密教は仏教なのか
紙本墨書 縦30.6 横14.0 鎌倉後期(13世紀) 長保寺蔵
5行67字にわたる日蓮(1222?82)自筆の書簡と思われる。紙背の極書によれば、享保8年(1723)2月16日に身延山久遠寺から賜ったものであることが分かる。また箱裏書によれば、もとは徳川宗将の母・永隆院の護持物ということであるから、久遠寺から永隆院に与えられたことが推測される。さらに、宝物目録などによれば宝暦年間(1751?64)に長保寺に寄進されたということである。
日蓮教学研究所によって御真蹟であることが確認されています。
文章の判読
るを法相と三論と地論と摂論等□
経をすてゝ論に付ぬ。背上向下宗
(の)天台伝教にわらわる□
論の経に相違するこそなを此をすつ。
何況人師の経に相違せんをや。但なけ
現代語訳
法相宗・三論宗、地論宗・摂論宗などの宗派は、仏の教えである経典を捨てて人師の説である論に依拠している。仏の教えを捨てて人師の説に立脚するこのような諸宗派は、経典に立脚して教えを立てた天台大師や伝教大師に笑われてしまうであろう。論が経と相違した場合でさえ論の説を捨てて経に付くのが当然であり、ましてや人師の説が経に相違したは、なおさら、人師の説を捨てて経に付くべきである。
和歌山県長保寺蔵日連聖人遺文について 庵谷行亨
日蓮上人は、天台大師や伝教大師のことは攻撃しないのです
むしろ、自分こそ正当な継承者だと考えていたようです
まあ、でも、このお書きになった文字を見てもおわかりのよに、飛び跳ねているというか、情熱的で、激しく、普通の人は何が書いてあるか、ちょっとわかりずらいと思いますが、そんなお人柄が日蓮宗にも反映されて、一途な激しい考え方になったのでしょうか
天台大師は、中国の天台山で修行したから天台という地名をとってそう呼ばれていますが、名前を智ギ(ちぎ)といいます(538-597)奇しくも、538年は、日本に仏教がもたらされた年です
中国には、インドから仏教経典が、成立年代や学派などに関係なくバラバラにもたらされましたが、それを、系統的に整理し、年代順に並べて整理しました
今でも、五時八教と言って、基本的なところはそのまま受け継がれています
実は、この部分こそ、大乗仏教の根源とでもいえるところです
チベットの無上ヨガのような、唯識系の金剛頂経と空観系の大日経を合体した、男女合一の父母タントラの方向にイメージが増殖することもなく
スリランカなどの南方仏教のように、釈尊当時の形を至上のものと考えるでもない
第三の道に進んでいったのです
五時八教については、ここでは簡単にふれるだけにします、なにぶん、天台学の精髄ですので、ややこしいのです(汗)
五時
- 華厳時 (華厳経)
- 鹿苑時 (阿含経)
- 方等時 (維摩・思益・金光明・勝鬘等の大乗経)
- 般若時 (諸種の般若経)
- 法華・涅槃時(法華経・涅槃経)
- 頓教 仏の悟りそのものの教説
- 漸教 浅略から次第に深く説く教説
- 秘密教 相互に知られず、能力に応じて理解される教説
- 不定教 教示をうけた側で、能力に応じて理解される教説
- 三蔵教 小乗仏教
- 通教 声聞・縁覚・菩薩に共通した教法
- 別教 一般的な大乗仏教
- 円教 天台の教法
智ギによって分類整理されたのは、釈尊から弟子が聞いたものを書き記した経典です
密教は、大日如来から金剛薩タが聞いたものを書き記したものです
ですから、本質的には、密教は仏教ではありません
厳密に言えば、中国と日本の高僧によって、仏説の延長として承認されたから仏教として認められたものです
密教はナーガルジュナによって感得されたイメージと言ってもいいと思います(画像は 絹本著色(龍猛 ナーガルジュナ)縦89.4 横57.3 室町後期(16世紀)長保寺蔵)
なかなか、密教を釈尊の言葉にくっつけて一つの物語にするのに、皆さん苦労しているのです
弘法大師は十住心論で、「顕薬塵をはらい真言蔵を開く」として、密教以外を薬の能書き、密教だけが薬、というように、釈尊のお経をばっさり切り捨てて、分類しました
大日如来>釈尊で、密勝顕劣ともいいます
わかりやすいのですけれど、なぜか、そこで終わって発展がなく、天台学の比叡山から日本仏教が発展していったというのが歴史です
天台宗では、どうにも密教と五時八教との整合性に苦しんで、弘法大師ほどすっきりした分類になりませんでした
慈覚大師と智證大師は中国までいった時、わざわざ、大日如来=釈尊であることを確認して、仏教の正当な伝統的解釈であることを確かめました
それをしなければ、密教は仏教のなかで認められなかったでしょう
(釈迦牟尼如来を毘盧遮那遍一切処と号す 無量義経が根拠とされている)
それで、比叡山では法華経・阿弥陀経・般若心経は、金剛頂経や大日経と同じ密教だということになりました
実際ですから、密教が仏教だと言いきるのは、きわどいところがあるのは確かです
考え方によっては、ナーガルジュナ以外のイメージも、仏教を土台にしていさえすれば可能という理屈になります
密教に登場する、仏や菩薩や神々がインド的な装身具をまとい、真言は当時のインドの雅語であるサンスクリットですけれど、それは、インド人のナーガルジュナが感得したからであり、
なにがなんでもそうじゃなくても、感得しさえすれば、日本語の真言で、観音さんがユニクロを着て、パワーストーンを首からぶら下げててもおかしくないってことにもなります
感得ということをベースにすれば、日本の神道で、神様が昔の服を着ていて、日本語の祝詞をあげますが、「祝詞は真言と同じだ」と決めてしまえば、これも密教と言うこともできます
チベットの真言には、わりとこれに近いものもあります
善いか悪いか別にして
それで、感得の正当性を歴史的人物の神格化によって保証してるのが密教です
だから、伝授の道筋に徹底的にこだわります
ただ、これも、600年位の間に7人しか継承者がいなくて、ナーガルジュナの弟子のナーガボーディは寿命が700年だということになって辻褄があっています((龍智 ナーガボーディ)縦89.3 横57.2))
僕的に言えば、まあ、ある程度、伝授の道筋は有効ですので、絶対安全ではないですが、大事にするべきとは思います
ですが、どんなにこだわっても、脱線する奴は脱線します
決められた方法で拝まないか、くだらぬ神様を拝むかすると、ほぼ確実に脱線します
つまり、自己流は脱線の危険ありです
本を読んでわかったつもり、などというのは全くダメです
ですので、密教はなかなかいいもんだと思うのですが、本格的に大衆化するのは無理があります
手順を追ったきちんとした伝授と、ややこしい拝み方をマスターするための相応の修行期間がなければいけません
それで、高野山や比叡山では、伝統的に、密教はエリート僧侶のものと考えてきました
ですが、これ、妻帯せず、精進料理で戒律を保つのが条件です
それが、明治以降、いつのまにか、世俗化しました
文明開化の時代に野蛮な風習だと西洋人が言ったからだ、とか、文献にはあります
なんの徹底した議論もなく、なし崩し的に世俗化しました
今でも比叡山には、昔ながらの坊さんがいますが、高野山では、僕は知らないですね
高野山の方には、弘法大師の密教と現在の高野山のやりかたがどう繋がっているか教えてもらいたいですね
比叡山の場合は、親鸞さんの考え方が支持されて、妻帯も多くなったと考えるべきでしょう
智ギに始まる流れは、大衆を救う流れとして、必然的に世俗化していったということでしょうか
高野山も横目でそれを見て、取り入れたってことでしょうかね
理詰めに考えれば、エリート以外完全な実習が不可能な密教にこだわることはないのです
大乗仏教の目的は、大衆の救済なのですから、曼陀羅だとか、ややこしい仏具とかを絶対必要なものと考えるのは筋違いじゃないですかね
脳内にイメージされる前の世界が、ほんとうの世界
脳内イメージにしがみつくのをやめれば、ほんとうの世界が見える
法華経、阿弥陀経、般若心経など天台的には密教に属する経典は、読誦する事自体に霊的な力があります
これらの経典は、諸仏(釈尊意外の仏も含む)によって守られています
瞑想しないでも、経典読誦だけでいいことになっています
もちろん、瞑想するにこしたことはありません
瞑想する自信がない、よくわからない、時間がとれない、などの方は、「お経を読む」ことをお薦めします
意味がわかっていることが望ましいですが、ホントのことを言うと、わからないでも効果があります
どうしてか、よくわかりませんが、やはり、仏さんが一方的に守ってくれるようです
お経は呪文のようなもの、かもしれません
お経を読むのは、暗記ではなく、手に本を持って読む「読誦」が奨励されてきました
普通に本を読むようなのを「読」、声に出して読むのを「誦」といって、あわさったのが「読誦」です
もちろん「読」だけでも「誦」だけでもけっこうです
これは、トラスピフラリーな話題にはならないのですが、とりあえず、全然間に合います
ほかのものは必要ありません
執着はほどほどにし
神仏を信仰し
お経を読んで
死んでも心はなくならないとわきまえて
因果はめぐりめぐって自分にかえってくると覚悟して
慈悲をこころがけ
智慧を深める
これかなー
3 件のコメント:
ご解説を読ませて頂いて、お経を読むことが良いことは分かりました。
ありがとうございます。
ところで、般若心経以外にもお経があります。
オールマイティと弘法大師にも太鼓判を押されている心経以外のお経にもそれぞれ役割というものがあるのでしょうか?
あるとすればそれぞれどのような役割なのでしょうか?
お経と一口に言いますが、88000巻あるともいわれ、全てを解説することはできません。各宗派による伝統的解釈や、我田引水的解釈もあり、ちょっとご質問の範囲が広すぎます
オールマイティと弘法大師にも太鼓判を押されている心経>伝統的に神仏両方を拝むのに使われますが、キリスト教やイスラムには使いません
愛想がないお答えなので、よけいな解説を書いときますが
観音経は、祈祷
阿弥陀経は回向、先祖供養
理趣経は回向
自我偈は回向
般若心経は祈祷、法楽
に主として使っています
般若心経、観音経は回向にも使えますが、正式の法要ではあまり回向には使いません
詳しくは専門書でご研究ください
terraさん、ありがとうございました。
たいへん勉強になりました。
返信遅くなりました、すみません。
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