長保寺堅海一筆大般若経の奥書について

和歌山県立博物館 学芸委員 竹中康彦

筆者はかつて、長保寺に伝来する室町時代初期の大般若経二一八帖について簡単な紹介をしたことがあるが、その際には紙幅の都合もあり、各巻の書写の年月日の整理にとどまり、奥書についてはほとんど紹介することができなかった。
この大般若経は、長保寺住僧の阿闍梨堅海が、応永六年(一三九九)一一月一日から応永一三年三月二一日までの六年以上をかけて、長保寺護摩堂において書写したものである。もとは巻子装であったが、延享五年(一七四八)に折本装に改修され、十帖入の紙帙や十帙入りの塗箱が作られた。そのうち、一部が現在に伝わっている。
巻末の奥書については別表の通りであるが、現存する巻からみると、巻百まではあまり記されなかったようであるが、それ以後の巻についてはほぼ全巻にわたり記されている。また、書写の年月日がほぼ必ず記されていることから、書写の進捗状況を知ることができる。それによると、若干のばらつきはあるものの、二〜四日の割合で一巻を書写していることがうかがわれる。
奥書にみえる人名は、堅海のほか、覚照禅師(巻二八一〜二九〇)と良重阿闍梨(巻六〇〇)であるが、残念ながらこの三者については、現在のところ詳細は全く不明である。全巻書写の動機についても、「入壇之尅」以来の大願であったというほか不明である。
一四〜一五世紀における長保寺については、伽藍整備の重要な画期であり、長保寺の立地する浜仲庄に対する高野山金剛心院の実質的な支配が強化された時期でもある。さらに、一四世紀後半には在地支配に影響力を及ぼしてきた湯浅氏が没落し、替わって守護畠山氏が台頭することになった。このような政治的な情勢の変化と、長保寺に伝来する文化財とをいかに関連づけるかは、今後の課題として、ここではひとまず紹介の筆をおきたい。


(注)

(1)拙稿「長保寺伝来の不断念仏式と大般若経について」(『和歌山地方史研究』
  二二、一九九二年)。
(2)近代以前の長保寺護摩堂の位置については、拙稿「長保寺の伽藍に関する二、
  三の考察」(『和歌山県立博物館研究紀要』三、一九九八年)、参照。

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