Love Supreme
コルトレーンでございます
Love Supremeは1964年の録音
思い出深いですね 高校生の頃、よく中野、吉祥寺、新宿あたりのジャズ喫茶に入り浸っていました
なんといってもMy Favorite Thingsですけど
実際の演奏は、悟ってるとか、念仏だとか評論されてたみたいですね
Ascensionこちらでちょこっと聞けますが
今はやりのアセンションですけど もう、とっくの昔にですね、僕はやっちゃってるのですよ、気分的には
芸術は永遠だ、などとよく言いますが
当時ぼんやりと考えました
太陽にも寿命があるというなら、今一生懸命立てているビルとかダムも消えてしまうのだろう
コルトレーンのことも忘れ去られるのだろう
僕のことなど、完全消去ということか・・・
いったいどこに永遠などというものがあるのか
コルトレーンを聞きながら、物思いにふけったのでした
さて
神仏と簡単に一口で言いますけど、輪廻転生を前提に考えれば、仏教では、僕らは、とどのつまり、最終的には、神仏になることになってます
魂は永遠に生き通します
死んじゃったから魂になるんで、もう死ねません
今度は生まれます
また、生まれ変わって、そして死んじゃったら、また魂になります
死んでも意識があるので、自分が死んでいるのではないと勘違いしてる状態が、成仏してないと言われてる状態です
生前のこだわりのまま、ぐるぐると堂々巡りで、時間の感覚がなく、同じ事を続けている場合が多いです
目の覚めない夢を見ているような感じなのでしょうか
あれっと思っていても最初に戻って、また始めからおなじことの繰り返しをする
霊を感じる方は、たいていこの勘違いにつきあっているわけで、恐怖感があったり、わけわからんことになって当然です
霊の言い分は、ですから、勘違いがもとにありますので、あまり真に受けてはいけません
ああ、死んじゃったんだ、とわかって、じゃ、いつまでもくよくよしないで次行こうと、なんと言いますか、それなりに前向きな気持ちになるのを、浮かばれると言うのでしょう
霊の世界で生きて、いたずらするのも面白れえぞ、などという輩を悪霊と呼ぶのですが、なんと言うか、霊は案外と素直ですから、真面目に説得すれば大抵通じます
よ く、成仏してくださいとか、光にお進みくださいとか、先祖供養などと言いますが、結局、いった先でどうなるか、と言えば、時が来れば、人間界とは限りませ んが、どこかの世界に生まれ、段々と賢さを増していって、遠い未来になるかもしれませんが、最後には神か仏になる、ことになってます
で、この生まれ変わることで蓄積されていく賢さを智慧と言いますが、これは、なかなか身につけるのはたいへんです
仏教では、神仏になることはわかっていても、この世にとどまって、いいことをしている存在(あなたの事です)を菩薩といいます
観音さんや地蔵さんは、いつまでもこの世界を救い続ける偉い菩薩で、まあ、かけだしの菩薩もいると
いいことをしようという気持ちがつまり慈悲です
慈悲のほうは、その気になればいいだけですので、わりと簡単です
智慧のほうは、本格的には、かなり輪廻転生を繰り返さないと身に付かないってことになります
慈悲が感性としたら、智慧は理性ですよね
これは、統合していて、バランスがとれているのが理想です
で、仏教では、とにかく、なにはさておき、慈悲だ
難しい智慧のほうは、ぼちぼち行きましょう、と考えてます
間違っても、勘違いでも、遠回りでも、なんでもかんでも慈悲で行けってことなんです
Love Supremeです
で、祈るってのは、基本は、難しい方の智慧、智慧を授けてもらいたいってことになるわけです
授かった智慧で、自分でなんとかする
その智慧で、自分勝手な思いこみの慈悲になってないか反省もする
なんか、誰かがやってくれるのではないです
いつまでも、なにかに依存してれば、智慧は身につきません
努力をしてれば、それなりに、なにもしないでボンヤリしてれば、やはりそれなりに(たぶん厳しく)、教えてもらえると、まあ、考えてるわけです、仏教では
神は自ら助くる者を助く とか
人事を尽くして天命を待つ とか
昔からいろいろ言いますが、慈悲を心がけて、智慧の導きを祈り、努力している者に、天の助けがあるんじゃないですか
うちなんかでも、いろんな願い事を皆さんしますが、ほとんどが、身体健全・家内安全です、もう言い尽くしてます
で、身体健全なら、健康にいいことはこれなんだと気がつく、と
家内安全なら、ふと夜中に目が覚めて、つけっぱなしの火に気がついたとか
たとえば
確かに、何とも言えぬ不可思議な霊験というものも有ります
ですけど、慈悲心と智慧で自分でなんとかして、そこからなにかを学ぶ、これが、基本です
神仏の力を借りたヒーリングでは、ですから病気から、なにかを学ぶのが、治癒するうえで必要になります
感謝とか、許しとか、家族の愛とか、思いやりとか、もっと深く
ヒーリングパワーと治癒が等価交換てのは、勘違いです
治ってもすぐ別の病気になるとか、なんか、無理が出てくると思います
災難から、なにかを学ばなければなりません
貧病争で壁にぶち当たって、どん底に落ちて、神仏に願い事をするわけですが、乗り越えていくのは自分です
この乗り越えて行くとき、慈悲以外の心がけでいたら、悪循環にはまります
慈悲さえ有れば、なにしてもいい、とさえ言います
嘘も方便とか
慈悲をこころがけていて、馬鹿正直といわれようが愚直といわれようが、そこから学ぶことが、つまり、智慧ということになります
魂の永遠ってことを前提にすれば、目先の御利益より智慧が深まる方が大事です
お守りパワー、祈祷札パワーといろいろありますが、神仏は、より深い学びに導くのが本業ってことなのです
だから
慈悲をこころがけ
神仏に導きを祈り
智慧を深める
そうすれば、神仏の加護もあり、輪廻転生の長い道のりで、神仏に近づいていく
これが、仏教的生活と、まあ、長い話になりましたが、結論ですね
♪永遠かなー♪
Love Supremeは1964年の録音
思い出深いですね 高校生の頃、よく中野、吉祥寺、新宿あたりのジャズ喫茶に入り浸っていました
なんといってもMy Favorite Thingsですけど
実際の演奏は、悟ってるとか、念仏だとか評論されてたみたいですね
Ascensionこちらでちょこっと聞けますが
今はやりのアセンションですけど もう、とっくの昔にですね、僕はやっちゃってるのですよ、気分的には
芸術は永遠だ、などとよく言いますが
当時ぼんやりと考えました
太陽にも寿命があるというなら、今一生懸命立てているビルとかダムも消えてしまうのだろう
コルトレーンのことも忘れ去られるのだろう
僕のことなど、完全消去ということか・・・
いったいどこに永遠などというものがあるのか
コルトレーンを聞きながら、物思いにふけったのでした
さて
神仏と簡単に一口で言いますけど、輪廻転生を前提に考えれば、仏教では、僕らは、とどのつまり、最終的には、神仏になることになってます
魂は永遠に生き通します
死んじゃったから魂になるんで、もう死ねません
今度は生まれます
また、生まれ変わって、そして死んじゃったら、また魂になります
死んでも意識があるので、自分が死んでいるのではないと勘違いしてる状態が、成仏してないと言われてる状態です
生前のこだわりのまま、ぐるぐると堂々巡りで、時間の感覚がなく、同じ事を続けている場合が多いです
目の覚めない夢を見ているような感じなのでしょうか
あれっと思っていても最初に戻って、また始めからおなじことの繰り返しをする
霊を感じる方は、たいていこの勘違いにつきあっているわけで、恐怖感があったり、わけわからんことになって当然です
霊の言い分は、ですから、勘違いがもとにありますので、あまり真に受けてはいけません
ああ、死んじゃったんだ、とわかって、じゃ、いつまでもくよくよしないで次行こうと、なんと言いますか、それなりに前向きな気持ちになるのを、浮かばれると言うのでしょう
霊の世界で生きて、いたずらするのも面白れえぞ、などという輩を悪霊と呼ぶのですが、なんと言うか、霊は案外と素直ですから、真面目に説得すれば大抵通じます
よ く、成仏してくださいとか、光にお進みくださいとか、先祖供養などと言いますが、結局、いった先でどうなるか、と言えば、時が来れば、人間界とは限りませ んが、どこかの世界に生まれ、段々と賢さを増していって、遠い未来になるかもしれませんが、最後には神か仏になる、ことになってます
で、この生まれ変わることで蓄積されていく賢さを智慧と言いますが、これは、なかなか身につけるのはたいへんです
仏教では、神仏になることはわかっていても、この世にとどまって、いいことをしている存在(あなたの事です)を菩薩といいます
観音さんや地蔵さんは、いつまでもこの世界を救い続ける偉い菩薩で、まあ、かけだしの菩薩もいると
いいことをしようという気持ちがつまり慈悲です
慈悲のほうは、その気になればいいだけですので、わりと簡単です
智慧のほうは、本格的には、かなり輪廻転生を繰り返さないと身に付かないってことになります
慈悲が感性としたら、智慧は理性ですよね
これは、統合していて、バランスがとれているのが理想です
で、仏教では、とにかく、なにはさておき、慈悲だ
難しい智慧のほうは、ぼちぼち行きましょう、と考えてます
間違っても、勘違いでも、遠回りでも、なんでもかんでも慈悲で行けってことなんです
Love Supremeです
で、祈るってのは、基本は、難しい方の智慧、智慧を授けてもらいたいってことになるわけです
授かった智慧で、自分でなんとかする
その智慧で、自分勝手な思いこみの慈悲になってないか反省もする
なんか、誰かがやってくれるのではないです
いつまでも、なにかに依存してれば、智慧は身につきません
努力をしてれば、それなりに、なにもしないでボンヤリしてれば、やはりそれなりに(たぶん厳しく)、教えてもらえると、まあ、考えてるわけです、仏教では
神は自ら助くる者を助く とか
人事を尽くして天命を待つ とか
昔からいろいろ言いますが、慈悲を心がけて、智慧の導きを祈り、努力している者に、天の助けがあるんじゃないですか
うちなんかでも、いろんな願い事を皆さんしますが、ほとんどが、身体健全・家内安全です、もう言い尽くしてます
で、身体健全なら、健康にいいことはこれなんだと気がつく、と
家内安全なら、ふと夜中に目が覚めて、つけっぱなしの火に気がついたとか
たとえば
確かに、何とも言えぬ不可思議な霊験というものも有ります
ですけど、慈悲心と智慧で自分でなんとかして、そこからなにかを学ぶ、これが、基本です
神仏の力を借りたヒーリングでは、ですから病気から、なにかを学ぶのが、治癒するうえで必要になります
感謝とか、許しとか、家族の愛とか、思いやりとか、もっと深く
ヒーリングパワーと治癒が等価交換てのは、勘違いです
治ってもすぐ別の病気になるとか、なんか、無理が出てくると思います
災難から、なにかを学ばなければなりません
貧病争で壁にぶち当たって、どん底に落ちて、神仏に願い事をするわけですが、乗り越えていくのは自分です
この乗り越えて行くとき、慈悲以外の心がけでいたら、悪循環にはまります
慈悲さえ有れば、なにしてもいい、とさえ言います
嘘も方便とか
慈悲をこころがけていて、馬鹿正直といわれようが愚直といわれようが、そこから学ぶことが、つまり、智慧ということになります
魂の永遠ってことを前提にすれば、目先の御利益より智慧が深まる方が大事です
お守りパワー、祈祷札パワーといろいろありますが、神仏は、より深い学びに導くのが本業ってことなのです
だから
慈悲をこころがけ
神仏に導きを祈り
智慧を深める
そうすれば、神仏の加護もあり、輪廻転生の長い道のりで、神仏に近づいていく
これが、仏教的生活と、まあ、長い話になりましたが、結論ですね
♪永遠かなー♪
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