日本の人権思想の由来
各家には仏壇や神棚が安置されていて、朝夕の礼拝や年中行事や年忌の法事がある。こうした古来の習慣は親から子へと伝えられてきたものであるり、とくに学校で教わることではない。学校ではその大切さを説くだけだが、それで十分だった。
戦後、修身の科目はなくなり、学校で「祖先を尊べ」と教えることはなくなった。憲法による宗教教育の禁止のせいで、一言たりとも「祖先を尊べ」と教えることはなかった。核家族化が急速に進んだため、どの家にも仏壇があるということがなくなり、祖先を尊ぶ習慣を身につけないまま成長してしまう子供たちが増えた。
同じ敗戦国でありながら、連合国に対して憲法だけは自前でつくることを押し通した西ドイツでは、その基本法(憲法)のなかで、宗教を学校の必修科目と規定した。宗教だけは教えてはいけないと定めた日本の憲法と正反対だ
人間には必ず何か尊ぶべきものがある。何か尊ぶべき価値があるはずである。それを教えるのが教育の使命である。少なくとも文明国の人間ならば、欲望のままに生きてよい、などとは教えないはずである。
現代の学校では、「利を権ること」を尊べと教えている。祖先を尊べとは教えない。神仏を尊べとも教えない。なによりも「人権を尊べ」と教えている。
これは宗教教育である。しかも、史上最低の宗教教育である。何であれ「利」を「権ること」を至高と崇めるような愚劣な宗教がかつて地上にあったろうか。それが戦後の日本に誕生した。かくして現代日本人は「人権」よりほかに尊ぶものを知らない。
これを「人権教」と呼んで差し支えない。今の日本には「人権教」という新宗教が猛威をふるっている。
憲法第十一条は、「国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない。基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与えられる」となっている。
この条文をよく読むと、日本人には不可解な表現がある。お気づきだろうか。それは最後の「与えられる」という言葉である。
つまり、基本的人権なるものは、誰かから日本国民に与えられたものという表現になっているのである。では、誰が与えたのか。
主語があいまいでも通じる日本語の落とし穴のような感じだが、マッカーサー草案並びに英訳では「コンファー」という動詞が使われている。これは贈り物や爵位などを授けるといった場合に用いられる語である。どこか高いところから授けられる、というニュアンスの語である。
条文には「誰によって」ということはどこにも記されていない。「一体誰から与えられるのだろう」と、素朴かつ賢明に考える日本人がいたら、不可解に思えて当然でしょう。
それは誰か。いくらマッカーサーが憲法草案をつくったとはいえ、基本的人権なるものまでマッカーサーから与えてもらったと考える日本人はいないだろう。
答えは歴然としている。それは神(ゴット)である。
日本国憲法には神の名こそ記されていないものの、「与えられる」という表現のなかに、キリスト教の全能の唯一神がしっかり顔を出しているのだ。
これが宗教的聖句でなくて何であろう。そして、それを尊べと教えることが宗教教育でなくて何であろう。
「人権」の由来と根拠を知っている欧米人と違って、人権教の信徒たちには、祈りも感謝もない。空気のように当然あるべきもだと思っている。だからほんのわ ずかでも、それを批判し、行く手を遮るものにはヒステリックに抵抗する。しかし、「利=欲望」の追求(要求)を空気のようにあたり前に感じる社会とは、果 たしてまともな健全な社会といえるのであろうか。
引用終わり
教育勅語と言うと、引く人もあると思うけれど、見てください
御自分で判断してみてください
ここで言っていることを否定するってことは、これ、亡国以前に、廃人だろうなぁ
教育勅語絵本[FLASH]ver1.5
あすの日本を考える会
ラベル: 時事問題