもいいことです
そんなことより、自分自身はどうなの、ってことです
そ れで、インドが仏教の権威の中心かというと、お釈迦様の誕生の伝説についてさえ、ヒンドゥーの影響があるわけで、それは、長い歴史のなかで当然でもあるの ですが、残念ながらカースト制度の中の話が織り込まれていたりして、つまり、インドに近いから良し、と単純にいかないのです
じゃ、どうやって真実を見分けるのか、と言ったら、もう、ロジックしか無いんじゃないかと思いますね
たとえば、ヒンドゥー教では、お釈迦様はビシュヌの9番目だったと思うけど、生まれ変わりだそうで、実際、いまの仏教聖地にインドの人達がたくさんお参りしますが、ビシュヌ神の信者さんたちなのです
それを、仏伝には仏伝で、お釈迦様の前世もあるのですが、これ、やっぱり、根拠不明の神話のような話ばかりで、どっちがどうとか、もう、わかりません
ただ、仏教のもっているロジックには、平等ということ、自由ということ、慈悲と智慧ということ、があるのです
それを、アンベートカルが仏教のロジックのどういうところに感心したか知りませんが、ヒンドゥーの聖者達には、このロジックが決定的に欠如しています
霊感や善意だけでは、どうしても、普遍性は得られないということは、インドのような所だからこそ、徹底的に突きつけられる問題でもあるのではないですか
日本の仏教開祖で一番著作が多いのは道元だそうですけど、禅は文字で表せないって建前なんですが、何故か、著作は多いのです
これ、やはり、フィーリングですね、感性と、ロジック、理性、のバランスが必要だからじゃないかと思いますね
精神世界のいろんなお考えがですね、これ、脳内イメージですから、どうしようもなく、否定も肯定もできません
その人にとって真実なのですが、隣の人は、別のイメージを見ているのですよ
そこの所を、仏教は、脳内にイメージされる前の世界を感じようとしてきたんじゃないですかね
脳内イメージにしがみついているのが我執であって、それを棄てれば、真実が見えるということ
お互いが、決定的に別々だが、慈悲が共通の価値だということ
別々で自由であるのだが、慈悲によって、お互いの心が繋がるということ
そして智慧によって自分自身を導くことができるということ
そこらあたりから、いろいろ発展し応用し、歴史や伝統や、まあ、間違いもあると
それが仏教なんだということじゃないですかね
で、そういうロジックが、自分勝手な空想的な妄想かもしれない、いろいろな、精神世界の諸説紛々を整理整頓できると
まあ、うちの建物は本堂・多宝塔・大門と国宝ですけど、そんな寺は、あと法隆寺しかありません
自慢しちゃいますが、眼をつぶっちゃえば、もう見えません
残念です
でも、眼をつぶっても、そこには「何か」があります
それは別々の脳味噌で各人各様のイメージになるまえの「何か」です
「心」だけが感じることができます
パスワードは「慈悲」、プロトコルは「心」です
自分という「どんぶり鉢」にしがみつくことをやめれば、「心」が「何か」を感じます
「慈悲」で、アクセスすることが出来ます
どえらい神様や教祖様の子分になる必要はありません
自分が自分の主人です
悪くない話だと思いますけどね
♪けっこうネタが切れないもんだわ♪
お経なんかでも、「如是我聞」といって、かくのごとく私は聞いたで始まって、このあたりは厳密に考えてます
それで、仏教は南伝、北伝とかいって、伝播の経路で分類したりしますが、これすべて、お釈迦さんが直接話したとかいう話じゃなくて、伝え聞きのそのまた変化形とか、進化形だったりいろいろなわけです
現在の研究では、スリランカが一番、お釈迦様の原型に近いんじゃないかと考えられているようです
まあ、チベットがどうだとか、阿含がどうとかとか言うわけですが、もともと全部「如是我聞」なんだから、お互い様なのです
僕的には、どっちが優れているかなどという話の持ってきかたは、「どんぶり鉢」の優秀さを比べるようなもんで、どうでもいいことです
そんなことより、自分自身はどうなの、ってことです
そ れで、インドが仏教の権威の中心かというと、お釈迦様の誕生の伝説についてさえ、ヒンドゥーの影響があるわけで、それは、長い歴史のなかで当然でもあるの ですが、残念ながらカースト制度の中の話が織り込まれていたりして、つまり、インドに近いから良し、と単純にいかないのです
じゃ、どうやって真実を見分けるのか、と言ったら、もう、ロジックしか無いんじゃないかと思いますね
たとえば、ヒンドゥー教では、お釈迦様はビシュヌの9番目だったと思うけど、生まれ変わりだそうで、実際、いまの仏教聖地にインドの人達がたくさんお参りしますが、ビシュヌ神の信者さんたちなのです
それを、仏伝には仏伝で、お釈迦様の前世もあるのですが、これ、やっぱり、根拠不明の神話のような話ばかりで、どっちがどうとか、もう、わかりません
ただ、仏教のもっているロジックには、平等ということ、自由ということ、慈悲と智慧ということ、があるのです
それを、アンベートカルが仏教のロジックのどういうところに感心したか知りませんが、ヒンドゥーの聖者達には、このロジックが決定的に欠如しています
霊感や善意だけでは、どうしても、普遍性は得られないということは、インドのような所だからこそ、徹底的に突きつけられる問題でもあるのではないですか
日本の仏教開祖で一番著作が多いのは道元だそうですけど、禅は文字で表せないって建前なんですが、何故か、著作は多いのです
これ、やはり、フィーリングですね、感性と、ロジック、理性、のバランスが必要だからじゃないかと思いますね
精神世界のいろんなお考えがですね、これ、脳内イメージですから、どうしようもなく、否定も肯定もできません
その人にとって真実なのですが、隣の人は、別のイメージを見ているのですよ
そこの所を、仏教は、脳内にイメージされる前の世界を感じようとしてきたんじゃないですかね
脳内イメージにしがみついているのが我執であって、それを棄てれば、真実が見えるということ
お互いが、決定的に別々だが、慈悲が共通の価値だということ
別々で自由であるのだが、慈悲によって、お互いの心が繋がるということ
そして智慧によって自分自身を導くことができるということ
そこらあたりから、いろいろ発展し応用し、歴史や伝統や、まあ、間違いもあると
それが仏教なんだということじゃないですかね
で、そういうロジックが、自分勝手な空想的な妄想かもしれない、いろいろな、精神世界の諸説紛々を整理整頓できると
まあ、うちの建物は本堂・多宝塔・大門と国宝ですけど、そんな寺は、あと法隆寺しかありません
自慢しちゃいますが、眼をつぶっちゃえば、もう見えません
残念です
でも、眼をつぶっても、そこには「何か」があります
それは別々の脳味噌で各人各様のイメージになるまえの「何か」です
「心」だけが感じることができます
パスワードは「慈悲」、プロトコルは「心」です
自分という「どんぶり鉢」にしがみつくことをやめれば、「心」が「何か」を感じます
「慈悲」で、アクセスすることが出来ます
どえらい神様や教祖様の子分になる必要はありません
自分が自分の主人です
悪くない話だと思いますけどね
♪けっこうネタが切れないもんだわ♪
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