光の点
今日は、釈尊の涅槃の日
つまり、お釈迦様がお亡くなりになった日ですね
涅槃というのは、サンスクリットのnirvarnaの音写です
火を吹き消すことの意味です
煩悩の火を吹き消したので、こういうらしいです
じゃ、悟りを開いて活躍してたお釈迦様はどうだったんだと言えば、肉体が在る状態を有余涅槃、肉体を棄てた状態を無余涅槃と言って区別したりします
完璧に、執着と勘違いが無くなって、脳内イメージが完全に感覚器官で感じる前の世界そのものと一致した状態でしょうかねー
よく、死んだらそれでお終い、全て無くなって、死後の世界など無いとか言いますけど、涅槃っていう概念はそれとは違って、心は存在し続けて全ての束縛から解放されている状態を言います
死んだら無になるって考えてる人は、気楽でいいよ
まあ、そんな調子だと、死んでも意識があるんで、自分がまだ死んじゃいないと勘違いして、いつまでもフラフラと成仏しなかったりするんでやっかいですけどね
理屈を積み重ねれば、束縛から解放されてなくて肉体がある(今の我々)、解放されてなくて肉体がない(霊)、解放されていて肉体がある(悟っっている人)、解放されていて肉体が無い(涅槃)の4分類ですかね
解放されてないと輪廻があって、解放されるとカルマは無いので輪廻はしない、ってことでしょう
それで、お釈迦様が亡くなるときのことを書いたお経を涅槃経というんですけど、そこに、お釈迦様の最後の教えが書かれてます
いわば、遺言ですね
それは
「如来は常住なり」と「一切衆生に悉く仏性あり」の二つです
仏はいつも存在し続ける、そして、全ての意識あるものには仏性がある、というのがお釈迦様の遺言です
仏性があるのですから、早い遅いの別はあっても、長い長い輪廻の間に、いつか、常住の仏様の助けで悟りを開き、束縛から解消され、輪廻を終わらせる時がくるわけです
じゃ、努力は無意味か、と言えば、無意味です
そして、なんの努力もしないのも無意味です
悟りを開けば、全ての執着を棄ててしまいますから、なにをやっても、やらなくても、どっちでもいいことです
ただこの、輪廻のある世界で永遠に堂々巡りしていると、全く不条理な苦痛に遭遇します
調子に乗って、悪のりすると、地獄の責め苦を限りなく長い期間受けることになったりします
輪廻の世界で長いことやってると、輪廻をつづける不快感、恐ろしさが身に染みてわかって来ます
それで、慈悲を求めざるを得なくなるのです
考えてみると、宇宙では、光の無い暗黒の部分の方が多いのです
光は、小さーーーな点でしかありません
光っているのは、慈悲だけです
宇宙の摂理、真理、法則などという言葉は、脳内に個々別々のイメージを作り出し、いずれ捨て去られます
神とか仏などというイメージも、捨て去られます
イメージは底なしの暗黒の中で、増殖し、絡まり合い、無限に連鎖し、数え切れない、善悪・正邪・苦痛と喜びを作り出し続けます
全て否定しても、宇宙は存在してるのですから、全てを肯定するしかありません
暗黒を受け入れ、だからこそ、光を求めるしかないんでしょうね
つまり、お釈迦様がお亡くなりになった日ですね
涅槃というのは、サンスクリットのnirvarnaの音写です
火を吹き消すことの意味です
煩悩の火を吹き消したので、こういうらしいです
じゃ、悟りを開いて活躍してたお釈迦様はどうだったんだと言えば、肉体が在る状態を有余涅槃、肉体を棄てた状態を無余涅槃と言って区別したりします
完璧に、執着と勘違いが無くなって、脳内イメージが完全に感覚器官で感じる前の世界そのものと一致した状態でしょうかねー
よく、死んだらそれでお終い、全て無くなって、死後の世界など無いとか言いますけど、涅槃っていう概念はそれとは違って、心は存在し続けて全ての束縛から解放されている状態を言います
死んだら無になるって考えてる人は、気楽でいいよ
まあ、そんな調子だと、死んでも意識があるんで、自分がまだ死んじゃいないと勘違いして、いつまでもフラフラと成仏しなかったりするんでやっかいですけどね
理屈を積み重ねれば、束縛から解放されてなくて肉体がある(今の我々)、解放されてなくて肉体がない(霊)、解放されていて肉体がある(悟っっている人)、解放されていて肉体が無い(涅槃)の4分類ですかね
解放されてないと輪廻があって、解放されるとカルマは無いので輪廻はしない、ってことでしょう
それで、お釈迦様が亡くなるときのことを書いたお経を涅槃経というんですけど、そこに、お釈迦様の最後の教えが書かれてます
いわば、遺言ですね
それは
「如来は常住なり」と「一切衆生に悉く仏性あり」の二つです
仏はいつも存在し続ける、そして、全ての意識あるものには仏性がある、というのがお釈迦様の遺言です
仏性があるのですから、早い遅いの別はあっても、長い長い輪廻の間に、いつか、常住の仏様の助けで悟りを開き、束縛から解消され、輪廻を終わらせる時がくるわけです
じゃ、努力は無意味か、と言えば、無意味です
そして、なんの努力もしないのも無意味です
悟りを開けば、全ての執着を棄ててしまいますから、なにをやっても、やらなくても、どっちでもいいことです
ただこの、輪廻のある世界で永遠に堂々巡りしていると、全く不条理な苦痛に遭遇します
調子に乗って、悪のりすると、地獄の責め苦を限りなく長い期間受けることになったりします
輪廻の世界で長いことやってると、輪廻をつづける不快感、恐ろしさが身に染みてわかって来ます
それで、慈悲を求めざるを得なくなるのです
喜びを与えれば喜びが返り、苦しみを与えれば苦しみが返る
ほんとうの世界にある、苦しみに至らない道筋を「慈悲」という
考えてみると、宇宙では、光の無い暗黒の部分の方が多いのです
光は、小さーーーな点でしかありません
光っているのは、慈悲だけです
宇宙の摂理、真理、法則などという言葉は、脳内に個々別々のイメージを作り出し、いずれ捨て去られます
神とか仏などというイメージも、捨て去られます
イメージは底なしの暗黒の中で、増殖し、絡まり合い、無限に連鎖し、数え切れない、善悪・正邪・苦痛と喜びを作り出し続けます
全て否定しても、宇宙は存在してるのですから、全てを肯定するしかありません
暗黒を受け入れ、だからこそ、光を求めるしかないんでしょうね