2006-02-10

想い


仏教では、壇戒忍進慧の 六波羅密とか、戒慧の三学とか、言って、どうしても禅定が必要だってことになってるのだけれど、これ、やはり、心の最深部にある、自分が造ったカルマにアクセスするためなのでしょうね

誘導瞑想などで、心の深い部分に降りていくことができるらしいけれど、あれは、自分で自分の中に降りていくので、さあ、そこから、自分のカルマとどう向き合うか、大変だね、たぶん

過去の記憶を意識化したら、それで終わりになるのかな
意識化して、自分の人格に統合するんでしょうけど



善でも悪でも、振り返ってみて嬉しくても不快でも、過去の行為は全てカルマということで、心の一番奥底にあって、表面意識では全くアクセスできません

しかし、カルマが心の中にあるうちは、それは想念であり、幻想であるので、想いが変われば消え去る、と考えるのでしょうね

想いを変えなくちゃならない


滝に入ってカルマを流した気になったり、護摩で火をどんどこ燃やしてカルマを燃やし尽くした気になったりするのは、わりと直接的なアプローチかな

偉い神様にお祓いしてもらってカルマを祓い清めた気になるのも、やや、これに近いか

その気になるかどうか、これが鍵でしょう

経典読誦や真言念誦は、かなり丁寧にやらないと、ボケッとした独り言になる可能性が高いなー
これは、自分のカルマにアクセスしてるって意識をしっかり持ってないとだめだねー
まあ、懺悔文をしっかり唱えるか、ちゃんと誓願するか
両方やれば、それにこしたことはないけど



いずれにせよ、集中力と、これでうまくいくという絶対的な信頼感が必要ですね

それと、自分が今、カルマにアクセスしてるってのがわかってる、意識化されてることも必要かな

だから、禅定でほんとに寝てしまったら、まあ、あまり効果はない





瞑想して、心の深層に降りていって、ただそれだけだと、まあ、人間の表情で例えれば、無表情です

むっつりと、なんの表情もない状態です

なんか、ほとんどの瞑想、あるいは、禅定はこれで終わってしまいます

冷たく観察するか、自分のいいように利用する方法を考えるだけ



そこのところで、微笑む、と底なしの虚無の闇に光が灯る

微笑みが、がんじがらめにカルマに縛り付けられた想いを解放してくれる

微笑みつつ、自分のカルマにアクセスして、無条件に赦す、と過去の行為は消滅する

自分で自分を赦せない、赦さないのもあるけど、そこを、光の先輩に助けてもらう
そんなもんだと思います


仏像でも、微笑んでいないのが、けっこうあるのですよ

無表情や、しかめ面で、人を赦すなんてのは、考えられないねー

0 件のコメント:

コメントを投稿

この投稿へのリンク:

リンクを作成

<< ホーム