2006-09-27

自由



ハシゴと言っても、自分でつくったイメージではあるのです

「慈愛の感触」に導かれて歩んだ道が、振り返って見ればハシゴとして見えるということでしょうか

ネットワークにたとえてみても、実際はヒモで繋がっているわけではありません
心に感じあっている、感応しているとでも言っておきます

ソウルミラーはふわふわと漂っているんでしょうね


人を傷つけ、あるいは喜ばせた行為は、すべてカルマとして自分のソウルミラーに刻まれます
しかし、刻まれている間は、まだ顕在化していません
顕在化する前に、より強い光にあえば消えてしまいます

心霊的パワー、あるいは、なんらかの霊能力で、自分の顕在化する前のカルマに直接アプローチすることも出来るかもしれませんが、あまりに精妙で、むしろ危険が大きいと思います。思い上がってはいけません
「学びを終えた光」に導いてもらうのが、いちばんの早道ではないですか


「自由」は様々な妄想もつくりだしますが、多様性と独創性の源でもあります
魂に刻まれたカルマも、心に「自由」があるので、形を変えて発現します
機械的な、作用反作用にはなりません
ですから、どのような深い重大な罪も、必ずおなじだけの苦しみと報いを受けるとは限りません
「自由」は救いの可能性も作り出しているのです

「自由」が、目には目を歯には歯を、といった単純な復讐的カルマの法則から逃れる可能性をつくりだしています

「自由」がなかったら、運命は変えられず、祈りも懺悔もなんの意味もないことになってしまいます


自分を傷つけた他人を赦すことは、復讐の無限連鎖から自分を解放します
傷つけた張本人は、自分の心に刻まれたカルマから、形を変えた復讐をされるか、カルマの重さに匹敵する光を自分の中に感じて赦されるかどちらかです
僕は、たとえお互いが表面的に和解しても、傷つけた側が見失っていた光を取り戻さなければ、傷つけた側のカルマは消えないのではないかと考えています


ま、原爆落としたことをいつまでも正当化しているようだと、えらい目にあうことになるだろなー、ということですね

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