2006-09-29

和光同塵


俗世間の塵芥に、仏のやわらかな慈光が降り注ぐのを和光同塵(わこうどうじん)って言うんですけど

つまり、どのような取るに足らないことであっても、光は分け隔てなく照らします
意味の無いことなど存在しません

ですけれど
照らされてキラキラ光る足元ばかり見てないで、上を向いてみませんか


上を向いて歩こう 坂本九




上を向いて 歩こう
涙が こぼれないように
思い出す 春の日
一人ぼっちの 夜

上を向いて 歩こう
にじんだ 星をかぞえて
思い出す 夏の日
一人ぼっちの 夜

幸せは 雲の上に
幸せは 空の上に

上を向いて 歩こう
涙が こぼれないように
泣きながら 歩く
一人ぼっちの 夜

「口笛。。。」

思い出す 秋の日
一人ぼっちの 夜

悲しみは 星のかげに
悲しみは 月のかげに

上を向いて 歩こう
涙が こぼれないように
泣きながら 歩く
一人ぼっちの 夜

一人ぼっちの 夜





右端は先代住職

坂本九さんは、旅行番組で当時の付き人の石倉三郎さんとうちに来て、竈で紀州名物の茶粥を作ったことがあります

御巣鷹山の日航機墜落事故で43歳でなくなりました
日本最初の、テレビが生んだスターで、「上を向いて歩こう」は今になっても日本人で唯一全米ナンバーワンヒットになった曲です

ビルボード総合チャート
1963年 1位 坂本九「SUKIYAKI(上を向いて歩こう)」4週連続
1963年 58位 坂本九「China Nights(支那の夜)」
1964年 米国人以外としては初めて全米レコード協会ゴールドディスク受賞
1979年 37位 ピンク・レディー「KISS IN THE DARK」
1980年 60位 YMO「Computer Games」R&Bチャート18位
1981年 81位 横倉裕「Love Light」R&Bチャート61位
1985年 74位 ラウドネス「THUNDER IN THE EAST」(アルバム)
1986年 64位 ラウドネス「LIGHTNING STRIKES」(アルバム)
1990年 54位 松田聖子&ドニー・ウォールバーグ「Right Combination」
2000年 108位 dj honda「EL PRESIDENTE」
2001年 39位 倖田來未「Trust Your Love」ダンスチャート1位




「明日があるさ」
最近CMでウルフルズがカバーしましたが、もともと坂本九さんの歌

明日があるさ


いつもの駅で いつも会う セーラー服のお下げ髪
もうくる頃 もうくる頃 今日も待ちぼうけ

明日がある 明日がある 明日があるさ

ぬれてるあの娘 コウモリヘ 誘ってあげよと待っている
声かけよう 声かけよう だまって見てる僕

明日がある 明日がある 明日があるさ

今日こそはと待ち受けて 後ろ姿をつけていく
あの角まで あの角まで 今日はもうやめた

明日がある 明日がある 明日があるさ

思い切ってダイヤルを 震える指で回したよ
ベルがなるよ ベルがなるよ 出るまで待てぬ僕

明日がある 明日がある 明日があるさ

はじめていった喫茶店 たった一言好きですと
ここまで出て ここまで出て とうとう言えぬ僕

明日がある 明日がある 明日があるさ

明日があるさ 明日がある 若い僕には夢がある

いつかきっと いつかきっと わかってくれるだろう

明日がある 明日がある 明日があるさ

2006-09-28

霊能力と霊格

Hieronymus Bosch
十字架を担うキリスト



光を遠くから望遠鏡で見るのが霊能力で、光そのものが霊格、とでもいいましょうか

霊能力がいくら強くても、人間性というか霊格ですね、低いこともあります
というか、まったく別の尺度です

なんだかんだ言っても、力は強いほうがいいです
それは、ただ、霊格とは違います

霊能力が横軸で、霊格が縦軸です


単純な話ですけど、望遠鏡で光を見て、光になったらどんなだろうと想像するより、光そのものになったほうがいいに決まってます

多種多様な望遠鏡を工夫して光の有効利用を考えるより、光になって実行するのが本当です
ややこしい、まじないの作法をあれやこれや学習する意欲があるなら、さっさと光に向かって進んだらいいんじゃないでしょうか

釈迦苦行像(ラホール博物館)

これはもう、先人が想像を絶する苦労をして、「学びを終えた光」になって導いてくださっているんですから、なにも、精神世界のことをあっちこっちつまみ食いして回る必要はありません
めんどくさくありません

いろんな霊的世界のことに首を突っ込むのは、特別の使命のある方ならともかく、普通の人には極めて危険で苦労が絶えない方法ですので、お薦めしません
身近な、伝統的な方法が、やはり安全です





背後に、霊能力を付けることに執着している霊がとりついている人達は、横軸のことばかりこだわって、縦軸のことは避けてとおります

神社仏閣に参拝するのもパワーを頂戴するためであって、つまり、能力強化だけが狙いです。これは、肉体を持っている者をこき使って、パワーだけ盗ろうとしてるんですね
無知なお人好しの背後にとりついて、自分達が作ったカルマの懺悔の行を代わりにさせたり、パワー漁りをさせます
よくある話です
神社仏閣は日頃の加護を感謝するためや修行のため参拝するのであって、パワースポット巡りなんてのは、仏教で言えば眷属クラスの下っ端がすることですよ


有名な霊能者でも、この手の人が多いです
インターネットであちこちの不思議系サイトを見て回ってると、知らないうちに、とんでもない霊と縁ができたりしますな
自分に取り憑かなくて、家族の霊感体質の者に取り憑くこともあります
自分で、執着が強く程度の低い霊とコンタクトするのは自業自得ですが、その霊が自分に対して愛情を持っていてくれる者に繋がることがありますね(まあ、たいてい家族ですけど)
調子に乗って、霊格を高めようとするのを邪魔しようとする奴もけっこういますね

僕もやってて感じますけど、インターネットって、けっこう直に繋がりますね


さて
横軸にこだわることは、自我の強化発展でもあるのですが、縦軸の、光そのものになるってほうが、簡単でいいと思うよ

縦と横


人格を、どんぶり鉢にたとえたことがありますが

 ネットワーク

どんぶり鉢=(イコール)ソウルミラーってことにします

ソウルミラーの拡大は、それはそれで意義深いのですけど、つまり横軸の延長で、堂々巡りの世界が終わりません
喜怒哀楽の世界が続きます

で、光って言ってますが、「慈愛の感触」ですね、これは縦軸です

仏教では、横軸に執着するのをやめて縦軸にこだわれ、と言います

僕なりに思うに、横軸の世界は、どこでどんな業苦にぶつかるかわからんのですよね
通り魔とか、不慮の事故とか、終わりのない憎悪の応酬とか
それで、横軸の世界だけの価値観では縦軸に向かえない

自我への執着を我執とかいいますけど、エゴですね
自分がかわいい、自分が偉くなりたい、自分が誉められたい、など、欲望が尽きません
それなりに向上心にもなるのですが、他人から奪う、苦痛を与える、ということにですね、無頓着になる
自分がよければ他はどうでもいい、と
すると、憎しみとか、怨みとか、復讐とか始まる


僕は、人間の想像力で理解できる程度の「光」は、やっぱり、自分にだけ都合よくなりますから信じていません
想像を絶する「光」を信じています
信仰です


ヒーリングやってる人なんかでも、これは宗教じゃない、とか言いますが
自分にだけは御利益があって、自分だけは救われて、自分はいつも正しい、なんちゃってると、我執丸出しですからね、まともな「光」には会えないと思うね

まあ、新興宗教ですね、これは、貧病争の解決をネタに甘言をもって人々に近づくわけですが、これも、あんまり虫のいい話には飛びつかないことですね
既成の宗教に埋没しないように、他と違う特徴を売り物にするんですけど、宇宙の真理など、そんなにいくつもあるわけじゃないですからね
伝統宗教といわれているもののなかで、表現の違いこそあれ、とっくに言い尽くされてるんじゃないですか


神社仏閣、古くから地道にやってるところがいちばんいいと、これはホントにそう思いますけどね
ま、神主さんも坊さんも馬鹿にされないように真面目にやらなきゃいけませんけどね(汗)


時間はかなりかかるでしょうけど、「慈愛の感触」だけをたよりに自分一人で歩むこともできるでしょうね
何回もだまされ、勘違いし、無駄骨を折り、回り道をし、事故を引き起こしながら、苦難の道を進むことにはなるでしょうけど・・・・・

2006-09-27

自由



ハシゴと言っても、自分でつくったイメージではあるのです

「慈愛の感触」に導かれて歩んだ道が、振り返って見ればハシゴとして見えるということでしょうか

ネットワークにたとえてみても、実際はヒモで繋がっているわけではありません
心に感じあっている、感応しているとでも言っておきます

ソウルミラーはふわふわと漂っているんでしょうね


人を傷つけ、あるいは喜ばせた行為は、すべてカルマとして自分のソウルミラーに刻まれます
しかし、刻まれている間は、まだ顕在化していません
顕在化する前に、より強い光にあえば消えてしまいます

心霊的パワー、あるいは、なんらかの霊能力で、自分の顕在化する前のカルマに直接アプローチすることも出来るかもしれませんが、あまりに精妙で、むしろ危険が大きいと思います。思い上がってはいけません
「学びを終えた光」に導いてもらうのが、いちばんの早道ではないですか


「自由」は様々な妄想もつくりだしますが、多様性と独創性の源でもあります
魂に刻まれたカルマも、心に「自由」があるので、形を変えて発現します
機械的な、作用反作用にはなりません
ですから、どのような深い重大な罪も、必ずおなじだけの苦しみと報いを受けるとは限りません
「自由」は救いの可能性も作り出しているのです

「自由」が、目には目を歯には歯を、といった単純な復讐的カルマの法則から逃れる可能性をつくりだしています

「自由」がなかったら、運命は変えられず、祈りも懺悔もなんの意味もないことになってしまいます


自分を傷つけた他人を赦すことは、復讐の無限連鎖から自分を解放します
傷つけた張本人は、自分の心に刻まれたカルマから、形を変えた復讐をされるか、カルマの重さに匹敵する光を自分の中に感じて赦されるかどちらかです
僕は、たとえお互いが表面的に和解しても、傷つけた側が見失っていた光を取り戻さなければ、傷つけた側のカルマは消えないのではないかと考えています


ま、原爆落としたことをいつまでも正当化しているようだと、えらい目にあうことになるだろなー、ということですね

2006-09-25

フラクタル



ソウルミラーネットワークと言うとなんか目新しくなりますが、仏教ではとっくにこんなことは言ってるんです

蓮華蔵世界と言うんですけど、華厳経や梵網経で説かれている極楽世界の様子が、つまり、ソウルミラーネットワークなんです
お釈迦様が悟りを開いて、いちばん最初に、悟りの内容をそのまま説法しましたが、それが華厳経です

それで、仏教の内部では、伝統的に華厳経を最高の経典と考える傾向があります
天台大師が法華経が一番だと言ってから、華厳より法華が優勢になってきました

ちなみに、弘法大師は華厳が法華より上と考えてます


ソウルミラーネットワークでも蓮華蔵世界でもいいんですけど、じゃあ、どんな生活態度がいいの?それでどうしろというの?ってことになると、これが、よくわかりません(汗)
華厳だけではなかなかよくわからないので法華があるんじゃないかと思ってるんですけどね

それで、僕は
イメージと鏡を調和させることを学んで、世界を豊饒にしている

と、言ってるんですけど、これ、感性と理性の統合、慈悲(感性)と智慧(理性)の統合、「見る者・理」と「見られる物・智」の統合、執着を棄て思考停止し感覚遮断した状態、とか、このブログでいままで言ってきたことと同じことです

仏教では、この統合された心境を「空」と言ってきました
法華経で文学的に表現されている世界観ですね




シルバーバーチとかエドガーケーシーなんかも因果応報を強調するんですけど、これ、仏教の土台になっているロジックの、転生と因果応報と同じなんですよね
わざわざ、彼らに説明してもらわなくてもよさそうなもんなんですけど、一神教世界では、基本は、全ての運命は神様から与えられ計画されていて、因果応報は認めてないんです。スピリチュアリズムはですから、一神教の改良主義としての存在価値があるのです
ですので、日本ではスピリチュアリズムが遅れているという捉え方もあるけど、実際は、価値が埋没してしてしまうんじゃないですか。特に目新しいところがありませんから。特定の教義に束縛されないってことらしいですけど、それこそ、日本の宗教事情である多神教を土台にした仏教の特性ですよ


僕は仏教の歴史を、
東大寺や国分寺などの大伽藍⇒貴族の祈願所としての密教寺院⇒地方に分散した中規模寺院⇒檀家寺⇒仏壇
つまり、国家中枢⇒上流階級⇒地方豪族⇒地域社会⇒家庭になって、次ぎにくるのは個人
たとえて言えば、大規模通信設備⇒公衆電話⇒固定電話⇒携帯電話
で、これからは携帯電話のような仏教になると言ってるんです
仏教の昔ながらの概念もですね、ソウルミラーネットワークと言い換えてみれば、現今のスピリチュアリズムの成果である、「人間は肉体という着物を着た霊なんだ」という考え方を取り込んで、携帯電話の基本構造になるような気にはなりますね

みなさんの心の中に、フラクタルな神の秩序があるんですね

2006-09-24

ハシゴ



ソウルミラーネットワークという概念というかロジックは、僕なりの「宗教クライシス 上田紀行著」への回答でもあります

宗教は、癒し・慈悲・救い、といった人々を解放する一面と、教義・生活規範、などで人々の自由を束縛する側面の両方を持っています
今風のスピリチュアリズムは、宗教の教義・生活規範などの束縛から離れることを「宗教ではない」と表現して、それでも、癒し・慈悲・救い、は得られると考えているのですけれど、実際問題これはなかなか難しいのです

月に向かってハシゴを架けたとして、月までたどり着くには、どれかのハシゴを登り切る必要があります
仏教でも、キリスト教でも、神道でもいいんですけど、どれかを登っていけば月にいけます

で、どれでも目的地は一緒だからといって、二本のハシゴを同時には登れません
また、その必要もありません
どれか選ばなければ、月には行けません
おっと、ハシゴを間違えても月には行けません

既成のハシゴを登らずに、いろんな宗教や霊的教示の、いいとこ取りして、自分の気持ちを満たすというやりかたは、つまり、自分なりのハシゴを作るということになります
これはですね、実際は大変な苦難の道ではないですか
お釈迦様の苦行や、イエス様の苦難に匹敵する修行が必要だと思いますよ

スピリチュアリズムというのは、新鮮で魅力的ではありますが、歴史がまだまだ浅く、風雪に磨かれ鍛えられるところまではいってません
歴史が浅いから、傲慢になって人々を支配するような過ちを犯すことも、いまのところないですけど、こうしなさい、ああしなさい、の連続は権威主義への道ですよ

現世利益というか、様々な欲求を満たしたり、超能力で楽をしようなどというご都合主義の道具としてハシゴを利用することもできるのですけれど、それでは月にはいけないんですよ
あちこち目移りしてたら、登っていけないし、やっぱりハシゴはそれぞれ生活規範を持ってますからね



で、僕は「学びを終えた光」と言ってるんですけど、ご縁のある神様であるとか仏様ですね、導いて頂くという姿勢が必要だと思います
これは、どなたかに決まっていれば間に合うわけで、仏陀とキリストとアッラーを同時に頼る必要はないということです

人類史の中で、伝統宗教の神仏は「光」の側にいるということが広く認められているのですから、是非、導いてもらってください
そのことで、あなた自身が賢くなるということがですね、魂の永遠という時間がいくらかかっても平気な世界で考えれば、賢さが行き着くところは、あなたも「学びを終えた光」になる、ということです

それで「光」にはそれぞれ歴史があってそれが個性なのですから、多神世界が基本だろうなー、と僕は考えてますけどね

ぜーんぶ繋がっているから、一つの心しかないんだと言えば、そうなります
ということは、自分は、唯一の神の一部です
多くの鏡が繋がって唯一つのネットワークになって、自分はそのたった一つのネットワークのかけらです
光のかけら、なんですね

だから、僕も、あなたも神の一部です
別々のハシゴを登っていても、仲良くしなきゃいけませんね

2006-09-21

月をさす指


我々は
  • ソウルミラーネットワークに繋がっている
  • 他の鏡を傷つけたつもりが、実は自分の鏡がそれを写し取り傷ついている
  • 他の鏡を喜ばせると、それを写し取り、自分もうれしい
  • 五感から取り入れた情報を高度に発達した脳が「自由」に解釈し、イメージを作っている
  • イメージには間違いや妄想が含まれるので執着するべきではない
  • イメージが作り出した世界の価値観だけで生活すると、苦痛が生じる
  • イメージと鏡を調和させることを学んで、世界を豊饒にしている
  • 今の人生で鏡の歴史をつくり、それぞれ永遠に続く個性ある鏡となる
  • 「学びを終えた光」にいつも助けられている
  • いつか「学びを終えた光」になる
  • 自分の中にあるソウルミラーネットワークを感じることが大事です

スピリチュアルな話題は、興味本位でつき合うと、人を支配し従わせようする集団に取り込まれる危険がつきまといます
矛盾に満ちた教義であっても、信じこんでしまえば、判断を放棄するのですから、抜け出せなくなります

自分の中にある「光」を信じて生活してください

歴史のある伝統宗教は、いままでいろいろな過ちを犯してきました
しかし、その過ちから学んで、徐々に洗練され今日まで続いてきました
そういう伝統宗教のなかには、必ず「光」につながる方法が示されています
それぞれ違う方法であっても、求めている「光」は同じものです

いろいろな人がそれぞれ違う方向から月を指さしますが、月は一つです

月は、自分の心の中にあります

身近にご縁のある方法で、御自分の中にある「光」を感じてみてください

2006-09-20

人生の心がけ(テーマ)



お正月に初詣に行く、お盆やお彼岸にお墓参りに行く、毎日お仏壇に手を合わす、これらのことは伝統文化ということで、是非大事にしていただきたいです

葬式にお坊さんを呼ぶ、というのは、都会では、だんだんしない人も増えてきたらしいですけど、仏教の立場で言うと、お釈迦様のお葬式はお弟子の坊さんではなくて、当時のバラモンのしきたりで行ったそうで、それほどこだわらなくてもいいのかもしれません
ただ、お亡くなりになった方に、はっきりと死んだことを誰かが告げなければなりませんから、葬式を単なるお別れの会と考えない方がいいかもしれません
丹波哲朗さんによると、100人のうち95人位は自分の死んだことを自覚できないそうです。萩原玄明さんは「あなたは死を自覚できない」という本を書いてますけど、ご自分でも、自分が死んだとき、それを自覚できるか自信がないと言っています


ヒーリングや祈祷で病気が治るということも、運がよければありますが、だからと言って、施術してくれた人の信者になったり、命令を聞いたりなどする必要はないですよ。人を精神的に支配するために不思議なことをする人もいるので注意してください。お医者さんのように技術を施してくれたと考えればすむことです

まあ、今の日本人は無宗教だとはよく言いますが、現在のような、国際化した時代、価値観の錯綜した時代、民族や宗教や伝統がぶつかり合う時代では、そんなぼんやりした調子ではやっていけません

僕らには生まれながらに「自由」があたえられています
五感から脳に情報を取り込んで、それを自分なりに再構成したイメージで世界を認識しています
自分独自のイメージは、無限の可能性をもっています。宇宙の豊饒の源です。
ただ、それを、なりゆきまかせで無自覚にしていると、結局他人のイメージに支配されることになります。洗脳されるといってもいいです

で、僕がお薦めするのは、あらゆる可能性のなかから
なるべく善いことをしようと心がけて暮らす
というテーマを選ぶということです
これで、あなたは、仏教徒です。このテーマと反対のことをするなら、自分と周囲の人達に大きな苦痛を与えることになるでしょうね

善いこととはなにか?
そんなことは、自分の胸に手をあてて自分で考えることです。人に聞いたり学んだりしても、生きて行くのは自分なんですから、自分でわかっていないと生きていけませんよ
喉が渇いた、腹が減った、便所に行きたい、眠たくなった、だからといって、人に頼んで代わりにしてもらえるわけじゃありません
生きて行くのも自分、死んで行くのも自分なんですから

善とはなにか、悪とはなにかと誰かが定義すれば、人から考えることを奪うことになります

奪うことはできるかもしれませんが、脳は、それでも自動的に自分だけのイメージを作り続けます。おしつけられた世界観とイメージの間で、必ず葛藤が生じます。今風に言えばストレスですけど、万病のもとなんじゃないですか

イメージになる前の世界を感じることができるまで、転生を続けるんでしょうね

2006-09-17

より大きな光

一口に仏教って言いますけど、一番シンプルな定義は

諸悪莫作 もろもろの悪をなすことなかれ
諸善奉行 もろもろの善を奉じ行ぜよ
自浄其意 みずから、その意を清くせよ
是諸仏教 これが諸仏の教えである

(七仏通戒偈  仏教では、いつかは誰でも仏になりますから、仏様といっても一人じゃありません。お釈迦様の前にも沢山仏様がいて、七人の仏様の一致した教えということです)

眼に見える行いだけでなく、眼に見えない心の中でも、悪いことをせず、善いことをしよう、ということです

なんというか、当然のことで、わざわざこれが仏教です、と言う必要もないようにも思います。世界のどの宗教でも同じこととしか思えませんね
だれもが賛成してくれる、トランスパーソナルな価値観だと思いますけど

仏を拝めとか、坊さんに布施をしろとか、悟りを開けとか、極楽に行こうとか、めんどうなことはどこにも言ってないです
よく読んでください
一神教の方達も多神教の方達も、賛成してくれる教えだと思うんですけど


平々凡々、なるべく善いことを心がけて暮らす、と、それだけじゃないですか

五感と脳が作り出す無限のイメージのなかから、この生き様を選ぶ、ということですね


不謹慎なようですが、悟りを開く必要なんかないんじゃないかと思いますよ、死んだらなにもかもわかっちゃうんだから
死んでからどこに行くか不安なら念仏するのもいいけど、別にしなくてもいいんじゃないかな

ただ
ソウルミラーネットワークですね
これは、ハッキリと認識しとく必要があります

全ての神秘体験、臨死体験は、ソウルミラーネットワークに行き着きますよ
これは、誰かが発見したとか言い出したとかじゃなくて、皆さんが転生しながら、自分で体験してきたことです
自分の魂が知っていることです
ソウルミラーネットワークって、なんかもうちょっといい言い方ないですかね(汗)
繋がっている、ってサンスクリットではヨーガなんですけど
ソウルミラーヨーガ、心鏡網・・・(汗)まあ、なんでもいいけど

この鏡は転生を繰り返しながら記憶が蓄積され、鏡の個性になります

鏡には時間も空間もないですから、永遠の存在です
今の我々の生活は、この自分のなかにある永遠の鏡の、歴史を作っているわけです

振り返ってみて、つまらぬことを沢山してるわけですけど、そんな自分を赦すことで、癒されるんじゃないでしょうか
やさしい光達の励ましや、慰めも必要でしょうけど、自分で自分を罰してるんですよ

自分のしたことに気付き、相手に謝るのは当然ですけど、つまらぬことをした自分を赦さなければならないでしょうね

それができて、人を赦すこともできるんでしょうね

鏡についた傷は、より大きな光になるきっかけなんでしょうね

2006-09-16

ソウルミラーネットワーク

円頓戒本尊像 長保寺蔵


我が此の道場は帝珠の如し   総礼伽陀 天台大師

重重帝網なるを即身と名づく  即身成仏義 弘法大師


帝珠を強調するところから、自分の心の奥底には仏性があって、それが全ての衆生にあると考える大衆仏教になっていきました

帝網を強調するところから、専門家が仏菩薩と繋がる加持祈祷が盛んになりました


まあ、ソウルミラーネットワークですね
でも、これ実際は、両方ないと成り立ちませんね

時代的要請とでも言いましょうか、ソウルミラーネットワークですなぁ
あやしいネーミングですけど(汗)
魂の繋がり、か、ウーム・・・

加持祈祷の理屈は、自分の鏡に、仏菩薩の光を招く、ということなんです
で、招いた仏さんや菩薩さんが願い事をかなえてくれる
だから、奇跡のようなことがおこっても、やってる人が超能力者じゃなくて、働いてるのは仏菩薩です


で、これからの時代は
自分で、ソウルミラーネットワークに繋がればいいんです

まあ、このソウルミラーネットワークは自分のお尻の下の座布団よりも近くにあります
自分の中にあるんですから

だから、どこかに出かけて探す必要はありません
めんどくさくないです

霊的伝授とかアチューメントなどは、この鏡に特定の光を近くまで持ってくる儀式ですね
神社参拝は、強い光のある場所に自分で近づく方法です
お寺の本尊さんは、木や金属でできてますけど、それを開眼した人が、自分の鏡に強い光を写して仏像が光に繋がるようにしますから、種明かしをすれば、開眼した人次第で、強い光もあれば、すっとぼけた光にもなります
ただ、神社仏閣は、参拝する人達が光を引き寄せますから、昔からある参拝者の多いところは間違いないです

まあ、でも、簡単なのは、自分の中の鏡を感じることです

仏法遙かにあらず心中にしてすなわち近し

ですね

どうすれば繋がるか?、って、とっくに繋がってるんですけど(汗)

それじゃ愛想がないんで、解説しますが
仏教を学んだり修行したりすれば、仏菩薩の光が近くにくるだろうし
キリスト教やイスラムを信仰すれば、そこの神様の光が近くにくるし
日本やギリシャの神様を信じれば、そこの神様達の光が近づいてくる、と
単純な話です
無宗教だというなら、いつまでたっても、最も尊いことを知らずに終わる、と

で、僕的には、その光の感触です、大事なのは

仏だから偉い、イスラムだから偉い、ギリシャだから偉い、とネーミング合戦をしてもしょうがないです

感じるのは、あなた自身ですよ
誰かが感じても意味無いです

2006-09-15

帝珠


我此道場如帝珠  十方三宝影現中
我身影現三宝前  頭面摂足帰命礼

(総礼伽陀。天台宗で最も基本的なお経の法華懺法のいちばん初めに唱えられます)

我が此の道場は帝珠の如し
十方の三宝がその中に影を現している
我が身も三宝の前に影を現して、頭面を足に摂して帰命し礼す

私の心をソウルミラーにたとえることができる
全ての聖なる光がそこに写しだされ、私もまた全ての聖なる光のみ前に写しだされて、ひれふして礼拝する

ソウルミラー

心を鏡にたとえると、いろいろ説明しやすいんですけど、日本の神道にもあるし、古代インドでも行われていました

華厳経(No.279 大方廣佛華嚴經 實叉難陀訳)に詳しく説かれているらしいですけれど。帝網(たいもう)というのは、帝釈天が持っている網のことです。帝珠(たいしゅ)といって、宇宙全てを映し出す無数の珠玉を網のように繋げて、宇宙全体が成り立っていると。その帝珠が全てを映し出していて、となりの帝珠はそれをまた写し出して、ずーっと繋がっている、そんな意味です
帝釈天は、インドラ神ですね。

これは、弘法大師の即身成仏義にも説かれていることです

ぼくのブログで解説してます

で、この鏡は、つまり全ての人にあります。ですから魂には上下はありません。ひとつひとつが限りなくかけがえのない存在です
多神教的世界ですねぇ

鏡にたとえると、磨くか磨かないかという話になりやすいんですが、まあ、たとえ話ですのであんまりこだわらないでください

磨くという捉え方をすると、どうしても、悪いことをやめろ、反省しろ、という止悪の要素が強くなります
善いことをどんどんしよう、という一面もお忘れなく


この鏡にですね、五感と脳がくっついてるのが我々です
鏡から五感を通じて得た情報を、脳が解釈して、我々は自分なりの世界観を作ってます
よけいな話ですが、この頭と鏡を分離しちゃいけません
神仏分離ですねー
というか、分離しちゃったら、それが死後の世界で、霊界でしょうね
神様のご神体が鏡って、まんまじゃないですか
それで、僕はフト思うんですが、記憶というものは、脳の中に形成されるのではなくて、実は鏡の側に形成されているんじゃないか、ということです
脳は単なる出先機関というか受信機という考え方
そうでないと、前世の記憶とか、過去世のカルマとか説明できません

で、経験積んだ鏡が偉いかというと、これ、全てを写してるんですから、ほんとは経験積まなくてもなんでも知ってるはずなんです

問題は
五感からの情報を、脳が、どのように解釈するかです

なるべく、ゆがめず、素直に、解釈したいところなんですが・・・・ここで、転けるわけですね

高等生物である我々は、脳が自由に作り出すイメージから離れられません
そもそも五感の感度にも限界があります

各種神話も、僕に言わせれば、脳内イメージです
霊能者はおたがい仲良くないとか言うんですけど、まあ、ここらへんをよくご理解いただけば、仲良くやっていけるんではないかと
諸宗教の対話も、ここんところをきちんと押さえて欲しいと
瞑想は、つまり、五感と脳が勝手にイメージを作り出すのを制御して、鏡を直に感じる技術ということになります
右肩の「光の瞑想」はこのようなロジックに基づいてます
当然、シンプルになります
五感の性能は、どうでしょう、個人差があるでしょうし、限界があります
それがどんどん繊細になると、鏡の情報が沢山読みとれるようにはなりますが、まあ、霊感ですね、やっぱり、イメージを作ってるんです
はっきり言いますけど、ほんとに死んであの世に行ききらなければ、つまり、脳味噌と鏡が切断されなければ、絶対にイメージを作ることから解放されません
まあ、臨死は死ではないと、ヒプノもイメージですよと、チャネリングなどそれこそ受信したイメージですねと

イメージはつまり花の匂いでして、人と比べてもいいけど、自分が一番と言ってもしゃあないんです

自分の作ったイメージは自分で大切にすればいいんで、他人は他人のイメージを持っているのをお忘れなく

やっぱり瞑想が必要、って結論になっちゃうんだなー

2006-09-13

ツインソウル5



ツインソウルの謎
多重人格のしくみ
仏陀とイエスの実像

など、この本にはいろいろ書いてありますが
僕的には、これは多種多様な霊能者本とおなじことで、「そんなもんかな」という程度の退屈な説話にすぎません
この手の話は、いろんな人がいろいろ言うんですよ

と言って、まるでデタラメということにもならないわけで、少なくとも飯田先生においては真実であることは間違いなく、つまり、ほとんどの霊感本は、信じるのか信じないのかという次元に止まってしまうのです

別に、この本を信じてもいっこうにかまいませんけど、むしろ、似たような体験をいろんな人がするようになって、それぞれ、自分の体験こそ本当なわけで、諸説紛々になってくるんじゃないでしょうか

霊感の世界の話は、感覚の世界の話なんですから、花の匂い比べ、のようなもので、どっちが本当だと言ったところで、ああそうですかで終わりです

僕は、だから、ロジックがですね、大切だなーと、常々感じてます



で、この本の提示しているロジックは、

心はどこまでも繋がっていて、「究極の光」を含めて全ての心に繋がっている

「究極の光」の価値観で生きること(つまり愛ですけど)に意味がある


といったことでしょうか


この繋がっているということですね、これは、まあ僕的には一番注目するところで、「心はなぜ繋がっているんですか」って聞いて欲しかった
繋がっているから、他人の苦しみもわかるわけで、愛とか慈悲とかいうことも、繋がっているからあるということです

「究極の光」イコール、究極のネットワークです

仏教で言えば、仏性(ぶっしょう)でしょうねぇ

仏性は生きとし生けるすべてのものにあります
究極のネットワークの中心は、自分自身の心です。ですから、10人いれば10の中心があることになります。それで、中心は無限にあります。それが、繋がっています。

たとえて言えば

大きな鏡があって、それが自分の心です。その中に全ての心が写っています。いくつ心があっても、鏡は一つです。でも心はそれぞれ別々です。それぞれの心が皆、自分の大きな鏡でおたがいを写しあっています。

で、向こう側にある心を傷つけたつもりが・・・実は、自分の鏡のなかの心が傷ついてます。つまり、自分が傷を負うのです。ですから、向こう側の心を喜ばせると、実は、自分の鏡の中の心が喜んで、自分がうれしい。

シンプルなんですけど、この鏡を自分で覗き込むのは、つまり自分で自分をみることは、なかなか、できない。五感を通じて、脳内のイメージとして、今の生きている我々は感じるしかない。勝手な妄想やら、自己中やら、なんでも自由にイメージを繰り広げていくこともできるし、本来の姿を知る時もきます

仏教的には、ここには「最高の神」というような存在はなくて、ただ、「よく磨かれた鏡」や「曇った鏡」があるだけです

こういったロジックだけ取り出せば、仏教は哲学ではあっても宗教じゃありません

「よく磨かれた鏡」、たとえばお釈迦様とか阿弥陀様に助けてもらおうと言うなら、宗教かも

それで、なんで鏡ができたのか、ですけど

お前が「魂」と呼んでいるものたちは、みな、お前たちが「宇宙」と呼んでいるものが、生み出したのだ  p84


これを、仏教では自受法楽っていうんですけど。まあ、自作自演で楽しんでると

僕は、誰かが書いたマンガの主人公なんかも、段々と性根が入って、転生して人間になっちゃったり、壁画の龍が転生したりとか、そんな感じでも鏡が増えるのかなー、とか思ったりしてます



この手の本が増えることを願って、ツインソウルについては終わりにします


そう言えば、僕は、一卵性双生児なんです(ホント)
でも、ツインソウルじゃないと思うよ(なんとなく)

ラベル:

2006-09-12

ツインソウル4

「自由」というものには肯定的な雰囲気があるわけですが、実際は、ここらへんから様々な問題も派生するということなんですね

今、我々は自由主義社会に生活しているのですけれど、信仰の自由、言論の自由、経済活動の自由、旅行移動の自由、etc、自由というのはけっこうなもんです
そのうえで、お互い譲り合い、協力して、まあ、とりあえず仲良く暮らす、と
大きな矛盾をはらんだ制度なのかもしれませんが、これこそ、人間の本質に根ざした制度なのではないですか
自由主義社会の矛盾というのは、実は、人間存在の矛盾でもあるのです


で、本題に戻しますが

お前は、みずからの意志でその使命を選び、人として生まれていった p87

これは、「お前は」というところを見落とすわけにはいかないですね
「飯田先生の場合は」ということは言えるのだろうと思います

このような私の経験は、あくまでも私個人の経験にすぎないものであり、人間として生きるすべての方々が、私と同じ経験をなさるのかについては、保証することはできません  p94


と、自らも書いてらっしゃいますが、残念ながら、こうすればこうなる式の、単純な構造ではないということです


人の運命とか宿命ですね、占ってあてることもある程度できるのですが、生まれる時に自分の人生の使命を決めている、あるいは計画してきているとしたら、この世でやることは、もう決まってるんでしょうか

人間に、脳の機能として「自由」が備わっているのに、敷かれたレールを走るだけなんでしょうか





さて、僕は、この、「自由」ということ、そして「使命を選ぶ」ということ、そして生まれ変わっていくということ、これらの事は相互に深く関係があると考えています

人間は、自分の脳が作り出したイメージに基づいて、判断やら思考やらしていきますが、これが、見える前、感じられる前の、本当の世界と違っている場合、やることなすことうまくいくわけがありません
というか、感覚器官を通してしか外界を感じられないのですから、箱の中から回りの世界を観察するようなもので、写りの悪いカメラと、感度の低いマイク、精度の低いセンサーを使って、限られた一部の情報しか知ることができないのです。ですから、ほんとうの世界などわかるわけがありません。それでも、その限界のある情報をもとにして、なんとか箱を運転しているのです。
センサーを経由して加工された、不鮮明な景色を見ながら、まともな運転ができるわけがないのです

それで、自らを傷つけ、他人を傷つけるようなことを平気でする

死んで、素になって、そのことに気がついて、生まれ直して、自ら造った傷を癒したい
愛する人達が、傷つけあわないように教えてあげたい
それが「使命」だと思う

それでも、お互いの行為は複雑に幾重にも絡み合って、簡単に修正できない

新しい人生の計画をいろいろ練って、何回も生まれ変わって、本当の世界に近づいていく、つもりなのだが・・・・

いかんせん、高度に発達した脳は、「自由」にイメージを造り続ける
いろいろな人が、いろいろな計画を持って生まれてくるわけですから、当然ぶつかり合うし、相手のあることですからいつもこちらの都合よく運ぶわけでもない
人生の計画は、いわば紙に書かれた予定表に過ぎなくて、なかなか思い通りにならない
堂々巡りが終わらない

ということではないですか

で、僕は
輪廻の回数がいくら多くても自慢にならない
何回も生まれ変わって、経験を積んでも、それだけでは勘違いを避けることができない
使命を果たすつもりが、大惨事を引き起こしてしまうこともありえる
世界をひっくりかえすような才能があったとしても、勘違いから離れなければ、無意味
と、考えています

それでも、やはり徐々に賢くなります
「自由」なのだけれど、自分勝手な思いこみや、勘違いを減らすことはできます
それを、「学び」と言うのではないでしょうか

死んでから

充分に、学んできたか? p77


と、聞かれるらしいですが、「自由」の副産物である、勘違いが作り出した自分勝手な世界でない、本当の世界に基づいた生き方を学ぶ、ということなのでしょう

そのためには、本当の世界である「究極の光」と繋がらなければなりません
ネットワークの側から人生を見なければなりません

わかりずらい言い方をしないのなら

、です、慈悲、です、あたたかな心、です、共感と深い理解、です


価値があるのは、ただ、学ぶ努力、愛する努力、使命を果たす努力・・・・・この三つの努力だけだ  p80
こちらの世界に戻る時には、その結果は、いっさい問われない p81


注意していただきたいのは、その結果どうなったか、は問われていないのです
成果ではなくて、あくまで、努力したかどうか、だけが問われているのです。大事なところです

まあ、死んでしまえば、完全な世界がすでにあるんですから、結果がどうであれ、どうでもいいですわな

まえのブログで書いてますけど

諸法従本来 常時寂滅相 仏子行道已 来世得作仏

諸法はもとより常に寂滅の相をしている(仏の目から見れば完成された世界である)
仏弟子は道を行じおわって来世に仏となることを得る


てなわけで、別に新発見でもなんでもないんですけどね

「自由」と「愛」を、いかに折り合いをつけるかを学ぶために人生はある

ってことでどうでしょう


続く

ラベル:

2006-09-11

ツインソウル3



悪霊 ですけど

いわば確信犯でして、悪運が尽きるまでは悪事のしほうだい状態かと思います
心の奥底には「究極の光」がある、ということは、それはそうなんですけど、反省して改める可能性は極限まで低いです

で、これどうしてそんな存在がいるのでしょうね


自動かく乱システムが強制的に作動 p117
「時間のひずみ」と「空間のゆがみ」というしくみを、用意しておいた p117
一定レベル以上の学びを積んだ魂の人生でしか、作動しないようになっている  p119


ということらしく、つまり、耐えきれないような不幸な出来事は、自作自演だというご説明です
とんでもない光さん達だなー、ということなんですけど・・・・

悪いけど、なーんか、幼稚なこじつけです
このへんの幼稚さが、どうも、この本の限界かなー

悪霊はいない、と言ったところで、このシステムによって生じることがあるではないかと反論できますね
でなきゃ、善良な幼稚園の保母さんが、どんなやんちゃな奴でも、この子はほんとうはいい子なんです、とかばうようなニュアンスかしらん



僕に言わせれば、これは、「自由」ということの負の側面ではないかと思うのです

ご自分のことを考えてみてもおわかりのように、なにかをシェアすると表現してみたところで、そのシェアの意味はですね、皆さんてんでんばらばらです
たった一つのリンゴがあったとして、それをみんなで見ても、見える角度はそれぞれ違いますから、各自の印象はすべて違います
ある音楽を聴いても、受ける印象は各自それぞれちがいます

実際、本当のところ、各人てんでんばらばらの印象を持って生活しています
似ているものはあっても、同じものは絶対にありません

で、ネットワークで繋がって初めて、相手の印象がわかります
自分はものごとの表側から見ていたのを、あの人は裏側からみていたんだとか

ネットワークがあるから、共感や同情をする


ということなんですけれど、心は、なににも束縛されず、「自由」なんです

台所の包丁で、キャベツを刻むこともできれば、人を殺すこともできます
ビニールひもで古新聞をくくることもできれば、人の首を絞めることもできます

なんだって、やろうと思えばできる「自由」があるのです

生命進化の過程で、脳が発達して、受ける印象を脳内に構成する能力が高まって、つまり、自由度が増してきたと
ここに、誤謬や、妄想の生じる理由があるのです

で、自分が常に一番正しいと固執したりしてると、だんだんと悪事が蓄積されて、引き返せなくなると

仏教では、大自在天という、まあ、自由の神様ですね、これは、大魔王です
全ての神々が仏を賞賛するのに、大自在天だけは、我は三界の王である、といって従わなかったのを、お不動さんがこらしめる、なんて説話もあります。この大自在天は、インドではシバ神です
余談ですが、オウム真理教の本尊はなんだか知ってますか


我々は、眼耳鼻舌皮膚から情報を取り入れて、脳で再構成して、それで自我を維持していますが、この、脳で再構成する能力が向上すれば、妄想を作り出す能力も向上してるわけです
この、再構成能力の向上を「自由」の向上と考えることもできるわけです
で、高等生物ほど、心の「自由」があるわけですが、勘違いの危険も増大すると
そして、自分勝手な妄想に執着することもおきてくると

とまあ、そんなところです


続く

ラベル:

2006-09-10

ツインソウル2


スウェーデンボルグとか丹波哲朗などの霊界通信や、シルバーバーチやバシャールなどのチャネリング、あるいはヘミシンク、など、数え上げたらきりがない程、つまり、死後の世界を書いた本があります

また、仏教で言う極楽と地獄、キリスト教の天国と地獄、あるいはイスラムやヒンドゥーやその他諸々の宗教にある死後世界の記述

どれもが似ているようで、違うようで、いい加減なのか、本当なのか・・・・・唯一一致するのは、死後にも意識があるということでしょうか
そして、今我々が生活している人間社会だけで価値観が完結しないで、死後にも生きている時の生活態度などが影響するという考え方も、どうやら、一致した見解のようです

「死んだら終わりで、死後の意識などない」というお説は、僕的には関係ない議論で、まあ、死んでからあわてるだけだろうとしか思えませんが、根強い妄想と言えば妄想だし、在るとか無いとか、いつまでも平行線をたどる議論といえばそういうことでもあります

ですけれど、困ったことには、死後があるという立場の人達のお説は、どれも、かなり違うのです
自分に都合のいいお説を信じ込めばいい、という考え方もあろうかと思いますが、ほんとのところどうなんだという疑問も湧いてはきます

ここのところはですね、仏教的には解決可能です
「自分で体験すればよい」ということです
冷暖自知とか自灯明法灯明とか言います
そのために、仏教には多種多様な瞑想法があります

で、手軽な方法として「光の瞑想」を右肩をクリックしていただければ、やり方が書いてありますから、試してみてください
これは、検証可能な方法ですから、こじつけて言えば科学です。飯田先生みたいに死にかけてみる必要はありません
飯田先生は
科学を越えた p7
そうですが、できれば、再現性のある検証可能な体験をぜひ次回はお願いしたいですね


この著書で、光との対話は227ページある本のうちの100ページほどです(p62ーp160)
せっかく生死の境をさまよったんですから、もうちょっといろいろ聞いてきて頂きたかったです。こういう分量で意味深なことを述べると、解釈やら評価やら、だんだんと派生してきて、オリジナルの何倍もの分量になってきて、わけがわからなくなってくるのが歴史の教訓です

ですが、話題として取り上げられるのは、認められている証拠でもあるわけで、ここで回をわけて少しずつ論じてみようかと思います



まず、臨死体験ですけど、これはもうよくあることになってしまいました
救急医療の発達したせいでしょう。おそらく医療の先進国では増え続けると思われます
それがただ、体験することは千差万別なのです

僕も直接臨死体験をした人の話を聞いたことがありますが、残念なことに人によってかなり内容に違いがあります
夢でも見たのかと言うと、夢とは明らかに違うリアリティーがあると言います
で、まあ、人によって違う体験をするんだというあたりを、つまり、一つの体験を絶対視できないという事実は踏まえておく必要があります


さて、本文に入りますけど


私の魂は、同時に、あらゆる存在と「つながって」いました p65

これなんか、僕と一緒じゃん

飯田先生の「残存思念 p171」という表現も、実はここらへんから解き明かされたりします

自我というか、自分という意識は表面的なもので、その根底は全てに繋がっているネットワークです

で、その表面的な自分という意識は、かなりの勘違いやら執着やらにまみれていて、肉体があれば生きてる人でしょうけど、そのまま死んでしまえば、さまよえる亡霊と同じようなものです
で、この自分という意識は、ネットワークにはそもそも時間とか空間とかいう仕組みがないので、ネットワークの側から見ると、時間的空間的な制約を離れて同時に存在します

だから、残存思念という表現で言い切ってしまっても、それは、それなりの意志と思考力をもった存在です
と言うか、残存思念であっても、その本体と繋がっています
ですから、語りかけることで説得もできますし、つまり、慈悲の心を繋いで、供養して成仏させることが可能です

「悪霊」など、けっして存在しません p143

ということなんですが、まあこれは気休めで、有害な残存思念というか、伝統的な表現で言う、悪霊はいる、と僕は感じてます



続く

ラベル:

2006-09-09

ツインソウル1


ツインソウルー死にゆく私が体験した奇跡  飯田 史彦 出版社: PHP研究所 (2006/03)

僕の実感と、この本に書かれていることに特に大きな違いは無いみたいです
まあ、ちょっと違うかなという所はありますけれど

皆さんにも是非読んでいただきたいし、僕としてもどんな風に読んだか書き留めてみることにします

僕としては、もうめんどくさい議論はやめにして、この本の成果あたりを基礎にしてその次のことを考えていくべきではないか、とか思いますね

左は、去年の5月14日に和歌山に講演にいらっしゃった時に撮らせていただいた写真です(右が飯田先生)

いろんな造語を造られるみたいで、「プチ鬱」など、よく使わせていただいてます

その講演の時の印象は、ご自分の世界観を懸命に構築されているようで、既存の概念とか述語を使わずに、いかに自分なりの世界を言葉にするかということに興味があるんだなあ、というものでした

オウム真理教事件以来、「宗教でない」という言い方は精神世界を語るときの決まり文句のようになっていて、飯田先生もそのことによって、お医者さんとかの生死にかかわる現場の人達に支持されているようです

僕はもともとはお寺で生まれたわけでもなく、自分で好んで坊さんをしているんですけど、まあ、自分が宗教をやっているという自覚はないです(汗)
一応、天台宗ですけど、幸い檀家もほとんどないですし、「天台宗ではこう考えるからこうしなさい」などと言う必要も無く、感じるままに毎日生活しています


ただ、今ある宗教で、飯田先生のご本と一番矛盾がないのが、天台ではないかと思います

誇り高く生きること・・・つまり「自分は、愛そのものなのだ」という自信を決して失わないこと p149

そういう概念を、天台では「本覚思想」と言ってきました

ここのところは、僕は真言宗も知っているんですけど、真言ではちょっと違います
「本来覚っている」とは言いません
覚りに向かって修行する、という立場です。これを帰命(きみょう)と言うんですけど
まあ、似たようなもんですけど、「本来覚っているのを思い出す(本覚)」のと「不完全が完全に向かって歩いていく(帰命)」は、やはり違うといえば違います

南無(なむ・本覚)と[口奄](おん・帰命)です

本質に戻るのか、行くのか、まあ、考え方の立場が違います
戻るという考え方から、全ての生物に仏性があるのを大切にする、大衆仏教が生まれてきました
行くと考えると、厳しく自己管理して修行する、専門家仏教になります

さて
トランスパーソナルなコアな部分だけ、ご自分で納得すれば、普通の生活をするには間に合いますから、わざわざややこしく考える必要もありませんが、ちょっとした考え方の違いが、実は、おおきな隔たりを生むこともあるってことですね


続く

ラベル:

2006-09-08

親王様ご誕生の余波?

実は、きのうロケのあった、NHKの番組が、親王様誕生のニュースの関係で放送日がずれて、20日の予定が13日になりました

いやー、僕の様な者の生活にも影響を与えちゃうんですね




長保時代の皇室は、いまよりもっと複雑でした

定子皇后がお産みになった敦康親王(あつやすしんのう)は天皇にはなりませんでした

定子様は14歳で一条天皇様のもとに入内し、仲むつまじくお暮らしになり、一条天皇の最初のお子様である脩子内親王(しゅうしないしんのう)をご出産されました
長保2年に3番目のお子様[女美]子内親王(びしないしんのう)をご出産の時に24歳でお亡くなりになりました
その長保2年に長保寺は創建されました




定子様は3回目のご出産の時に、死をお覚悟されました


藤原定子ー悲恋中宮ー より抜粋

定子の亡くなった後、帳 の紐に結びつけられてる文を見つけたら、、定子筆で三首の歌が書かれていました。

夜もすがら契りしことを忘れずは恋ひむ涙のいろぞゆかしき
(訳)私が死んだ後、恋しがって流す貴方の涙の色が知りたい

知る人もなきわかれ路に今はとて心ぼそくもいそぎ立つかな

烟とも雲ともならぬ身なりとも草葉の露をそれとながめよ

定子が鳥辺野に土葬される際、一条天皇は


野辺までに心ばかりは通へども我がみゆきとは知らずやあるらん
(訳)貴方が行く鳥辺野には身体は行けないが、心だけは貴方を追って行っている事を、貴方は知らないのだろう。

という歌を残しています。



そう言えば



僕は、平成12年に紀子様から、日赤の金色有功章をいただいているのでした

2006-09-07

霊感あるんですか?

今日、NHKテレビの取材がありました
トップページの「寺だより」でご紹介しています

20日は関西エリアの放送になるので、ご覧いただける方も多いと思います

僕は出てません(^^;)
高柳真希キャスターと、案内をする地元の方が出演します
5分程の時間ですが、正しい情報が伝えられるように準備するのがたいへんでした

昨日の夜は、こちらは記録的な豪雨で、山の中は荒れたところもありましたが、案外うちはテレビ写りがいいんです
画面ではきれいなお寺に見えるだろうと思います(汗)

スタッフの方たちと雑談していたら、キャスターの高柳さんに
「ご住職、霊感あるんですか?」って訊ねられました

もちろん「ないですよ」って答えましたけど(汗)
一瞬このブログでも読んだのかなと思いましたけど
どうなんでしょうね


僕は、実際いろんな霊感ある人を見てきたけど、他人の霊感を評価するのは難しいなぁ
そういう感覚のある人にとっては、あたりまえの感覚で、それが自分にとっては普通だから。自己評価するのも難しいんじゃないの
実際は、十人十色、その日によっても違ったり、簡単じゃないからね、やっぱ感覚ですから波があるし

マスコミの影響ですかね
これから、増えるのかもしれませんね、「霊感あるんですか」って訊ねる人

つぎからは
「霊感はだれにでもあります。個人差があるだけです」って答えることにしようかな



どんなに人と違う感覚を持っていても、善いことは善い、悪いことは悪いんで、種も仕掛けもないですから、やっぱり、霊感よりも人格ですよ大事なのは

2006-09-06

花言葉

僕のホームページで花言葉を検索できるんですが
こちら
9月6日は・・・ゼニアオイ/母の愛。恩恵。温和とありますね
この日はほかにも諸説あるらしく、みそはぎ/悲哀、カカリア/秘めたる恋、のんぜんはれん/愛国心。など

これ、ほかの日で検索すると、花言葉のなかにはキンギョソウ/出しゃばり。とか、マツバギク/怠惰。とかもあって、必ずしもいい言葉ばかりじゃありません

誕生した時間もわかるということになると、四柱推命やら、ホロスコープやら紫微やら、云々、名前もあれば姓名判断か



占いは、プロがやると、やっぱり当たります
一時、誕生した年月日時間でやるやつに凝りました
宿曜経に基づいた占星術ですね
これに、姓名判断と手相を組み合わせる
たぶん、僕はプロ級の腕だと思うよ

昔、高野山で行者の監督をしてた時、履歴書わかりますし、一緒に生活すれば気心も知れてきますから、ここでの人間観察で、かなり精度を高めることができました

ほんとの占いは、いいこともわかれば、悪いこともわかります
で、僕に言わせれば、仲のよい友達ならわかるような、その人の人柄を把握することができます

それで、僕的には、運命を知ることよりも、運命を好転させる方法のほうが大事だと思っています
だから、坊さんやってるんだよね


時々、会議の流れで飲み屋に行って、ホステスさんの手相を当てずっぽで見たりするけど、いいかげんなつもりで言っても、すごくよく当たるんで、我ながらビックリします(汗)僕って、変な才能あるのかも(汗)
お店の女の子全員集まって来ちゃったりして、大騒ぎになったこともあった(汗)


昔、友人が、子供ができたので名前を付けるというので見たことがあります。
「どうも、親との縁が薄くて、片親になるかもしれない」といったら名前を考えてくれってことでいくつか考えて決めてもらいました。
そして、結局、・・・・その友人は離婚しました。
「名前を変えたけど、お前のいうとおりになったよ」と言われたのですが、無力なもんですよ。
運命ってもんは、ちょこっとなにかいじった位で変わるもんではないということを思い知りましたね。


それで、もう、占いは、当たるとは思いますが、僕はしないんです

2006-09-05

黒潮温泉

家から15分位のところに黒潮温泉という海辺にある温泉があります。埋め立てて作った人工島に地下1500m掘って温泉をつくりました。露天風呂は潮風が吹いて気持ちいいです


すぐ横はヨットハーバーです

マンションが建ち並んでいるのですけれど、埋め立てて作った島ですので、橋を渡っていかなければならず、また、島の中にはコンビニもスーパーもないので、不便です。それで、温泉はいつでも空いています。

今日も入ってきましたがリフレッシュしますね(^^)

2006-09-04

那智特別展

「関係資料が一同に会する史上初めてのこの機会」
パンフレットの説明から引用




左が補陀洛山寺(ふだらくさんじ)の千手観音
最近修復されて再建された補陀洛山寺にまつってあります。観音さんを入れる御厨子を、ある金庫屋さんに巨大な耐火金庫を作ってもらって、いざというときには扉をしめて隠せるようにしてあります。そうしないと、重要文化財ですので、お寺の中にまつっておくことができず、どこかに収蔵庫をつくってしまい込まなければなりませんでした。補助金で修理したので、県などの特別展にはおつきあいで、出陳されることがありますが、これが2回目ですね。次があるかどうかはわからんです。

右は、那智の滝の女神様の像だとされている神像です。那智大社さんはときどき出陳してくださってますね。男の神様もあったと思うけど、今回はどうなるかわからんです。

たぶん、空前絶後の展示になると思うよ(^^)
神仏分離の時、へんな分け方をしたので、一緒に出陳されることはほとんどないのです。


世界遺産というのは、実は裏話がありすぎて、そのうちブログに書くかもなぁ
ユネスコで世界遺産登録が始まったのが1972年、日本で始まったのが1992年、なんでやねんというあたりから、色々となぁ・・・・

レイキ

最近、身内の者がレイキの伝授を受けて、石やら、ファイテンやら、水やら色々感じるようになりました


レイキをやる方達はどういうふうに解釈してるか知らないけど、思想・信条・宗教に関係なく「気」が流れる、なんてことではないですよ
人格というか、人間性を媒介に「気」が流れますから、つまり、人柄の色は否応もなく付きます
なんで、わざわざ宗教じゃないなんていうのか、僕的には、カルト的な刷り込みのような気がして胡散臭いね

あれ、人から人へ伝授するんでしょ
石とか滝とかの自然物から「気」を貰うとかじゃないからね

アチューメントとか言うらしいけど、マントラ、シンボルを使った伝授の儀式と受け入れる宣言というか誓詞はですね、密教の灌頂と一緒ですね
霊団への入会式のようなもんです

あれは、だから、特定の霊団から「気」が来ます


だから、悪いってんでもないですよ
伝統仏教とか神道にだって立派な霊団がついてますからね
「気」も道具だって言うなら、用い方さえ気をつければ、なんだって有効利用できますからね


ただ、どこの誰とは言いませんが、そのグループの方達のロジックが稚拙で、自分勝手なのが多いんですよ
これつまり、有料アチューメントを次から次へ受けることで、お金がかかる仕組みを作ってますから、営業トークが先走って、つごうのいい作り話がまかり通る構造になってますからね

深入りして、カルト的、同業組合的、秘密結社的な親睦団体になるんだろうねぇ
自分たちの勝手な世界観で世の中を解釈しまくって、自分たち以外はみんな馬鹿、みたいになりかねないなぁ


まあ、僕の身内がどうなっちゃうかは、とどのつまり、ご本人次第ですけど、人類と世界の未来を真剣に憂えてる霊団を紹介しておきましたから、たぶん、おおきな脱線はないでしょう




実は、本堂の前に、特別に注文して作ってもらった、白い花崗岩を砕いて作った砂利を敷き詰めています
わざわざ、大きさを指定して、小さく砕いてもらいました


あれは、比叡山の浄土院(伝教大師の御廟)のパクリでもあります
けど、これは、計算された仕掛けでもあって、白い花崗岩は石英が多く含まれていて、つまり水晶です
非常に安定した波動が生じます
雨の後、朝日が当たったりすると、すんごくリセットされちゃいますよ

ムフフ


僕はよくわかんないけど、身内の者が手をかざすと、石畳の上では何も感じないのが、白砂利の上はパワーがあるらしいですよ
なんでか知らないけど、レイキの伝授を受けてから感じるようになったみたいです

2006-09-03

Virtual Tour

いえ、たいしたことじゃございません

ホームページに新しく、境内のバーチャルツアーコーナーを作ろうかと思いまして
こちら

これは、いわば、営業ネタです(汗)

境内案内をさせていただく時に時間があればお話することです
時間が限られている場合もありますので、聞かれたことのない方も多いだろうと思います

なんか不公平な感じもするし、このコーナーを御覧になって、それなら実際に見てみようという人もある、かも、しれませんので作ってみることにいたしました

順次追加する予定です

2006-09-02

川の流れ


人生は川の流れ、だとします

僕らは、プカプカと浮かんで流されていきます

そのまま流されていけば、どこかで沈んでしまうか、大海原にまで出ていって、波に飲まれて消えてしまいます

ただ流されるのではなく、どこかへ向かって泳いでいこうとしなければ、沈んでしまうのです

泳いでいって、どこかにたどり着けるあてなどありません

でも、泳ぎ始めなければ、どこにも行き着きません

行き着く、目的地が大事なのか
泳ぎ始めることが大事なのか


これ、まあ、目的地については、ああでもない、こうでもないと議論をめぐらして、延々となにもしないで時間を費やすこともできます

泳ぎ始めることが大事、ということにしておきます

2006-09-01

感触を大事にね^^

霊感があるとか、何かが見える感じる、という場合、実は、その背後に付いている霊的存在が見させている、感じさせている場合が多いのです

ある一つの霊場に行っても、霊感のある人は、常に誰でも同じものを見たり感じたりするのではありません

ある人は恐怖を感じるけれど、ある人は懐かしさを感じたり
神様が見える人もいれば、光を感じたり、声や音を聞いたりする人もいる

神様が見えるといっても、違う形に見えたりする



これは、なにか一つの波動のようなものがあって、感じる人の文化的・教育的背景によって翻訳されて、その人の理解の範囲に収まるように感じる、という考えかたもできます

ですが、その背後にいる霊的存在の力で感じている場合には、その霊的存在のルールにしたがって感じさせられていることになります

どうも多種多様な霊団があるらしく、仏教、神道は当然として、ヒンドゥー、キリスト教、ユダヤ教、イスラム、古代エジプト、マヤ、ブードゥー、など、あるいはそれ以前、ありとあらゆる集団が活発に動いています

僕的には、これらの霊団は、人間の念の集合体であり、特定の教義に執着する心が生み出したイメージにはまりこんで抜け出せないでいる霊魂の集団です

これ、まあ、いろんな宗教教義はそれぞれ立派で、ありがたいものです
ですけど、姿形とか神話や教義は、これ脳のイメージであって、もう、どうしようもなく各人バラバラで別々なんです

そのイメージそのものがありがたいんじゃなくて、そのイメージをどう感じるかが大事なんですよ


たとえば、とある大きな岩の前に、神様が現れた
いつか絵でみたことがある○○の神にそっくりだ
だから、ありがたい、すごい
じゃなくて

その現れた神様の姿が、なんとなく怖い、のか
神々しく威厳に満ちているのか
暖かな親近感があるのか

その感触ですよ、大事なのは




霊感の強い人とつき合っていると、どうも、人を支配しようとする、結論を押しつけようとする、有無を言わさず指図しようとする、人がいるんですけど、だめだねー、これは
この手の人達は、背後の極めて執着心の強い霊団に心を支配されてしまっています
悪意のある霊団になると、恐怖や、恫喝や、巧妙な利益誘導などを駆使します



まともな霊団なら、その人を、導き教えることはしても、支配しようとはしません




追伸

坊主憎くれりゃ袈裟まで憎い、とか、坊主の坊主嫌い、とか、いろいろ言われてはおりますが、感じのいい坊さんならつき合ってみるのもいいんじゃないかとは思いますよ