マトリックス
理論物理学上の、観察される前の量子という考え方が、感覚器官によって認識される前の世界の姿を想像する示唆を与えてくれます
僕は、量子論をそのまま人間の心の働きに応用するのには懐疑的で、たまたま、二重スリット実験の観察結果を辻褄あわせるために導きだされた計算上の概念ですから、どうにも、実際に人が生きたり死んだりにつながるようには思えません
しかしながら、人間の生死は、妄想とか考え方の立場とかではなく、現実ですから、現実世界を説明しようとする物理学とどこかに接点があると考えざるを得ません
Superpositionの概念など、いい例で、仏教が示唆を与えられることもあるでしょうが、また、物理学が仏教から示唆をあたえられることもあるでしょう
理論物理学を追求していくと、感じられる前の世界の姿の片鱗が明らかにされていくかもしれませんね
仏教は、三界唯心と言って、世界のすべては心の中で起こっているという唯心論が考え方の基本になっています。これは主に華厳経に説かれています
仏教では唯識論の研究も盛んにおこなわれました
三界唯一心 心外無別法
心佛及衆生 是三無差別 (正法眼蔵 道元)
唯識論自体が非常に歴史のある考え方で、伝統のなかで色々な決めごとがあって、今に至っては、議論のための議論のような部分が多くなってしまいました
ややこしく考えると、心と識は違うとか
で、まあ、僕なりに要約して言えば
白い矢印が、感じられる前の世界を感覚器官で感じてるところです
で、仏頭が脳で、イメージを作って、「もあもあ」と、自分なりの世界を感じます
イメージを上手に作れなければ、妄想になります
イメージを現実だと思いこむと執着になります
(だから、今、のぞき込んでらっしゃるモニターも、あなたの心の中に作られた「もあもあ」ですよ)
感じられる前の世界はSuperpositionで、過去と未来、右と左、が重ね合わさって共存しています。光速以上の早さで情報が伝達される世界です。
時間と空間は不確定性原理によって、あいまいな状態になっています。この、あいまいさが、実は、「自由」の根源になっているのかもしれません
不確定性原理は、実際に応用もされていて、たとえば走査型トンネル顕微鏡など実用化されてますから、勝手な屁理屈じゃありません
で、「もあもあ」のイメージは、頭の数だけあります
しかし、感じられる前の世界は、「もあもあ」がネットワークになって繋がっている状態ですから、実は一つしかありません
これは、華厳的には無尽重々縁起です
ですから、エヴェレットの多世界解釈は、行き詰まって、ノイマンの「量子力学の数学的基礎」(序文は湯川秀樹が書いてます)あたりからいかないと大統一理論はできないんじゃないかと考えてます
ネットワークは一つですから、イメージが各人別々に作られても、共同体やら、協力やら、仲間やら、お友達やら、普通に暮らしていくことができます
画一的な教義を信じ込ませる必要はなくて、自由にまかせても、仲良くやっていくことが可能です
ただし「もあもあ」がしっかりしていれば、ですけど
ある禅宗の坊さんが、悟りを開いて、あまりの嬉しさに、表に飛び出して叫んだそうです
「雲くーん、君は僕だなー 風くーん、僕は君だなー」
因果応報とか言いますが、つまりは、ネットワークが繋がっていて一つだから、自分のしたことが自分に返ってくるのです
便宜的に、写し取ってと表現しましたが、実は、写し取るもなにも、
あなたは私で、私はあなた、なのです
仏頭がなくなるのが死です
死んでも、執着によってつくられたイメージが「もあもあ」と浮遊し続けます
これが心霊ということになります
仏教的には、霊界を旅する心霊は、いまだ執着を離れないでいる心です
脳がないのですから、心霊は、新たなイメージを作ることができません
それで、同じような繰り言を延々と繰り返すのです
心霊のいろいろな特徴は、これで、おおかた説明がつきます
執着から離れる力を付与するのが供養、ということになってきます
仏教的には「己を忘れて(執着を離れ)他を利する(堂々巡りの苦痛から解放する)」心ですね、つまり慈悲です
で、心霊は感じる前の世界から切り離されていますから、消滅する事がありません
長い旅路のはてに、究極的には、感じられる前の世界とまったくそっくりな存在になります
しかしながら、そこまでに至る歴史は刻まれています
何回も言いますが
感性と理性の統合、慈悲(感性)と智慧(理性)の統合、「見る者・理」と「見られる物・智」の統合、執着を棄て思考停止し感覚遮断した状態が、感じられる前の世界と「もあもあ」が一致した状態です
それで、つまり、神は増え続けます
見る者と見られる物の分離が、「もあもあ」の始まりで、時間と空間の開始点です
不確定性原理で説明されるような、ゆらぎ、あいまいさ、が分離の原因かなー、とか考えてます
分離する必然性があるのですから、いったん分離したら消滅しません
でもって
この矢印が太い人が霊能者なのだと思います。生命進化の必然です。仏教的には五神通です
ただーし
矢印が太くても「もあもあ」は「もあもあ」です。妄想と執着が、自動的に作られます。だから、霊能力がいくらあっても、イメージの正しさとは関係ありません
だから、正しいイメージをもつには努力が必要です
イメージは、教育や訓練で、正しく保つことができます。努力が報われる可能性が開かれています。転生による学習効果もあるでしょうけど、妄想は自動生成しますから、いずれにしても、努力しなければうまくいかないでしょうね
伝統宗教の教義や世界観は、感じられる前の世界をイメージ化した、「もあもあ」です。洗練されてない、宗教や神秘的教義には、妄想がたくさん含まれてます
正しいイメージをもち、「もあもあ」を感じられる前の世界に近づける努力が必要なんですね
ああ、それで、マトリックスですけど、つまり、感じられる前の世界のことになりますね
続く
僕は、量子論をそのまま人間の心の働きに応用するのには懐疑的で、たまたま、二重スリット実験の観察結果を辻褄あわせるために導きだされた計算上の概念ですから、どうにも、実際に人が生きたり死んだりにつながるようには思えません
しかしながら、人間の生死は、妄想とか考え方の立場とかではなく、現実ですから、現実世界を説明しようとする物理学とどこかに接点があると考えざるを得ません
Superpositionの概念など、いい例で、仏教が示唆を与えられることもあるでしょうが、また、物理学が仏教から示唆をあたえられることもあるでしょう
理論物理学を追求していくと、感じられる前の世界の姿の片鱗が明らかにされていくかもしれませんね
仏教は、三界唯心と言って、世界のすべては心の中で起こっているという唯心論が考え方の基本になっています。これは主に華厳経に説かれています
仏教では唯識論の研究も盛んにおこなわれました
三界唯一心 心外無別法
心佛及衆生 是三無差別 (正法眼蔵 道元)
唯識論自体が非常に歴史のある考え方で、伝統のなかで色々な決めごとがあって、今に至っては、議論のための議論のような部分が多くなってしまいました
ややこしく考えると、心と識は違うとか
で、まあ、僕なりに要約して言えば
白い矢印が、感じられる前の世界を感覚器官で感じてるところです
で、仏頭が脳で、イメージを作って、「もあもあ」と、自分なりの世界を感じます
イメージを上手に作れなければ、妄想になります
イメージを現実だと思いこむと執着になります
(だから、今、のぞき込んでらっしゃるモニターも、あなたの心の中に作られた「もあもあ」ですよ)
感じられる前の世界はSuperpositionで、過去と未来、右と左、が重ね合わさって共存しています。光速以上の早さで情報が伝達される世界です。
時間と空間は不確定性原理によって、あいまいな状態になっています。この、あいまいさが、実は、「自由」の根源になっているのかもしれません
不確定性原理は、実際に応用もされていて、たとえば走査型トンネル顕微鏡など実用化されてますから、勝手な屁理屈じゃありません
で、「もあもあ」のイメージは、頭の数だけあります
しかし、感じられる前の世界は、「もあもあ」がネットワークになって繋がっている状態ですから、実は一つしかありません
これは、華厳的には無尽重々縁起です
ですから、エヴェレットの多世界解釈は、行き詰まって、ノイマンの「量子力学の数学的基礎」(序文は湯川秀樹が書いてます)あたりからいかないと大統一理論はできないんじゃないかと考えてます
ネットワークは一つですから、イメージが各人別々に作られても、共同体やら、協力やら、仲間やら、お友達やら、普通に暮らしていくことができます
画一的な教義を信じ込ませる必要はなくて、自由にまかせても、仲良くやっていくことが可能です
ただし「もあもあ」がしっかりしていれば、ですけど
ある禅宗の坊さんが、悟りを開いて、あまりの嬉しさに、表に飛び出して叫んだそうです
「雲くーん、君は僕だなー 風くーん、僕は君だなー」
因果応報とか言いますが、つまりは、ネットワークが繋がっていて一つだから、自分のしたことが自分に返ってくるのです
便宜的に、写し取ってと表現しましたが、実は、写し取るもなにも、
あなたは私で、私はあなた、なのです
仏頭がなくなるのが死です
死んでも、執着によってつくられたイメージが「もあもあ」と浮遊し続けます
これが心霊ということになります
仏教的には、霊界を旅する心霊は、いまだ執着を離れないでいる心です
脳がないのですから、心霊は、新たなイメージを作ることができません
それで、同じような繰り言を延々と繰り返すのです
心霊のいろいろな特徴は、これで、おおかた説明がつきます
執着から離れる力を付与するのが供養、ということになってきます
仏教的には「己を忘れて(執着を離れ)他を利する(堂々巡りの苦痛から解放する)」心ですね、つまり慈悲です
で、心霊は感じる前の世界から切り離されていますから、消滅する事がありません
長い旅路のはてに、究極的には、感じられる前の世界とまったくそっくりな存在になります
しかしながら、そこまでに至る歴史は刻まれています
何回も言いますが
感性と理性の統合、慈悲(感性)と智慧(理性)の統合、「見る者・理」と「見られる物・智」の統合、執着を棄て思考停止し感覚遮断した状態が、感じられる前の世界と「もあもあ」が一致した状態です
それで、つまり、神は増え続けます
見る者と見られる物の分離が、「もあもあ」の始まりで、時間と空間の開始点です
不確定性原理で説明されるような、ゆらぎ、あいまいさ、が分離の原因かなー、とか考えてます
分離する必然性があるのですから、いったん分離したら消滅しません
でもって
この矢印が太い人が霊能者なのだと思います。生命進化の必然です。仏教的には五神通です
ただーし
矢印が太くても「もあもあ」は「もあもあ」です。妄想と執着が、自動的に作られます。だから、霊能力がいくらあっても、イメージの正しさとは関係ありません
だから、正しいイメージをもつには努力が必要です
イメージは、教育や訓練で、正しく保つことができます。努力が報われる可能性が開かれています。転生による学習効果もあるでしょうけど、妄想は自動生成しますから、いずれにしても、努力しなければうまくいかないでしょうね
伝統宗教の教義や世界観は、感じられる前の世界をイメージ化した、「もあもあ」です。洗練されてない、宗教や神秘的教義には、妄想がたくさん含まれてます
正しいイメージをもち、「もあもあ」を感じられる前の世界に近づける努力が必要なんですね
ああ、それで、マトリックスですけど、つまり、感じられる前の世界のことになりますね
続く
ラベル: Quantum Sense
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