祈祷
仏教の修行に木食(もくじき)というのがあります
五穀を断って、木の実をひろって食べる以外、他の物を一切食べない修行です
江戸時代、全国を遍歴して微笑仏を造った木食明満上人(pdf)などが有名です
肉、魚を食べるには、殺生しなければなりません
米、野菜も生えている植物を切り取って収穫しますので、殺生になると考えます
木の実は、落ちているのを拾うだけですので、意図的な殺生がありません
蕎粉ととうもろこしは食べるとか、いろいろなやり方があるようですが、不殺生を突き詰める修行です
不殺生を徹底するということではジャイナ教があります
インドのラージギルの七葉窟に登る参道でジャイナ教の高僧に会ったことがありますが、まったくの素っ裸で、歩いていて不注意で虫を踏み殺すということのないように、いつも下を見ながら歩いていました
インドでは、畑を耕すと虫を殺すからということで、商工業者に信者が多く、宝石商など富裕な人々もいます
イスラムなんかだと、ハラルミートと言って、神に祈ってから殺さなければならず、日本で売っているイスラム教徒用の肉は、祈祷済のハンコが必ず押してあります
それで、仏教も、因果応報で、不殺生は最も重要な戒律でもあるのですが、肉魚を食べないのはもちろん、木食をせよ、畑仕事をするな、とまでは言いません
南方仏教でも、布施されれば肉や魚を食べるようです
戒律には、目の前で殺したもの以外は食べてよい、と書かれています
不徹底、軟弱といえばそれまでですが、そこのところをどのように考えるかというと、「懺悔せよ」ということなんですね
お釈迦様の時代、ある残虐な王様がいて、戦争で征服した町の住人を首から下を穴に埋めて、頭だけ出るようにして、それを象に踏みつぶさせて殺しました
それを、弟子がお釈迦様に因縁を問うたら、その町の住人は前世が漁師で、たくさんの魚を網で捕って殺した因縁で、今その苦を受けていると説かれたということです
僕は近くの港で豆アジ釣りとかしますけど、この因縁で、頭を踏みつぶされちゃかないません
しかしながら、因果応報を前提に考えれば、生き物を殺すことによる罪は絶対に免れないということになります
理論的には、仏教徒は木食しなければなりません
それを、懺悔することで赦してもらいます
天台宗では、「朝題目の夕念仏」と言って、朝の勤行で法華懺法で懺悔し、夕方の勤行で阿弥陀経を拝んで往生極楽を願うことで、今生と来世の安穏を祈ることになっています
法華経、阿弥陀経、般若心経などの経典を読誦したり真言念誦などして、すべての罪障を懺悔し苦厄を消除します
信仰といえば、そうなのですが、経典には仏の加護があります
ですから、読誦することに懺悔の力があります
懺悔によって、今回の人生で受け取らなければならない、前世の悪業、悪因縁を消し去り、念仏によって、死後には極楽にいけるよう祈ります
仏教的には、厄難消滅、病気平癒、商売繁盛、家内安全、身体健全、交通安全など、滅罪生善は、すべて懺悔によってもたらされます
仏教的なヒーリングは、ですから懺悔です
病気を得た自分を赦し、健康を得ることを感謝しなければなりません
執着や勘違いから解放されて、眼が覚めれば、それが本来の心ですから、過去の執着と勘違いによって作られた悪因縁を作ったことを懺悔し赦されれば、今現在に結果となって現れた苦難を免れることができると考えるわけです
なにかパワーを貰うとかじゃありません
本来的には「心」は、ほんとうの世界にあって、死んだらそこに簡単に帰れるのですから、いまさらパワーはいりません
過去のこだわり、勘違いで悪業を作ったことに気がついて反省して、あやまらなければなりません
と言っても、心当たりがないのがほとんどですので、無理に何が何でもあやまれ、ということでもないのですが、原則はそういうことです
大乗仏教は、原則そこで終わりです
謝る、でお終い
ですが、密教は、懺悔にこだわりません
遮情門、表徳門とも言うんですが、止観の止を強調するか、観を強調するかですね
仏教の基本は止悪と修善ですが、大乗仏教は止悪を強調してるわけです
悪いことするな、悪いことしたから、今、因果応報でひどい目にあっている、だから懺悔して赦してもらいなさい、経典を読誦すれば赦されますよ、これからは反省して悪いことしちゃいけません、と考えます
そこを、密教は修善を強調します
その場合、修善とは真言念誦であり、密教瞑想です
仏さんを拝むことで功徳を積みなさい、そうすれば、過去の知ると知らざるとの一切の罪が赦されますよ、そしてこれからは、もっと人々の役に立つことをして、活躍しなさい、と考えます
大乗 遮情門 止悪
悪いことしたから、謝って赦してもらおう
そのために経典読誦し、悪いことはしないでおこう
執着と勘違いを、とことん消し去ったら、ほんとうの世界が見える
密教 表徳門 修善
善いことをして赦されよう
そのために真言念誦し、もっと誰かの役に立つことをしよう
「意味のある響き」で仏の世界をイメージして、ほんとうの世界を見よう
まあ、実際はこれを組み合わせて考えてるわけです
それで、苦厄消滅を祈る祈祷は、原則は懺悔で、仏の世界をイメージする瞑想でもあるわけです
懺悔の気持ちで、経典を読誦し、真言念誦すると、苦厄が消滅する
でもって、苦厄消滅だけでなく、福徳を得るには、積極的に善いことをしましょう、ということです
考えてみると
悪因縁てのは、受け取って苦しむか、懺悔して消滅するか、どちらかです
ややこしく戒律などと言いますが、さらなる悪因縁をつくらないということです
「慈悲と智慧」はそのための最低限の心がけです
懺悔のためには、経典読誦か真言念誦をしなければなりません
そこのところを、誰でもやりやすいように念仏や題目が開発されました
輝く光がもつ、強さと優しさに、「心」が満たされることで滅罪生善します
それしかないと思いますよ
五穀を断って、木の実をひろって食べる以外、他の物を一切食べない修行です
江戸時代、全国を遍歴して微笑仏を造った木食明満上人(pdf)などが有名です
肉、魚を食べるには、殺生しなければなりません
米、野菜も生えている植物を切り取って収穫しますので、殺生になると考えます
木の実は、落ちているのを拾うだけですので、意図的な殺生がありません
蕎粉ととうもろこしは食べるとか、いろいろなやり方があるようですが、不殺生を突き詰める修行です
不殺生を徹底するということではジャイナ教があります
インドのラージギルの七葉窟に登る参道でジャイナ教の高僧に会ったことがありますが、まったくの素っ裸で、歩いていて不注意で虫を踏み殺すということのないように、いつも下を見ながら歩いていました
インドでは、畑を耕すと虫を殺すからということで、商工業者に信者が多く、宝石商など富裕な人々もいます
イスラムなんかだと、ハラルミートと言って、神に祈ってから殺さなければならず、日本で売っているイスラム教徒用の肉は、祈祷済のハンコが必ず押してあります
それで、仏教も、因果応報で、不殺生は最も重要な戒律でもあるのですが、肉魚を食べないのはもちろん、木食をせよ、畑仕事をするな、とまでは言いません
南方仏教でも、布施されれば肉や魚を食べるようです
戒律には、目の前で殺したもの以外は食べてよい、と書かれています
不徹底、軟弱といえばそれまでですが、そこのところをどのように考えるかというと、「懺悔せよ」ということなんですね
お釈迦様の時代、ある残虐な王様がいて、戦争で征服した町の住人を首から下を穴に埋めて、頭だけ出るようにして、それを象に踏みつぶさせて殺しました
それを、弟子がお釈迦様に因縁を問うたら、その町の住人は前世が漁師で、たくさんの魚を網で捕って殺した因縁で、今その苦を受けていると説かれたということです
僕は近くの港で豆アジ釣りとかしますけど、この因縁で、頭を踏みつぶされちゃかないません
しかしながら、因果応報を前提に考えれば、生き物を殺すことによる罪は絶対に免れないということになります
理論的には、仏教徒は木食しなければなりません
それを、懺悔することで赦してもらいます
天台宗では、「朝題目の夕念仏」と言って、朝の勤行で法華懺法で懺悔し、夕方の勤行で阿弥陀経を拝んで往生極楽を願うことで、今生と来世の安穏を祈ることになっています
法華経、阿弥陀経、般若心経などの経典を読誦したり真言念誦などして、すべての罪障を懺悔し苦厄を消除します
信仰といえば、そうなのですが、経典には仏の加護があります
ですから、読誦することに懺悔の力があります
懺悔によって、今回の人生で受け取らなければならない、前世の悪業、悪因縁を消し去り、念仏によって、死後には極楽にいけるよう祈ります
仏教的には、厄難消滅、病気平癒、商売繁盛、家内安全、身体健全、交通安全など、滅罪生善は、すべて懺悔によってもたらされます
仏教的なヒーリングは、ですから懺悔です
病気を得た自分を赦し、健康を得ることを感謝しなければなりません
執着や勘違いから解放されて、眼が覚めれば、それが本来の心ですから、過去の執着と勘違いによって作られた悪因縁を作ったことを懺悔し赦されれば、今現在に結果となって現れた苦難を免れることができると考えるわけです
なにかパワーを貰うとかじゃありません
本来的には「心」は、ほんとうの世界にあって、死んだらそこに簡単に帰れるのですから、いまさらパワーはいりません
過去のこだわり、勘違いで悪業を作ったことに気がついて反省して、あやまらなければなりません
と言っても、心当たりがないのがほとんどですので、無理に何が何でもあやまれ、ということでもないのですが、原則はそういうことです
大乗仏教は、原則そこで終わりです
謝る、でお終い
ですが、密教は、懺悔にこだわりません
遮情門、表徳門とも言うんですが、止観の止を強調するか、観を強調するかですね
普通の仏教では、悟りの世界は、言葉で表現することはできない、表現したら、それは、単なる脳内イメージになってしまうから、悟りを表現してはいけないと考えますけど(遮情門)、密教は、イメージによって悟りの世界は表現できる、真言、つまり「意味のある響き」は悟りを表していると考えますから(表徳門)、懺悔をつづけてほんとうの世界に至るという道だけでなく、仏をイメージし続けて、ほんとうの世界に至る道が可能になります
仏教の基本は止悪と修善ですが、大乗仏教は止悪を強調してるわけです
悪いことするな、悪いことしたから、今、因果応報でひどい目にあっている、だから懺悔して赦してもらいなさい、経典を読誦すれば赦されますよ、これからは反省して悪いことしちゃいけません、と考えます
そこを、密教は修善を強調します
その場合、修善とは真言念誦であり、密教瞑想です
仏さんを拝むことで功徳を積みなさい、そうすれば、過去の知ると知らざるとの一切の罪が赦されますよ、そしてこれからは、もっと人々の役に立つことをして、活躍しなさい、と考えます
大乗 遮情門 止悪
悪いことしたから、謝って赦してもらおう
そのために経典読誦し、悪いことはしないでおこう
執着と勘違いを、とことん消し去ったら、ほんとうの世界が見える
密教 表徳門 修善
善いことをして赦されよう
そのために真言念誦し、もっと誰かの役に立つことをしよう
「意味のある響き」で仏の世界をイメージして、ほんとうの世界を見よう
まあ、実際はこれを組み合わせて考えてるわけです
それで、苦厄消滅を祈る祈祷は、原則は懺悔で、仏の世界をイメージする瞑想でもあるわけです
懺悔の気持ちで、経典を読誦し、真言念誦すると、苦厄が消滅する
でもって、苦厄消滅だけでなく、福徳を得るには、積極的に善いことをしましょう、ということです
考えてみると
悪因縁てのは、受け取って苦しむか、懺悔して消滅するか、どちらかです
ややこしく戒律などと言いますが、さらなる悪因縁をつくらないということです
「慈悲と智慧」はそのための最低限の心がけです
懺悔のためには、経典読誦か真言念誦をしなければなりません
そこのところを、誰でもやりやすいように念仏や題目が開発されました
輝く光がもつ、強さと優しさに、「心」が満たされることで滅罪生善します
それしかないと思いますよ
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