2007-05-16

新しいBlogに引っ越します

自宅サーバーを始めましたので、そちらのサイトに引っ越します

このBlogはこのまま残しますが、新規の投稿は新しいサイトでさせていただきます

新しいサイト
鐘声
http://www.chohoji.or.jp/topics/

どうぞよろしくお願いいたします


 

2007-04-16

Terra Naomi's "Say it's Possible"

2007-03-12

主義

ある会合で、質問されたました

それが、初対面の人ばかりの集まりで、まあ、僕の言い方の癖など理解してもらってないでしょうから、クダクダと長い話をしました

いつもはそんなにしゃべりません

感触を大事に、というのがモットーですので、言葉はどうも信用できないからです

で、その質問

宗教はきらいだ
社会主義が世の中を良くしてきた
なぜ、宗教はもっと社会的な活動をしないのか?
もっと活動するべきだ


こんな意味のことを、白いスーツの、ハッと目立つような綺麗な女性から言われました

よくあるパターンの考え方でして、ちょっと退屈でしたが、時間をいただいてお話しました

どだい、僕など宗教界を代表してご案内をするようなエライ存在などではありません
場をぶち壊してもいけないと思い、遠慮しながら話したので、うまく説明できませんでした
で、言いたかったことを下に書きます




>宗教は嫌いだ
宗教を好きでも嫌いでも、どーでもいいです


>社会主義が世の中を良くしてきた
賛成
そして、自由主義が社会を良くしてきた 賛成
    資本主義が社会を良くしてきた 賛成
    共産主義が社会を良くしてきた 賛成
    全体主義が社会を良くしてきた 賛成
    
なおかつ、社会主義にも欠点がある
     自由主義にも欠点がある
     資本主義にも欠点がある
     共産主義にも欠点がある
     全体主義にも欠点がある

これは、別段議論でもなんでもないんで
ついでに言えば、主義と名のつくものは、たぶん僕はついていけないでしょう
僕はアバウトですから


>なぜ、宗教はもっと社会的な活動をしないのか?
>もっと活動するべきだ

これは、ちょっとね、考え方を深めてもらいたい部分でした
皮相的、形式的な理解を一般化していて、まともな話になりそうもないからです

先ず「宗教は」という設問のしかた
なんと言うか、ヌルイ

そんなもん、紙に書かれた文字にしかすぎません
趣味でイデオロギー論争をするなら勝手にしたらいいけど、プロトコルですよね、言葉の定義から念入りにしないと、しりとり合戦のような、空虚な話になりますよ

これが、好きな人が多いのよ
僕的には、メンドイ、ダルイ、退屈、どーでもいい

それでですね、「信仰」
「信仰」は、各自の胸の中にあるのです
信仰や祈り、それは、自分と神なり仏なりの神聖な「なにか」に対する個人的な問題です
てっとり早く言えば、勝手にしたらいいし、愛想のある言い方をすれば、各人の生き様にまかされている

語り合うなら、それを語ろうよ


>なぜ、もっと社会的な活動をしないのか?

これですね、人間のコミュニケーションを、どの程度の範囲で感じてるかということですね

たとえば、なにか、アッピールする
それを、「言葉」でする
でも、ホントのコミュニケーションは、もっと深い所でしてる

坊さんという存在は、もっと深い所に根を張って活動してるんです

言葉より深い、心、で繋がって、コミュニケーションしようとしてるんです

たとえば、葬式行って、坊さんがお経を読んでる
なにを言ってるかわからない
「意味を説明して欲しい」と質問する
その時の答えは、だいたい決まってるんです
「説明するともっとわからなくなる」

ふざけてるんじゃありません
言葉の意味よりもっと深いコミュニケーションがあるから、そういう答えになるんです
まあ、本当に知りたければ、自分で本でも買って読めばいいです
冗談抜きで、これで何百年もやってきたんです

社会活動をする坊さんも多いけど、それは、各個状況に対処せよ、だよ
向いてることを、出来る範囲でしたらいいんじゃないの

実際、いろいろしてるよ



>もっと活動するべきだ

これって、どういう世界観で出てくる質問か、はたと考えましたよ
で、適当にはぐらかしました

僕らがしたいと思ってるのは、言葉よりもっと奥の、心のコミュニケーションなのですよ

社会改良とか、改革、不正追及、奉仕活動、慈善事業、なんでもいいけど、べつだん、坊さんだけの問題じゃないからね
人間であるかぎり、関心を持たなければならないことじゃないの

みんなで、取り組みましょうよ
としか言えない



  

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2007-03-09

日本の人権思想の由来


仏教が救う日本の教育

p157から引用
 

戦前の教育の根幹をなした修身の科目の中では、「祖先を尊べ」ということを繰り返し教えていた。どういうしきたりで、どのように尊ぶべきかということは各家庭にまかせていた。
 各家には仏壇や神棚が安置されていて、朝夕の礼拝や年中行事や年忌の法事がある。こうした古来の習慣は親から子へと伝えられてきたものであるり、とくに学校で教わることではない。学校ではその大切さを説くだけだが、それで十分だった。

 戦後、修身の科目はなくなり、学校で「祖先を尊べ」と教えることはなくなった。憲法による宗教教育の禁止のせいで、一言たりとも「祖先を尊べ」と教えることはなかった。核家族化が急速に進んだため、どの家にも仏壇があるということがなくなり、祖先を尊ぶ習慣を身につけないまま成長してしまう子供たちが増えた。

同じ敗戦国でありながら、連合国に対して憲法だけは自前でつくることを押し通した西ドイツでは、その基本法(憲法)のなかで、宗教を学校の必修科目と規定した。宗教だけは教えてはいけないと定めた日本の憲法と正反対だ

人間には必ず何か尊ぶべきものがある。何か尊ぶべき価値があるはずである。それを教えるのが教育の使命である。少なくとも文明国の人間ならば、欲望のままに生きてよい、などとは教えないはずである。

現代の学校では、「利を権ること」を尊べと教えている。祖先を尊べとは教えない。神仏を尊べとも教えない。なによりも「人権を尊べ」と教えている。
 これは宗教教育である。しかも、史上最低の宗教教育である。何であれ「利」を「権ること」を至高と崇めるような愚劣な宗教がかつて地上にあったろうか。それが戦後の日本に誕生した。かくして現代日本人は「人権」よりほかに尊ぶものを知らない。

これを「人権教」と呼んで差し支えない。今の日本には「人権教」という新宗教が猛威をふるっている。

憲法第十一条は、「国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない。基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与えられる」となっている。
 この条文をよく読むと、日本人には不可解な表現がある。お気づきだろうか。それは最後の「与えられる」という言葉である。

つまり、基本的人権なるものは、誰かから日本国民に与えられたものという表現になっているのである。では、誰が与えたのか。

主語があいまいでも通じる日本語の落とし穴のような感じだが、マッカーサー草案並びに英訳では「コンファー」という動詞が使われている。これは贈り物や爵位などを授けるといった場合に用いられる語である。どこか高いところから授けられる、というニュアンスの語である。
 条文には「誰によって」ということはどこにも記されていない。「一体誰から与えられるのだろう」と、素朴かつ賢明に考える日本人がいたら、不可解に思えて当然でしょう。
 それは誰か。いくらマッカーサーが憲法草案をつくったとはいえ、基本的人権なるものまでマッカーサーから与えてもらったと考える日本人はいないだろう。

答えは歴然としている。それは神(ゴット)である。

日本国憲法には神の名こそ記されていないものの、「与えられる」という表現のなかに、キリスト教の全能の唯一神がしっかり顔を出しているのだ。
 これが宗教的聖句でなくて何であろう。そして、それを尊べと教えることが宗教教育でなくて何であろう。

「人権」の由来と根拠を知っている欧米人と違って、人権教の信徒たちには、祈りも感謝もない。空気のように当然あるべきもだと思っている。だからほんのわ ずかでも、それを批判し、行く手を遮るものにはヒステリックに抵抗する。しかし、「利=欲望」の追求(要求)を空気のようにあたり前に感じる社会とは、果 たしてまともな健全な社会といえるのであろうか。


引用終わり




教育勅語と言うと、引く人もあると思うけれど、見てください
御自分で判断してみてください
ここで言っていることを否定するってことは、これ、亡国以前に、廃人だろうなぁ

教育勅語絵本[FLASH]ver1.5
あすの日本を考える会








大きなサイズで見る



ま、それで、僕的には、「自由が大事」じゃなくて「創意工夫」だと言ってるんですけどね

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2007-02-22

華厳コスモロジー

僕は、基本的に、自分の感触を信じることが一番大事だと考えているので、さほど関心のない話題だったのですが

お釈迦様を、「神の被造物だから神より格下だ」とか、「涅槃に入ったと言うが、もともと人間だから、人魂であり、それ以上の天界から見れば下界の存在だ」とかいう理屈

「神の被造物だから神より格下だ」という理屈はキリスト教原理主義でよく聞くせりふ

「涅槃に入ったと言うが、もともと人間だから、人魂であり、それ以上の天界から見れば下界の存在だ」という理屈は、ある神道の一派が唱えている



お釈迦様は、人間です

僕は、インドで、遺骨をこの目で見ました

お父さんは、スッドーダナ王、お母さんはマヤ夫人、奥さんはヤショーダラ姫、一人息子はラーフラ
アーナンダは従兄弟


人間が被造物だと言うなら、そのとおりだし、もともと人間だというのは、全く異論がありません



ですけど

被造物--->格下
もともと人間--->天界から見たら下界

という、理由付けが、どうも、証明不可能な、神話と言えば神話だし、信仰的結論といえばそういうことだし、ま、異論を差し挟むこともできると

「格下」「下界」って、これって、自虐コスモロジー

つまり、「人間は、我が神よりアホな存在じゃ」と、言ってる本人も人間なわけで、自虐発言になりますな

でもって、お釈迦様はれっきとした人間ですから、自分の神のほうが上と

まあ、だれでも、自分勝手な理屈やらコスモロジーやら振りかざすわけですから、よくある話ということになるんだけど

優劣つけて、比較して、勝ち負けを決めるという、一見わかりやすい方法論がですね、これ、仏教が否定してる世界観なのよ


一神教的世界観やら、神道原理主義にどっぷり浸かっていると、ここのところが、まったくわからないと思うよ


なにかこう、世界がピラミッド構造になっていて、その下の方のどこかが人間の居場所だという考え方
世界を創造した全知全能の根本存在と、人間は隔絶していて、つまり、人間が神になることは絶対に無いという考え方

べつに、それで気が済むならそれでかまいませんが、宗教コスモロジーの覇権争いを永遠にしなきゃならないよ
我が神が一番だって、闘争が終わらないですよ



で、仏教の唯識観を下に図示します
華厳コスモロジーですね



緑の波が人間

眼耳鼻舌身は感覚器官

意識が大脳の活動

マナ識が、個人という侵しがたい個別性の境界線

アラヤ識は、過去すべての記憶を貯蔵するところ

如来蔵というレベルが、いわゆる繋がっている部分

で、一切合切、まとめて含有して解放されたレベルが涅槃と

青の矢印ですけど、実は、上向きの矢印の外界を認識してるんじゃなくて、下向きの矢印で、自分の心を認識してる
アラヤ識や、マナ識という、個人的経験とか勝手な妄想のフィルターを通じて、ホントの世界を、いわば、色眼鏡をかけて見てる

天使とか菩薩、八百万の神、などは、マナ識のある、つまり自我のある存在で、緑の山の形が違う位の、人間に近しい存在と、仏教では考えてます

涅槃に行ってしまわないかぎり、幽霊でも、霊界でも、神仙界でも、自我は消えません
涅槃に行ってしまうと、私であり同時にあなたであり、生きとし生ける一切になります

生死は、赤線のマナ識より上の部分の明滅ってことでしょうね



大毘盧遮那成佛神變加持經(大日経)

如何が菩提とならば、実の如く自心を知るなり

「悟り」とは、ありのままの自分の心を知ることである

「悟」という字は、わが(吾)こころ(心)と書きますね(^^)



で、下に向かう矢印を、本来悟っているところに「帰る」と考えるか「行く」と考えるかで、仏教のなかでもニュアンスが違う立場があります

「帰る」が天台で
「行く」が真言です

ま、ここらへんは、趣味の問題ですが

僕らの内部に、「光の根源」があるのです
僕らは「光のかけら」だとも言える

汎神論ですね
自分が神であり、周囲の人も皆さん神です



それで、「絶対的な創造主としての神」という概念は、意識の産物であって、だから、どっちが正しいとか決着はつかないと、僕は考えてます

お釈迦様は、無記といって回答無しです、関心がない、どうでもいい問題とみなします

まるごと、こういう世界を神様が作ったんだという考えかたはですね
しりとりのように、そのエライ神様を作ったのはこちらの神様、そして、そのエライエライ神様を作った神様、そのエライエライエライ神様をつくった神様・・・
と、無限につづくことになります

だから、仏教は、まるで相手にしませんが、おやりになりたければ、どうぞ

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2007-02-21

ロシア兵の銃剣

怖い話は、書くつもりはなかったんです

やはり、供養して、成仏してもらうのが仕事なわけで、怖がらせてどうすんだ、ってことなんですけど

でも、ちょっと、世の中、ホントの話に対する免疫もできてきたかもしれないと感じますので、あたりさわりの無い範囲で少しずつ書いていこうと思います




日露戦争(明治37,38年)があったとき、戦利品の分配というのがありました

ロシア帝国と戦争して、ぶんどった戦利品をですね、うちとこのような田舎にも分配されたのです

それが、ある家にあるのですが、モシナガンというライフルだと思います
鉄砲ですね、長い銃剣のついた




それを、文化財の調査だったと思うけど、見せてもらったことがあるのです
持たせてもらいました

いまでも、カチャカチャ動きます
パチンと撃鉄も落ちます

銃剣の長さが40cmくらいあって、長いです



その日の夜に夢を見ました



広い雪原を、ロシア兵だと思われる背嚢を背負った、疲れた感じの兵隊達が、こちらに背を向けて、ザッザッザッザと行軍しています

あたりは薄暗く、吹雪のように雪が横殴りに吹き付けています

見ているこちらからは、手の届くほどの距離で、銃をかついで背中を向けてむこうに向かって歩いています

それが、一人の兵隊がいきなり、こちらを振り向いたのです

「えっ」と思いました

顔の印象はあまり無いのですが、ひげ面であることはわかりました

ドカッ

手にしていた銃の銃剣で、いきなり、僕の胸を突きました

冷たい鉄の棒が、胸を貫いた感触がありました

僕は、驚いている間もなく、そのまま、後に仰向けになって棒のように倒れました


さ、さ、れた・・・



目を開いたら、布団に寝ていました

胸をさわりましたよ

痛みはありませんでした

しかし、鉄の棒が刺し貫いた感触が残っていました


冥福を祈りましたが

たぶん、あのロシア兵達は、吹雪の中、行軍を続けていると思います

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2007-02-19

シャカにダイバ

シャカにダイバ

という諺を知っていますか
仇敵、最大のライバル、といった意味で使われます

シャカとダイバは、永遠の仇敵です

シャカは釈尊

ダイバとは、提婆達多(ダイバダッタ)という人の名前です
釈尊の身の回りの世話をしていた、十大弟子の中で多聞第一の阿難尊者(アーナンダ)の兄で、釈尊からみると従兄弟にあたります
三逆の罪(教団を分裂させること、仏の体を傷つけること、修行僧を殺すこと)を犯した極悪人として仏典にしばしば登場します

最初は釈尊の弟子であったのが、釈尊に異論をとなえて仲間をつのって教団を離脱して、自分の派閥をつくります(教団を分裂させる)
かなりの霊能力があったと言われています

あるとき、釈尊を妬み、山の上から岩を落とし、釈尊の足の指を怪我させます(仏の体を傷つける)

ついに、釈尊に酒に酔った像をけしかけ踏み殺そうとします
周囲の弟子が死傷しますが、酔像は釈尊の力でおとなしくなります(修行僧を殺す)

それで、大地が割れ、ダイバは生きたまま無間地獄に堕ちたとされています


そのダイバを釈尊はとりなしています
法華経提婆達多品に
ダイバは前世では釈尊に法華経を教えてくれた仙人で、大恩人であると説いています
極悪人でも救われる、という例によく取り上げられる話です


ある時、弟子が、何故ダイバは釈尊に怨みをいだくようになったのか
その前世の因縁を聞かせて欲しいと頼みます

その時、釈尊は次のような話を説いたのです


東ローマ帝国末期の国章「双頭の鷲」


カルダとウパカルダ『仏本行集経』

カルダとウパカルダという名の双頭の鳥がいました

ウパカルダは、自分が眠っている間にカルダがおいしい木の実を腹いっぱい食べるため、起きたときには満腹でなにもごちそうが食べれません

お腹は一つだから

いつもこれを不満に思っていたウパカルダは、あるとき毒の実を見つけました
これを自分が食べれば、同じ身体を持つカルダは死んでしまうだろうと考えたウパカルダは、カルダが眠っている間に毒の実を食べました
案の定、カルダは悶絶して死んでしまいます

しかし当然のことながら、身体は一つなのでウパカルダもやはり死んでしまったということです
「仏説阿弥陀経」の中では、共命之鳥として説かれています



ウパカルダとは、ダイバであり
カルダが釈尊であったのです

ウパカルタは自分が労せずに満腹であることに感謝もせず、食べる楽しみのない事にたいする怨みだけつのらせ、身勝手にもガルダを殺し、浅はかに、自分も死んでしまいます
そして、自分が死んでしまったことを逆恨みし続けるのです


ウパカルダは、永遠の輪廻の中で、ある時は、仙人として前世の釈尊に法華経を教えました

しかし、過去世での自分勝手な怨念が忘れられず、今度はダイバとして釈尊を殺そうとします




ま、これ、今風に、ツインソウルの話です

なんか、キーワードが「ツインソウル」で僕のBlogを検索する人が多いようなので書きました

ツインソウルとの出会いが、「永遠の恋人との出会い」だと思ってるのは、虫が良すぎるってことなんです

え、あの
そういうこともあるとは思いますよ

ですけれど、仏教はツインソウルと出会うことがゴールだなんて考えてないってことです

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2007-02-17

信仰・反省・努力

仏舎利(お釈迦様の遺骨)を供養する供養塔は
くだけた言い方をすると、お釈迦様のお墓です
それを、木札なりなんなりに神格化したのが、祈祷札の起源です

で、僕らのお墓も、遺骨のうえに石塔を建てています
ですから、お釈迦様のお墓と僕らの先祖のお墓は、原理的に一緒のものです

それでですね、僕ら、先祖のお墓参りに行ったとき、家内安全、身体健全、商売繁盛など、欲張って祈願しますか?
「見守ってください、導いてください、がんばってるよ、心配しないで」と亡くなった方と対話してるんじゃないですか

ですから、お釈迦様のお墓にお参りしたとしても、同じことです
「見守ってください、導いてください」というのがホントでしょ

だから、祈祷札の起源がよくわかっていれば、御祈祷は自分勝手な願望成就を願うようなものじゃない、ということがわかってくるわけですよ



「御利益は、信者さんが持ってくる」って書きましたが、坊さんが祈祷をしても、信者さんの信仰がなければ霊験はありません
霊験があれば信者さんの信仰のおかげ、霊験が無いと言うのは欲張りすぎで反省するべきことがある、というのが仏教の祈祷の考え方じゃないですかね


種子金剛界曼茶羅図

織成 縦71.3 横39.5 江戸中期(18世紀)
やや光沢のない金糸で、豪華な天蓋を戴く種子両界曼茶羅を織り出した双幅である。箱書には、「蓮糸」とあるが、普通の絹糸を用いている。
明治3年(1870)に、徳川家から寄付されたものである



さて
仏教は、月並みな結論ですが

信仰・反省・努力

この積み重ねと繰り返しです


「霊的な力のコントロール」というのは、仏教的な考え方じゃないってことです


亡くなったご先祖様が僕らを心配してくれているように、神仏が無条件に僕らを心配してくれているってことを、是非、信じてくださいね

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千の風になって

私のお墓の前で 泣かないでください
そこに私はいません 眠ってなんかいません
・・・・

千の風に
千の風になって
あの大きな空を
吹きわたっています


新井満さんが、翻訳の経緯を書いているけれど

ここ

もともと英語の詩があったらしいですが、作者不詳ということになっています
アメリカ先住民の作ったものという説もあるようです

これを、秋川雅史さんが歌って、紅白にも出ましたが、実は、この秋川さん、四国の西条市出身です
世界的にご活躍されていますが、西条祭りには必ず帰国されるそうです

西条祭り

西条市内には120以上のだんじりがあるそうです
祭り期間の10月14日から17日までは、市民全員祭りに参加するので、ガソリンスタンドもタバコ屋も喫茶店も全部休みで、市外にいかなければなりません

江戸時代、西条藩主が奨励したのがもともと始まりのようです
勇壮な気風を育てようとしたのだと思います

その名残でしょうか、祭り期間中、いったん「お旅所」にすべてのだんじりが一カ所に集合して夜祭りになりますが、それは、在る神社の前にある祭り用の特別な広場です



翌朝、「御殿前」といって、西条藩主の陣屋跡の西条高校前(今も陣屋の門が遺されている)に集結しクライマックスになります


実は、在る神社とは、西条東照宮で、ご神体は東照権現、徳川家康公です
そして、初代西条藩主は紀州徳川家初代藩主徳川頼宣の次男、松平頼純です

そう、西条藩は紀州徳川家の分家なのです


秋川雅史さんと、僕は、細い糸ですが繋がっているのです、そして、「千の風になって」の歌も
(ま、気持ちの問題ですから)


僕も、いちど祭りに行きましたが、西条市内に宿泊できなくて、となり町で探してもらいました




前回、お札があるのと無いのとでは

訓練、と実戦
ままごと、と本物
思いこみ、と現実

位の違いがある、と書きましたが

これは、お墓にもあてはまるんじゃないかと思います

無ければ無いで、間に合います
でも、無いと寂しいです

先祖がそこで暮らしてるわけじゃありません
でも、あれば落ち着きます

お墓参りに行くと、やっぱり、亡くなった方は喜んでくれます

そして、千の風になって、そばにいてくれます

ラベル:

2007-02-16

御利益は、信者さんが持ってくる

僕の亡くなった親父は、商売人だったから、毎年新年に、川崎大師で商売繁盛の祈祷をお願いしてお札をもらっていました
それが、ある年だけ、魔がさしたのか、祈祷をしてもらわなかった年がありました
その年に、大きな不渡りを食らったのです
結果、川崎大師には、なにがなんでもお参りするようになりました



これは、このBlogで書いた話だけど

こちら

高野山の奥之院でもらう紙札を、友達がどのようにお奉りしたらいいか電話で聞いてきたので、適当に(^^;)答えておいたら、言ったとおりにした、次の日の朝一の電話で大きな商談がまとまったなんてこともあります
友達は当然、弘法大師の熱烈な信者になりました




学生の時、生駒の信貴山で新年の祈祷のアルバイトをしたことがあります
知ってる方も多いと思いますが、信貴山では虎の日は特別多い参拝者があって、僕は12年に一度の虎年にお手伝いに行かせてもらいました
信貴山の麓は、知る人ぞ知る、日本一拝み屋の多い土地柄です
3000位あるとも言われてます

で、信貴山でいろいろ教わったのですが
御利益は、信者さんが持ってくる
ということ
坊さんも祈祷しますが、基本は、信者さんの信仰だということです
聖徳太子の頃から祈祷し続けた寺の教えです



長保寺 鎮守堂 (1295) 重要文化財



じゃ、信仰さえあれば、それで間に合うのかと言うと

お札がある、とお札が無いでは
訓練、と実戦
ままごと、と本物
思いこみ、と現実

位の違いはあるんじゃないかと思いますよ

お札があって礼拝すると、神仏の力が、漠然としたイメージでしかないものが、リアルな現実になります

無いと、どうしても、自分勝手な妄想のほうに行ってしまいます

お札には、心がフラフラしないで、神仏にちゃんと繋がるように促す力があるんでしょうね

ラベル: