引導
先日、珍しく葬式の導師をしました
僕の寺は檀家さんが10軒ほどしかないので、めったに葬式はしません
2年に1回あるかないかです
ですから、法事もほとんどありません
普通の檀家寺のご住職は、僕がどういう生活をしているのか想像できないだろうと思います
うちの子供達も、どうやって生活費を得ているのかわからないようです(汗)
ですから、葬式をしなければならないことになると、ほんとに焦ります
やりかたを忘れてしまっています
いろいろ書いたものなどを引っ張り出して復習します
それで、まあ、なんとかなります
仏教の葬式の作法の中に、引導作法があります
引導と言わない宗派もあるようですが聞いたことのある方が多いでしょう
引導を渡す、とか
宗派によって若干の違いがあると思いますが、天台では、引導作法によって、死者に「あなたは死んだから極楽にいきなさい」と促します
小声で語りかけて、周囲の会葬者に聞こえなくてもよい、と老僧方には教わりました
時に応じ文句を換えたりしますが、たいていは次の文句を使います
諸法従本来 常時寂滅相 仏子行道已 来世得作仏
それに
新円寂○○見仏聞法 南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、・・・
とか、付け加えます
あとは、地方によっても違うし、参列者によっても違うし、臨機応変に長短いろいろです
これ、やっぱり、亡くなったことを受け入れて貰うための儀式なんですね
誰だって、自分が死ぬなんてことは受け入れたくありません
当然のことです
ですので、すんなり行くとは限りませんが、とにかく、一度誰かがはっきり言わなければなりません
死んでも意識があるので、自分がまだ生きていると思いこんでいるケースも多いとは思います
きちんとしたお寺の住職は、仏様から真実を告げるお役目をいただいていますから、亡くなった方に語りかけることはできます
ですが、まあ、聞き入れるかどうかはわからんところがあります
葬式したから、万全でありそれでいいとも言えないのです(汗)
で、僕的には、亡者になるのは、引導が上手じゃないからじゃなくて、お亡くなりになった方の執着が強いとか、勘違いを改めようとしないとかの理由だろうと考えています
で、まあ、時間をかけて説得する意味で四十九日の法要とかをするようになったのだろうと思っています
お亡くなりになる方が、自分の死をすんなり受け入れて、この世への執着も、迷いもなければ葬式はいりません
ですが、どう考えても、この世への執着も、迷いもないなどということは、ほとんど無いだろうと思わざるを得ません
まして、意識があれば、自分が生きていると思って当然です
この先、葬式がどのような形になるかわかりませんが、引導だけはしてあげてくださいね
僕の寺は檀家さんが10軒ほどしかないので、めったに葬式はしません
2年に1回あるかないかです
ですから、法事もほとんどありません
普通の檀家寺のご住職は、僕がどういう生活をしているのか想像できないだろうと思います
うちの子供達も、どうやって生活費を得ているのかわからないようです(汗)
ですから、葬式をしなければならないことになると、ほんとに焦ります
やりかたを忘れてしまっています
いろいろ書いたものなどを引っ張り出して復習します
それで、まあ、なんとかなります
仏教の葬式の作法の中に、引導作法があります
引導と言わない宗派もあるようですが聞いたことのある方が多いでしょう
引導を渡す、とか
宗派によって若干の違いがあると思いますが、天台では、引導作法によって、死者に「あなたは死んだから極楽にいきなさい」と促します
小声で語りかけて、周囲の会葬者に聞こえなくてもよい、と老僧方には教わりました
時に応じ文句を換えたりしますが、たいていは次の文句を使います
諸法従本来 常時寂滅相 仏子行道已 来世得作仏
諸法はもとより常に寂滅の相をしている(仏の目から見れば完成された世界である)
仏弟子は道を行じおわって来世に仏となることを得る
それに
新円寂○○見仏聞法 南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、・・・
とか、付け加えます
あとは、地方によっても違うし、参列者によっても違うし、臨機応変に長短いろいろです
これ、やっぱり、亡くなったことを受け入れて貰うための儀式なんですね
誰だって、自分が死ぬなんてことは受け入れたくありません
当然のことです
ですので、すんなり行くとは限りませんが、とにかく、一度誰かがはっきり言わなければなりません
死んでも意識があるので、自分がまだ生きていると思いこんでいるケースも多いとは思います
きちんとしたお寺の住職は、仏様から真実を告げるお役目をいただいていますから、亡くなった方に語りかけることはできます
ですが、まあ、聞き入れるかどうかはわからんところがあります
葬式したから、万全でありそれでいいとも言えないのです(汗)
で、僕的には、亡者になるのは、引導が上手じゃないからじゃなくて、お亡くなりになった方の執着が強いとか、勘違いを改めようとしないとかの理由だろうと考えています
で、まあ、時間をかけて説得する意味で四十九日の法要とかをするようになったのだろうと思っています
お亡くなりになる方が、自分の死をすんなり受け入れて、この世への執着も、迷いもなければ葬式はいりません
ですが、どう考えても、この世への執着も、迷いもないなどということは、ほとんど無いだろうと思わざるを得ません
まして、意識があれば、自分が生きていると思って当然です
この先、葬式がどのような形になるかわかりませんが、引導だけはしてあげてくださいね
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