涅槃の感触
これつまり
-∞=0=+∞ ですから
一神教とか言いますけど、1でも2でも3でも、なんとでも言えばいいんです。数がないんですから
指さす指の数だけ、神話や教義がある、と
神と呼んでも、大日如来と呼んでも、なんと呼んでも、どれも正しく、呼ばれた数だけの表情を見せる、と
そして、名前を付けてしまうと、本物ではなく、名前によって限定されたイメージになってしまいます
これ、仏教では果分不可説って言うんですけど、密教では大日如来って言ってしまうんですね。ま、いいような、悪いような。分かりやすいけど、誤解も招きますね
仏教的には、学びを終えると、この(-∞=0=+∞)になります
涅槃って、そういう意味です
それで、同化して一つになるかと言うと、とにかく数がありませんから、個性を保ったまま、同化します。一即多、多即一です
-∞=1=2=3=0=+∞ です
釈迦如来とか阿弥陀如来、薬師如来いろいろあります
三千仏名経とかありますから、ほとんど、なんぼでもいます
でもって、これが難しいのは、指ささないことには説明できないわけです
困ったもんです
それで、しょうがないんで、僕は、感触っていつも言ってるわけです
これは、ですから、菩薩とか巷の神々の感触とは次元が違う感触です
それで、この感触を感じるには、なんの条件もありません
時間と空間のない世界から、常に(と言うと時間的表現になってしまいますが)照らしてるんですから
海辺で日光浴をするのに、犬でも猫でも人間でも、いい奴でも、いやな奴でも、関係なく、お日様が照らすのといっしょです
善悪正邪損得はネットワークの中のことで、延々と突いたり引いたりしなければなりません
で、本当の救いは、ネットワークの外から来るんです
それで、仏教では如来、来るが如きもの(如きとでも言わないと、意味が限定されてしまいますから)、と言い習わしてるわけです
キリスト教的には啓示です
第九住心と第十住心を、画然と隔てているのは、啓示があるかないか、です
努力の積み重ねではありません
来るんです
これが、妄想と執着とカルマにがんじがらめになったソウルミラーが救われる仕掛けです
ごちゃごちゃと手術みたいなことをする必要はありません
スッキリ、照らされて、救われます
簡単でしょ
続くかなー・・・
ラベル: Quantum Sense
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