2006-02-09

信仰

本尊と入我我入(にゅうががにゅう)するって言うんだけど
まあ、拝んでいる仏さんと一体になる、同化するのを「我本尊に入り、本尊我に入る」と、伝統的には言うのです

加持(かじ)とも言って、
「仏日の影が衆生の心水に現ずるを加といい、行者の心よく仏日を感ずるを持と名ずく」 弘法大師 即身成仏義

心の鏡に仏さんが写る、様子に例えたりします


仏さんと一体化することで滅罪するしくみは、やっぱり、神秘的で不思議な働きなのでよくわからないのですが、
自分がしがみついている因果の果実を手放して、解放されることで、治病なり、招福なりが実現すると考えたらいいのかなーと思っています

自分が過去にしたことや、そのもたらした結末を、どんなにすっとぼけても意識の底では知っていて、自分でその報いの果報を自分自身に招き寄せてる、って考え方です

で、仏さんと一体化することができれば、果報に結縛された自責の念が解き放たれて、劇的な癒しになる、と考えるわけです

その、自分の罪状というか、過去世の行いを覚えている心は、潜在意識のそのまた奥深くにあって、自分自身ではアクセスできません

ひょっとして、退行催眠で近くまで行けるのかもしれませんが、どうでしょうね
わからんですね



そこのところを、仏教では、大乗仏典の読誦あるいは真言念誦などによって、仏の力添えを得て滅除することができると説いています

これはですね、瞑想で、自分でその気になる、ってのとは違うんです

仏さんがいて、その仏さんが手伝う、という明確な意識が必要です
イマジネーションで、空想的に救われるのとは違うんです

はっきりと、仏の存在感を感じなければなりません

ま、簡単に言えば、信仰です

自分でできないから、誰かに手伝ってもらうんですから、自分自身のイメージの産物じゃ手伝ってくれないわけです

自分以外の、親切な存在じゃなければなりません


で、その親切な存在に対する、心の最深部からの信頼感が、自分自身がコントロールできない、深い心の奥底にある自責の念と入れ替われば、滅罪生善する、ということでしょうか


善も悪も、心がつくった影で、光によってなくなってしまう、ということなのでしょう


自己保存本能と言いますか、自我に対する執着は、これは、生きている限りなくなりません

ですが、案外、その自我が作り出した行為が、影のようにスッと消えてしまうのなら、さほど、あくせく生きることもないな、と思ったりします



よけいな話ですが

イスラム教徒のやってることが気に食わないならば、その行為を批判すればすむことで、なにも、信じてる神をやっつける必要はないと思いますね

言論の自由だそうですけど、責任と知性を感じないね

イスラムの人達が腹を立てるのはもっともだけど、過去にイスラムは他宗教の神仏の破壊をさんざやってるんだから、自分の神を冒涜される怒りを理解して、今後、他宗教への攻撃を手加減したらいいと思うよ

仏教がインドから消えたのは、イスラムの徹底した破壊のせいだし
ラシュディを翻訳した筑波大の先生は、手首を切り落とされて殺されたし
バーミヤン大仏はなくなってしまったし

まあ、反省するつもりがないなら、自らおやりになったことへの果報を引き寄せるのだろうと思いますね

バーミヤンの復元をユネスコがするって話があるけど、イスラム諸国が金を出せば、イスラム信者が増えるかもしれないなー

少なくとも僕は、好感度アップするけど

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