当麻曼荼羅図 紙本著色 縦104.2 横89.6 江戸中期(18世紀) 長保寺蔵
阿弥陀浄土を描いた浄土曼荼羅図のうちで最も流布している、いわゆる当麻曼荼羅の一例であり、類本は比較的多い。
伝来など詳細は不明であるが、近世仏画としては古式に属するものである。
「人間の死亡率は100%です」綾小路きみまろ
極楽世界ってどんなもんか、と言うと、この絵のようなものだそうです
仏教の歴史の中には、極楽を見てきた人もいるので、今風に言えば、臨死体験かもしれませんが、それらの体験談と、
阿弥陀経などの説を総合したら、こんな絵になるらしいです
お経によると、念仏を普段から唱えていると、死んでから、絵で言うと真ん中の阿弥陀さんの前に池があって、そこの蓮の花の中に生まれることになっています
(わかりずらいですが、池の真ん中ちょっと下に、後ろ姿の人がいるのが、生まれてきたばかりのところです クリックすると画像が大きくなります)
南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)
ふと、死の恐怖を感じたときに、お唱えください
だれかがお亡くなりになった時にもお唱えください
心に念じるだけでもいいです
人間、どこでどうなるかわかりません
念じてるヒマもない亡くなり方をするかもしれませんから、普段から、お唱えください
念仏の、「念」についてはいろいろな考え方がありますが、とにかく、自分自身が極楽に行こうという気持ちが必要で、その気持ちは、仏さんからもらったものだということになってます
死んだら極楽に行くんだと、気がつけばそれで済むことです
「死んだら、とりあえず、極楽行ってみようか」と、そのくらいの心がけがあれば、不成仏霊にならずにすむでしょう
ですけど、自分で、どうしても極楽には行かないと決めていると、あるいは、極楽に行けっこないと思いこんでいると、やっぱり行けないようです
意識というか、心は死んでもなくなりませんから、死んだことが納得できない、受け入れられない人は難しいです
また、深くこの世に執着してたりしても難しいです、これは、生きている人が、引き留めるのもあるかもしれません
お子さんも、不成仏霊になることがあります、やさしいご先祖さんか、信仰してる仏さんなどが助けてあげないといつまでも迷い続けます
また、過度の恐怖心もよくありません
死後の供養も、経験から言って、無駄ではないです
けれど、自分で極楽にいけますから、それが一番世話ないです
死んだときのことは、考えないことにする、なんて人は、迷います
とりあえず、阿弥陀さんを頼ることにして、念仏しておいてください
成仏と供養の関係は、機械仕掛けのようにワンパターンではありません
普通に、他人に真実を話して聞かせて納得させるのと似ています
相手のあることですから、当然に、相手の都合があります
すぐに納得するとは限りません
僕的には、手を尽くしてそれでも、成仏しないでいるのは、本人というか、その霊の都合ですので、深追いはしません
いずれわかると考えてます
霊能者さんは、霊が救われる道筋をさがしてあげてください
さて、
絵では真ん中の阿弥陀さんの横には観音菩薩と勢至菩薩がいて、観音菩薩が慈悲、勢至菩薩が智慧を表しています
ここでも、フィーリングとロジックがバランスしてるようです
阿 弥陀さんを、無量寿如来とか無量
光如来とかいろいろ違った呼び方をしたりしますが、(無辺
光仏・無碍
光仏・無対
光仏・焔王
光仏・清浄
光仏・歓喜
光仏・智慧
光仏・不断
光仏・難思
光仏・無称
光仏・超日月
光仏など全部、阿弥陀さんの異名です)、死んだとき光が見えるというのは、阿弥陀さんのお迎えなのかもしれま せん
臨死体験などで、光に導かれて、とか、光さんが云々、とか、阿弥陀さんを知っている人にとっては、お迎えってことでしょうね
それで、問題になるのが、悪いことですね、した人はどうなるのかってことです
親鸞さんによれば、悪人を救うのが仏さんなんだから、真っ先に救われる、とまあ、仰ってます
僕は、全面的にこの考え方を支持します
無条件に救われる、と思います
それじゃ、苦労して善いことした人が不公平だ、同じ極楽いけるんなら悪いことしたい放題してやれ、という言い分が当然あります
仏さんのことを知る前の子供が殺されて、念仏なんかしてる間もなかった、何人も子供を殺した殺人犯が死ぬ間際に念仏だけはした、と、どうなるか、とか
なんの罪もない子供が極楽にいけずに、殺した人間が極楽にいけるのか、と
まあ、これはですね、
蓮池に生まれることは生まれても、そのまま、いつまでも極楽にいるわけではない、ってことではないですかね
極楽の池の中の蓮の花に生まれたが、そのままいつまでも極楽に住み着くのではなく、その業に応じて生まれかわって行く
それで、生まれてきたのが、現在の僕らの姿じゃないかと思いますね
生まれてくるのは、自分のカルマを(カルマとは行為・業という意味です)償うためなんじゃないかと思うのです
生まれてくるとき人生を計画してくる、ってのは、過去の行為を、今度は自分の身に受けるってことを計画するんでしょうね
なんの罪もないって、よく言いますが、「不条理に満ちた世界に生まれてくる苦しみ」が必要なのかもしれません
極めて危険な国を旅行するようなもんです、国外脱出するまでは危険そのものなんです
キリスト教は原罪って言いますが、仏教的には、生まれてきた者には必ず懺悔が必要だってことです
自分のしたことの結果を受け取るために生まれてくる、のが人生なのだと
だから、なにがあっても人を恨んじゃいけない
身に覚えがなくても、仕返ししちゃいけない
いいことをした人は、やっぱり今生で、いい目に会います
それで、調子に乗って悪いことをしたら、あとで、そのカルマを受けます
死んで極楽にいっても、こんどは、苦しみを受けに生まれてこなければなりません
生まれてきて、カルマを終わりにしなければ、また、こんど生まれた時に、自分で受け取ることになります
だからその、念仏する人は地獄には行かずにすみますが、生まれかわって償いはしなければならないって理屈です
以徳報怨(いとくほうおん) 徳をもって怨みに報いる 伝教大師
とまあ、言ったりします
そこまで行けばたいしたもんです
これ、ですから、
死んでから極楽行くのは、すごく簡単です難しいのは、生まれてきて、カルマを受け取ることです
それで、仏教は
貪瞋癡(とんじんち 貪欲・怒り・愚かさ)を諸悪の根元と考えているのですが
それは、カルマを受け取っているのをよく理解してないからだと考えてます
貪欲いろいろ執着しても、いつか死にますから、無茶苦茶して罪をつくらないことです
怒りひどい目にあわされたと言って怒っても、そもそも自分が過去に撒いた種が自分に返ってきただけかもしれないし、
輪廻転生を楽しみにしてたかもしれませんが、そもそも、この世は不条理なことが起こる世界であるのですから、ないものねだりしてもしょうがないのです
愚かさつまり、カルマを受け取っているのをよく理解するしかないです
それを、知らないのを愚かなことであると言うわけです
死んでから、極楽に行くことだけを、成仏と言ってさしつかえないとは思いますが、仏教的には、もう生まれてこないのが最高じゃないかと考えてます
極楽で、ズーッっと暮らしたいわけです
それで、輪廻の果実を求めないで悟りを求めなさい、って言うわけです
輪廻に執着して、いい思いをしても、この世では不条理な苦しみをいつ受けることになるかわかりません
他人に苦しみを与えるような、新たな悪しきカルマをなるべく作らないようにして、執着もほどほどにして、やっぱり悟りを求めるしかありません
不幸にして、人に苦しみを与えてしまった場合は、とにかく、極楽にはいけるのですから、反省して謝るほかはありません
謝りきれなかったら、極楽行ってから、またこんど生まれてきて、続きをしなければなりません
僕的には、霊能者は、過去の大きな罪を償うために、人にはない能力を持って生まれてきて、人助けをしなければならないんじゃないかと思ったりします
でなけりゃ、ごっつい誓願を持った菩薩なのかも、ですね
♪お釈迦様が阿弥陀経を説いた、サヘトマヘトというところは、日本の大学が発掘調査して、きれいに整備されてます 説法した部屋の土台が、日干し煉瓦できれいに残されてます♪