2006-09-09

ツインソウル1


ツインソウルー死にゆく私が体験した奇跡  飯田 史彦 出版社: PHP研究所 (2006/03)

僕の実感と、この本に書かれていることに特に大きな違いは無いみたいです
まあ、ちょっと違うかなという所はありますけれど

皆さんにも是非読んでいただきたいし、僕としてもどんな風に読んだか書き留めてみることにします

僕としては、もうめんどくさい議論はやめにして、この本の成果あたりを基礎にしてその次のことを考えていくべきではないか、とか思いますね

左は、去年の5月14日に和歌山に講演にいらっしゃった時に撮らせていただいた写真です(右が飯田先生)

いろんな造語を造られるみたいで、「プチ鬱」など、よく使わせていただいてます

その講演の時の印象は、ご自分の世界観を懸命に構築されているようで、既存の概念とか述語を使わずに、いかに自分なりの世界を言葉にするかということに興味があるんだなあ、というものでした

オウム真理教事件以来、「宗教でない」という言い方は精神世界を語るときの決まり文句のようになっていて、飯田先生もそのことによって、お医者さんとかの生死にかかわる現場の人達に支持されているようです

僕はもともとはお寺で生まれたわけでもなく、自分で好んで坊さんをしているんですけど、まあ、自分が宗教をやっているという自覚はないです(汗)
一応、天台宗ですけど、幸い檀家もほとんどないですし、「天台宗ではこう考えるからこうしなさい」などと言う必要も無く、感じるままに毎日生活しています


ただ、今ある宗教で、飯田先生のご本と一番矛盾がないのが、天台ではないかと思います

誇り高く生きること・・・つまり「自分は、愛そのものなのだ」という自信を決して失わないこと p149

そういう概念を、天台では「本覚思想」と言ってきました

ここのところは、僕は真言宗も知っているんですけど、真言ではちょっと違います
「本来覚っている」とは言いません
覚りに向かって修行する、という立場です。これを帰命(きみょう)と言うんですけど
まあ、似たようなもんですけど、「本来覚っているのを思い出す(本覚)」のと「不完全が完全に向かって歩いていく(帰命)」は、やはり違うといえば違います

南無(なむ・本覚)と[口奄](おん・帰命)です

本質に戻るのか、行くのか、まあ、考え方の立場が違います
戻るという考え方から、全ての生物に仏性があるのを大切にする、大衆仏教が生まれてきました
行くと考えると、厳しく自己管理して修行する、専門家仏教になります

さて
トランスパーソナルなコアな部分だけ、ご自分で納得すれば、普通の生活をするには間に合いますから、わざわざややこしく考える必要もありませんが、ちょっとした考え方の違いが、実は、おおきな隔たりを生むこともあるってことですね


続く

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