華厳コスモロジー
僕は、基本的に、自分の感触を信じることが一番大事だと考えているので、さほど関心のない話題だったのですが
お釈迦様を、「神の被造物だから神より格下だ」とか、「涅槃に入ったと言うが、もともと人間だから、人魂であり、それ以上の天界から見れば下界の存在だ」とかいう理屈
「神の被造物だから神より格下だ」という理屈はキリスト教原理主義でよく聞くせりふ
「涅槃に入ったと言うが、もともと人間だから、人魂であり、それ以上の天界から見れば下界の存在だ」という理屈は、ある神道の一派が唱えている
お釈迦様は、人間です
僕は、インドで、遺骨をこの目で見ました
お父さんは、スッドーダナ王、お母さんはマヤ夫人、奥さんはヤショーダラ姫、一人息子はラーフラ
アーナンダは従兄弟
人間が被造物だと言うなら、そのとおりだし、もともと人間だというのは、全く異論がありません
ですけど
被造物--->格下
もともと人間--->天界から見たら下界
という、理由付けが、どうも、証明不可能な、神話と言えば神話だし、信仰的結論といえばそういうことだし、ま、異論を差し挟むこともできると
「格下」「下界」って、これって、自虐コスモロジーよ
つまり、「人間は、我が神よりアホな存在じゃ」と、言ってる本人も人間なわけで、自虐発言になりますな
でもって、お釈迦様はれっきとした人間ですから、自分の神のほうが上と
まあ、だれでも、自分勝手な理屈やらコスモロジーやら振りかざすわけですから、よくある話ということになるんだけど
優劣つけて、比較して、勝ち負けを決めるという、一見わかりやすい方法論がですね、これ、仏教が否定してる世界観なのよ
一神教的世界観やら、神道原理主義にどっぷり浸かっていると、ここのところが、まったくわからないと思うよ
なにかこう、世界がピラミッド構造になっていて、その下の方のどこかが人間の居場所だという考え方
世界を創造した全知全能の根本存在と、人間は隔絶していて、つまり、人間が神になることは絶対に無いという考え方
べつに、それで気が済むならそれでかまいませんが、宗教コスモロジーの覇権争いを永遠にしなきゃならないよ
我が神が一番だって、闘争が終わらないですよ
で、仏教の唯識観を下に図示します
華厳コスモロジーですね
緑の波が人間
眼耳鼻舌身は感覚器官
意識が大脳の活動
マナ識が、個人という侵しがたい個別性の境界線
アラヤ識は、過去すべての記憶を貯蔵するところ
如来蔵というレベルが、いわゆる繋がっている部分
で、一切合切、まとめて含有して解放されたレベルが涅槃と
青の矢印ですけど、実は、上向きの矢印の外界を認識してるんじゃなくて、下向きの矢印で、自分の心を認識してる
アラヤ識や、マナ識という、個人的経験とか勝手な妄想のフィルターを通じて、ホントの世界を、いわば、色眼鏡をかけて見てる
天使とか菩薩、八百万の神、などは、マナ識のある、つまり自我のある存在で、緑の山の形が違う位の、人間に近しい存在と、仏教では考えてます
涅槃に行ってしまわないかぎり、幽霊でも、霊界でも、神仙界でも、自我は消えません
涅槃に行ってしまうと、私であり同時にあなたであり、生きとし生ける一切になります
生死は、赤線のマナ識より上の部分の明滅ってことでしょうね
で、下に向かう矢印を、本来悟っているところに「帰る」と考えるか「行く」と考えるかで、仏教のなかでもニュアンスが違う立場があります
「帰る」が天台で
「行く」が真言です
ま、ここらへんは、趣味の問題ですが
僕らの内部に、「光の根源」があるのです
僕らは「光のかけら」だとも言える
汎神論ですね
自分が神であり、周囲の人も皆さん神です
それで、「絶対的な創造主としての神」という概念は、意識の産物であって、だから、どっちが正しいとか決着はつかないと、僕は考えてます
お釈迦様は、無記といって回答無しです、関心がない、どうでもいい問題とみなします
まるごと、こういう世界を神様が作ったんだという考えかたはですね
しりとりのように、そのエライ神様を作ったのはこちらの神様、そして、そのエライエライ神様を作った神様、そのエライエライエライ神様をつくった神様・・・
と、無限につづくことになります
だから、仏教は、まるで相手にしませんが、おやりになりたければ、どうぞ
お釈迦様を、「神の被造物だから神より格下だ」とか、「涅槃に入ったと言うが、もともと人間だから、人魂であり、それ以上の天界から見れば下界の存在だ」とかいう理屈
「神の被造物だから神より格下だ」という理屈はキリスト教原理主義でよく聞くせりふ
「涅槃に入ったと言うが、もともと人間だから、人魂であり、それ以上の天界から見れば下界の存在だ」という理屈は、ある神道の一派が唱えている
お釈迦様は、人間です
僕は、インドで、遺骨をこの目で見ました
お父さんは、スッドーダナ王、お母さんはマヤ夫人、奥さんはヤショーダラ姫、一人息子はラーフラ
アーナンダは従兄弟
人間が被造物だと言うなら、そのとおりだし、もともと人間だというのは、全く異論がありません
ですけど
被造物--->格下
もともと人間--->天界から見たら下界
という、理由付けが、どうも、証明不可能な、神話と言えば神話だし、信仰的結論といえばそういうことだし、ま、異論を差し挟むこともできると
「格下」「下界」って、これって、自虐コスモロジーよ
つまり、「人間は、我が神よりアホな存在じゃ」と、言ってる本人も人間なわけで、自虐発言になりますな
でもって、お釈迦様はれっきとした人間ですから、自分の神のほうが上と
まあ、だれでも、自分勝手な理屈やらコスモロジーやら振りかざすわけですから、よくある話ということになるんだけど
優劣つけて、比較して、勝ち負けを決めるという、一見わかりやすい方法論がですね、これ、仏教が否定してる世界観なのよ
一神教的世界観やら、神道原理主義にどっぷり浸かっていると、ここのところが、まったくわからないと思うよ
なにかこう、世界がピラミッド構造になっていて、その下の方のどこかが人間の居場所だという考え方
世界を創造した全知全能の根本存在と、人間は隔絶していて、つまり、人間が神になることは絶対に無いという考え方
べつに、それで気が済むならそれでかまいませんが、宗教コスモロジーの覇権争いを永遠にしなきゃならないよ
我が神が一番だって、闘争が終わらないですよ
で、仏教の唯識観を下に図示します
華厳コスモロジーですね
緑の波が人間
眼耳鼻舌身は感覚器官
意識が大脳の活動
マナ識が、個人という侵しがたい個別性の境界線
アラヤ識は、過去すべての記憶を貯蔵するところ
如来蔵というレベルが、いわゆる繋がっている部分
で、一切合切、まとめて含有して解放されたレベルが涅槃と
青の矢印ですけど、実は、上向きの矢印の外界を認識してるんじゃなくて、下向きの矢印で、自分の心を認識してる
アラヤ識や、マナ識という、個人的経験とか勝手な妄想のフィルターを通じて、ホントの世界を、いわば、色眼鏡をかけて見てる
天使とか菩薩、八百万の神、などは、マナ識のある、つまり自我のある存在で、緑の山の形が違う位の、人間に近しい存在と、仏教では考えてます
涅槃に行ってしまわないかぎり、幽霊でも、霊界でも、神仙界でも、自我は消えません
涅槃に行ってしまうと、私であり同時にあなたであり、生きとし生ける一切になります
生死は、赤線のマナ識より上の部分の明滅ってことでしょうね
大毘盧遮那成佛神變加持經(大日経)
如何が菩提とならば、実の如く自心を知るなり
「悟り」とは、ありのままの自分の心を知ることである
「悟」という字は、わが(吾)こころ(心)と書きますね(^^)
で、下に向かう矢印を、本来悟っているところに「帰る」と考えるか「行く」と考えるかで、仏教のなかでもニュアンスが違う立場があります
「帰る」が天台で
「行く」が真言です
ま、ここらへんは、趣味の問題ですが
僕らの内部に、「光の根源」があるのです
僕らは「光のかけら」だとも言える
汎神論ですね
自分が神であり、周囲の人も皆さん神です
それで、「絶対的な創造主としての神」という概念は、意識の産物であって、だから、どっちが正しいとか決着はつかないと、僕は考えてます
お釈迦様は、無記といって回答無しです、関心がない、どうでもいい問題とみなします
まるごと、こういう世界を神様が作ったんだという考えかたはですね
しりとりのように、そのエライ神様を作ったのはこちらの神様、そして、そのエライエライ神様を作った神様、そのエライエライエライ神様をつくった神様・・・
と、無限につづくことになります
だから、仏教は、まるで相手にしませんが、おやりになりたければ、どうぞ
ラベル: Quantum Sense
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