2007-02-19

シャカにダイバ

シャカにダイバ

という諺を知っていますか
仇敵、最大のライバル、といった意味で使われます

シャカとダイバは、永遠の仇敵です

シャカは釈尊

ダイバとは、提婆達多(ダイバダッタ)という人の名前です
釈尊の身の回りの世話をしていた、十大弟子の中で多聞第一の阿難尊者(アーナンダ)の兄で、釈尊からみると従兄弟にあたります
三逆の罪(教団を分裂させること、仏の体を傷つけること、修行僧を殺すこと)を犯した極悪人として仏典にしばしば登場します

最初は釈尊の弟子であったのが、釈尊に異論をとなえて仲間をつのって教団を離脱して、自分の派閥をつくります(教団を分裂させる)
かなりの霊能力があったと言われています

あるとき、釈尊を妬み、山の上から岩を落とし、釈尊の足の指を怪我させます(仏の体を傷つける)

ついに、釈尊に酒に酔った像をけしかけ踏み殺そうとします
周囲の弟子が死傷しますが、酔像は釈尊の力でおとなしくなります(修行僧を殺す)

それで、大地が割れ、ダイバは生きたまま無間地獄に堕ちたとされています


そのダイバを釈尊はとりなしています
法華経提婆達多品に
ダイバは前世では釈尊に法華経を教えてくれた仙人で、大恩人であると説いています
極悪人でも救われる、という例によく取り上げられる話です


ある時、弟子が、何故ダイバは釈尊に怨みをいだくようになったのか
その前世の因縁を聞かせて欲しいと頼みます

その時、釈尊は次のような話を説いたのです


東ローマ帝国末期の国章「双頭の鷲」


カルダとウパカルダ『仏本行集経』

カルダとウパカルダという名の双頭の鳥がいました

ウパカルダは、自分が眠っている間にカルダがおいしい木の実を腹いっぱい食べるため、起きたときには満腹でなにもごちそうが食べれません

お腹は一つだから

いつもこれを不満に思っていたウパカルダは、あるとき毒の実を見つけました
これを自分が食べれば、同じ身体を持つカルダは死んでしまうだろうと考えたウパカルダは、カルダが眠っている間に毒の実を食べました
案の定、カルダは悶絶して死んでしまいます

しかし当然のことながら、身体は一つなのでウパカルダもやはり死んでしまったということです
「仏説阿弥陀経」の中では、共命之鳥として説かれています



ウパカルダとは、ダイバであり
カルダが釈尊であったのです

ウパカルタは自分が労せずに満腹であることに感謝もせず、食べる楽しみのない事にたいする怨みだけつのらせ、身勝手にもガルダを殺し、浅はかに、自分も死んでしまいます
そして、自分が死んでしまったことを逆恨みし続けるのです


ウパカルダは、永遠の輪廻の中で、ある時は、仙人として前世の釈尊に法華経を教えました

しかし、過去世での自分勝手な怨念が忘れられず、今度はダイバとして釈尊を殺そうとします




ま、これ、今風に、ツインソウルの話です

なんか、キーワードが「ツインソウル」で僕のBlogを検索する人が多いようなので書きました

ツインソウルとの出会いが、「永遠の恋人との出会い」だと思ってるのは、虫が良すぎるってことなんです

え、あの
そういうこともあるとは思いますよ

ですけれど、仏教はツインソウルと出会うことがゴールだなんて考えてないってことです

ラベル:

2006-09-13

ツインソウル5



ツインソウルの謎
多重人格のしくみ
仏陀とイエスの実像

など、この本にはいろいろ書いてありますが
僕的には、これは多種多様な霊能者本とおなじことで、「そんなもんかな」という程度の退屈な説話にすぎません
この手の話は、いろんな人がいろいろ言うんですよ

と言って、まるでデタラメということにもならないわけで、少なくとも飯田先生においては真実であることは間違いなく、つまり、ほとんどの霊感本は、信じるのか信じないのかという次元に止まってしまうのです

別に、この本を信じてもいっこうにかまいませんけど、むしろ、似たような体験をいろんな人がするようになって、それぞれ、自分の体験こそ本当なわけで、諸説紛々になってくるんじゃないでしょうか

霊感の世界の話は、感覚の世界の話なんですから、花の匂い比べ、のようなもので、どっちが本当だと言ったところで、ああそうですかで終わりです

僕は、だから、ロジックがですね、大切だなーと、常々感じてます



で、この本の提示しているロジックは、

心はどこまでも繋がっていて、「究極の光」を含めて全ての心に繋がっている

「究極の光」の価値観で生きること(つまり愛ですけど)に意味がある


といったことでしょうか


この繋がっているということですね、これは、まあ僕的には一番注目するところで、「心はなぜ繋がっているんですか」って聞いて欲しかった
繋がっているから、他人の苦しみもわかるわけで、愛とか慈悲とかいうことも、繋がっているからあるということです

「究極の光」イコール、究極のネットワークです

仏教で言えば、仏性(ぶっしょう)でしょうねぇ

仏性は生きとし生けるすべてのものにあります
究極のネットワークの中心は、自分自身の心です。ですから、10人いれば10の中心があることになります。それで、中心は無限にあります。それが、繋がっています。

たとえて言えば

大きな鏡があって、それが自分の心です。その中に全ての心が写っています。いくつ心があっても、鏡は一つです。でも心はそれぞれ別々です。それぞれの心が皆、自分の大きな鏡でおたがいを写しあっています。

で、向こう側にある心を傷つけたつもりが・・・実は、自分の鏡のなかの心が傷ついてます。つまり、自分が傷を負うのです。ですから、向こう側の心を喜ばせると、実は、自分の鏡の中の心が喜んで、自分がうれしい。

シンプルなんですけど、この鏡を自分で覗き込むのは、つまり自分で自分をみることは、なかなか、できない。五感を通じて、脳内のイメージとして、今の生きている我々は感じるしかない。勝手な妄想やら、自己中やら、なんでも自由にイメージを繰り広げていくこともできるし、本来の姿を知る時もきます

仏教的には、ここには「最高の神」というような存在はなくて、ただ、「よく磨かれた鏡」や「曇った鏡」があるだけです

こういったロジックだけ取り出せば、仏教は哲学ではあっても宗教じゃありません

「よく磨かれた鏡」、たとえばお釈迦様とか阿弥陀様に助けてもらおうと言うなら、宗教かも

それで、なんで鏡ができたのか、ですけど

お前が「魂」と呼んでいるものたちは、みな、お前たちが「宇宙」と呼んでいるものが、生み出したのだ  p84


これを、仏教では自受法楽っていうんですけど。まあ、自作自演で楽しんでると

僕は、誰かが書いたマンガの主人公なんかも、段々と性根が入って、転生して人間になっちゃったり、壁画の龍が転生したりとか、そんな感じでも鏡が増えるのかなー、とか思ったりしてます



この手の本が増えることを願って、ツインソウルについては終わりにします


そう言えば、僕は、一卵性双生児なんです(ホント)
でも、ツインソウルじゃないと思うよ(なんとなく)

ラベル:

2006-09-12

ツインソウル4

「自由」というものには肯定的な雰囲気があるわけですが、実際は、ここらへんから様々な問題も派生するということなんですね

今、我々は自由主義社会に生活しているのですけれど、信仰の自由、言論の自由、経済活動の自由、旅行移動の自由、etc、自由というのはけっこうなもんです
そのうえで、お互い譲り合い、協力して、まあ、とりあえず仲良く暮らす、と
大きな矛盾をはらんだ制度なのかもしれませんが、これこそ、人間の本質に根ざした制度なのではないですか
自由主義社会の矛盾というのは、実は、人間存在の矛盾でもあるのです


で、本題に戻しますが

お前は、みずからの意志でその使命を選び、人として生まれていった p87

これは、「お前は」というところを見落とすわけにはいかないですね
「飯田先生の場合は」ということは言えるのだろうと思います

このような私の経験は、あくまでも私個人の経験にすぎないものであり、人間として生きるすべての方々が、私と同じ経験をなさるのかについては、保証することはできません  p94


と、自らも書いてらっしゃいますが、残念ながら、こうすればこうなる式の、単純な構造ではないということです


人の運命とか宿命ですね、占ってあてることもある程度できるのですが、生まれる時に自分の人生の使命を決めている、あるいは計画してきているとしたら、この世でやることは、もう決まってるんでしょうか

人間に、脳の機能として「自由」が備わっているのに、敷かれたレールを走るだけなんでしょうか





さて、僕は、この、「自由」ということ、そして「使命を選ぶ」ということ、そして生まれ変わっていくということ、これらの事は相互に深く関係があると考えています

人間は、自分の脳が作り出したイメージに基づいて、判断やら思考やらしていきますが、これが、見える前、感じられる前の、本当の世界と違っている場合、やることなすことうまくいくわけがありません
というか、感覚器官を通してしか外界を感じられないのですから、箱の中から回りの世界を観察するようなもので、写りの悪いカメラと、感度の低いマイク、精度の低いセンサーを使って、限られた一部の情報しか知ることができないのです。ですから、ほんとうの世界などわかるわけがありません。それでも、その限界のある情報をもとにして、なんとか箱を運転しているのです。
センサーを経由して加工された、不鮮明な景色を見ながら、まともな運転ができるわけがないのです

それで、自らを傷つけ、他人を傷つけるようなことを平気でする

死んで、素になって、そのことに気がついて、生まれ直して、自ら造った傷を癒したい
愛する人達が、傷つけあわないように教えてあげたい
それが「使命」だと思う

それでも、お互いの行為は複雑に幾重にも絡み合って、簡単に修正できない

新しい人生の計画をいろいろ練って、何回も生まれ変わって、本当の世界に近づいていく、つもりなのだが・・・・

いかんせん、高度に発達した脳は、「自由」にイメージを造り続ける
いろいろな人が、いろいろな計画を持って生まれてくるわけですから、当然ぶつかり合うし、相手のあることですからいつもこちらの都合よく運ぶわけでもない
人生の計画は、いわば紙に書かれた予定表に過ぎなくて、なかなか思い通りにならない
堂々巡りが終わらない

ということではないですか

で、僕は
輪廻の回数がいくら多くても自慢にならない
何回も生まれ変わって、経験を積んでも、それだけでは勘違いを避けることができない
使命を果たすつもりが、大惨事を引き起こしてしまうこともありえる
世界をひっくりかえすような才能があったとしても、勘違いから離れなければ、無意味
と、考えています

それでも、やはり徐々に賢くなります
「自由」なのだけれど、自分勝手な思いこみや、勘違いを減らすことはできます
それを、「学び」と言うのではないでしょうか

死んでから

充分に、学んできたか? p77


と、聞かれるらしいですが、「自由」の副産物である、勘違いが作り出した自分勝手な世界でない、本当の世界に基づいた生き方を学ぶ、ということなのでしょう

そのためには、本当の世界である「究極の光」と繋がらなければなりません
ネットワークの側から人生を見なければなりません

わかりずらい言い方をしないのなら

、です、慈悲、です、あたたかな心、です、共感と深い理解、です


価値があるのは、ただ、学ぶ努力、愛する努力、使命を果たす努力・・・・・この三つの努力だけだ  p80
こちらの世界に戻る時には、その結果は、いっさい問われない p81


注意していただきたいのは、その結果どうなったか、は問われていないのです
成果ではなくて、あくまで、努力したかどうか、だけが問われているのです。大事なところです

まあ、死んでしまえば、完全な世界がすでにあるんですから、結果がどうであれ、どうでもいいですわな

まえのブログで書いてますけど

諸法従本来 常時寂滅相 仏子行道已 来世得作仏

諸法はもとより常に寂滅の相をしている(仏の目から見れば完成された世界である)
仏弟子は道を行じおわって来世に仏となることを得る


てなわけで、別に新発見でもなんでもないんですけどね

「自由」と「愛」を、いかに折り合いをつけるかを学ぶために人生はある

ってことでどうでしょう


続く

ラベル:

2006-09-11

ツインソウル3



悪霊 ですけど

いわば確信犯でして、悪運が尽きるまでは悪事のしほうだい状態かと思います
心の奥底には「究極の光」がある、ということは、それはそうなんですけど、反省して改める可能性は極限まで低いです

で、これどうしてそんな存在がいるのでしょうね


自動かく乱システムが強制的に作動 p117
「時間のひずみ」と「空間のゆがみ」というしくみを、用意しておいた p117
一定レベル以上の学びを積んだ魂の人生でしか、作動しないようになっている  p119


ということらしく、つまり、耐えきれないような不幸な出来事は、自作自演だというご説明です
とんでもない光さん達だなー、ということなんですけど・・・・

悪いけど、なーんか、幼稚なこじつけです
このへんの幼稚さが、どうも、この本の限界かなー

悪霊はいない、と言ったところで、このシステムによって生じることがあるではないかと反論できますね
でなきゃ、善良な幼稚園の保母さんが、どんなやんちゃな奴でも、この子はほんとうはいい子なんです、とかばうようなニュアンスかしらん



僕に言わせれば、これは、「自由」ということの負の側面ではないかと思うのです

ご自分のことを考えてみてもおわかりのように、なにかをシェアすると表現してみたところで、そのシェアの意味はですね、皆さんてんでんばらばらです
たった一つのリンゴがあったとして、それをみんなで見ても、見える角度はそれぞれ違いますから、各自の印象はすべて違います
ある音楽を聴いても、受ける印象は各自それぞれちがいます

実際、本当のところ、各人てんでんばらばらの印象を持って生活しています
似ているものはあっても、同じものは絶対にありません

で、ネットワークで繋がって初めて、相手の印象がわかります
自分はものごとの表側から見ていたのを、あの人は裏側からみていたんだとか

ネットワークがあるから、共感や同情をする


ということなんですけれど、心は、なににも束縛されず、「自由」なんです

台所の包丁で、キャベツを刻むこともできれば、人を殺すこともできます
ビニールひもで古新聞をくくることもできれば、人の首を絞めることもできます

なんだって、やろうと思えばできる「自由」があるのです

生命進化の過程で、脳が発達して、受ける印象を脳内に構成する能力が高まって、つまり、自由度が増してきたと
ここに、誤謬や、妄想の生じる理由があるのです

で、自分が常に一番正しいと固執したりしてると、だんだんと悪事が蓄積されて、引き返せなくなると

仏教では、大自在天という、まあ、自由の神様ですね、これは、大魔王です
全ての神々が仏を賞賛するのに、大自在天だけは、我は三界の王である、といって従わなかったのを、お不動さんがこらしめる、なんて説話もあります。この大自在天は、インドではシバ神です
余談ですが、オウム真理教の本尊はなんだか知ってますか


我々は、眼耳鼻舌皮膚から情報を取り入れて、脳で再構成して、それで自我を維持していますが、この、脳で再構成する能力が向上すれば、妄想を作り出す能力も向上してるわけです
この、再構成能力の向上を「自由」の向上と考えることもできるわけです
で、高等生物ほど、心の「自由」があるわけですが、勘違いの危険も増大すると
そして、自分勝手な妄想に執着することもおきてくると

とまあ、そんなところです


続く

ラベル:

2006-09-10

ツインソウル2


スウェーデンボルグとか丹波哲朗などの霊界通信や、シルバーバーチやバシャールなどのチャネリング、あるいはヘミシンク、など、数え上げたらきりがない程、つまり、死後の世界を書いた本があります

また、仏教で言う極楽と地獄、キリスト教の天国と地獄、あるいはイスラムやヒンドゥーやその他諸々の宗教にある死後世界の記述

どれもが似ているようで、違うようで、いい加減なのか、本当なのか・・・・・唯一一致するのは、死後にも意識があるということでしょうか
そして、今我々が生活している人間社会だけで価値観が完結しないで、死後にも生きている時の生活態度などが影響するという考え方も、どうやら、一致した見解のようです

「死んだら終わりで、死後の意識などない」というお説は、僕的には関係ない議論で、まあ、死んでからあわてるだけだろうとしか思えませんが、根強い妄想と言えば妄想だし、在るとか無いとか、いつまでも平行線をたどる議論といえばそういうことでもあります

ですけれど、困ったことには、死後があるという立場の人達のお説は、どれも、かなり違うのです
自分に都合のいいお説を信じ込めばいい、という考え方もあろうかと思いますが、ほんとのところどうなんだという疑問も湧いてはきます

ここのところはですね、仏教的には解決可能です
「自分で体験すればよい」ということです
冷暖自知とか自灯明法灯明とか言います
そのために、仏教には多種多様な瞑想法があります

で、手軽な方法として「光の瞑想」を右肩をクリックしていただければ、やり方が書いてありますから、試してみてください
これは、検証可能な方法ですから、こじつけて言えば科学です。飯田先生みたいに死にかけてみる必要はありません
飯田先生は
科学を越えた p7
そうですが、できれば、再現性のある検証可能な体験をぜひ次回はお願いしたいですね


この著書で、光との対話は227ページある本のうちの100ページほどです(p62ーp160)
せっかく生死の境をさまよったんですから、もうちょっといろいろ聞いてきて頂きたかったです。こういう分量で意味深なことを述べると、解釈やら評価やら、だんだんと派生してきて、オリジナルの何倍もの分量になってきて、わけがわからなくなってくるのが歴史の教訓です

ですが、話題として取り上げられるのは、認められている証拠でもあるわけで、ここで回をわけて少しずつ論じてみようかと思います



まず、臨死体験ですけど、これはもうよくあることになってしまいました
救急医療の発達したせいでしょう。おそらく医療の先進国では増え続けると思われます
それがただ、体験することは千差万別なのです

僕も直接臨死体験をした人の話を聞いたことがありますが、残念なことに人によってかなり内容に違いがあります
夢でも見たのかと言うと、夢とは明らかに違うリアリティーがあると言います
で、まあ、人によって違う体験をするんだというあたりを、つまり、一つの体験を絶対視できないという事実は踏まえておく必要があります


さて、本文に入りますけど


私の魂は、同時に、あらゆる存在と「つながって」いました p65

これなんか、僕と一緒じゃん

飯田先生の「残存思念 p171」という表現も、実はここらへんから解き明かされたりします

自我というか、自分という意識は表面的なもので、その根底は全てに繋がっているネットワークです

で、その表面的な自分という意識は、かなりの勘違いやら執着やらにまみれていて、肉体があれば生きてる人でしょうけど、そのまま死んでしまえば、さまよえる亡霊と同じようなものです
で、この自分という意識は、ネットワークにはそもそも時間とか空間とかいう仕組みがないので、ネットワークの側から見ると、時間的空間的な制約を離れて同時に存在します

だから、残存思念という表現で言い切ってしまっても、それは、それなりの意志と思考力をもった存在です
と言うか、残存思念であっても、その本体と繋がっています
ですから、語りかけることで説得もできますし、つまり、慈悲の心を繋いで、供養して成仏させることが可能です

「悪霊」など、けっして存在しません p143

ということなんですが、まあこれは気休めで、有害な残存思念というか、伝統的な表現で言う、悪霊はいる、と僕は感じてます



続く

ラベル:

2006-09-09

ツインソウル1


ツインソウルー死にゆく私が体験した奇跡  飯田 史彦 出版社: PHP研究所 (2006/03)

僕の実感と、この本に書かれていることに特に大きな違いは無いみたいです
まあ、ちょっと違うかなという所はありますけれど

皆さんにも是非読んでいただきたいし、僕としてもどんな風に読んだか書き留めてみることにします

僕としては、もうめんどくさい議論はやめにして、この本の成果あたりを基礎にしてその次のことを考えていくべきではないか、とか思いますね

左は、去年の5月14日に和歌山に講演にいらっしゃった時に撮らせていただいた写真です(右が飯田先生)

いろんな造語を造られるみたいで、「プチ鬱」など、よく使わせていただいてます

その講演の時の印象は、ご自分の世界観を懸命に構築されているようで、既存の概念とか述語を使わずに、いかに自分なりの世界を言葉にするかということに興味があるんだなあ、というものでした

オウム真理教事件以来、「宗教でない」という言い方は精神世界を語るときの決まり文句のようになっていて、飯田先生もそのことによって、お医者さんとかの生死にかかわる現場の人達に支持されているようです

僕はもともとはお寺で生まれたわけでもなく、自分で好んで坊さんをしているんですけど、まあ、自分が宗教をやっているという自覚はないです(汗)
一応、天台宗ですけど、幸い檀家もほとんどないですし、「天台宗ではこう考えるからこうしなさい」などと言う必要も無く、感じるままに毎日生活しています


ただ、今ある宗教で、飯田先生のご本と一番矛盾がないのが、天台ではないかと思います

誇り高く生きること・・・つまり「自分は、愛そのものなのだ」という自信を決して失わないこと p149

そういう概念を、天台では「本覚思想」と言ってきました

ここのところは、僕は真言宗も知っているんですけど、真言ではちょっと違います
「本来覚っている」とは言いません
覚りに向かって修行する、という立場です。これを帰命(きみょう)と言うんですけど
まあ、似たようなもんですけど、「本来覚っているのを思い出す(本覚)」のと「不完全が完全に向かって歩いていく(帰命)」は、やはり違うといえば違います

南無(なむ・本覚)と[口奄](おん・帰命)です

本質に戻るのか、行くのか、まあ、考え方の立場が違います
戻るという考え方から、全ての生物に仏性があるのを大切にする、大衆仏教が生まれてきました
行くと考えると、厳しく自己管理して修行する、専門家仏教になります

さて
トランスパーソナルなコアな部分だけ、ご自分で納得すれば、普通の生活をするには間に合いますから、わざわざややこしく考える必要もありませんが、ちょっとした考え方の違いが、実は、おおきな隔たりを生むこともあるってことですね


続く

ラベル: