般若心経 一巻
紙本墨書 縦26.0 横42.2
奈良後期(8世紀)
般若心経とは、般若経典群の精髄を説いた経典である。本品は褐麻紙に書かれており、淡墨で界線をめぐらしている。慈覚大師(円仁)筆という伝承があるが、「隅寺心経」と呼ばれる奈良・海竜王寺で奈良時代後期初めに書写された一連の般若心経(弘法大師筆という伝承も存在する)である可能性が強い。本文中に二箇所三文字について切貼の修正が施されているが、これは書写時期をそう降らない時期のものであろう。
なお、表紙や見返しの装飾・本紙裏打ちなどは江戸時代に行われたものである。宝物目録などによれば、貞享2年(1685)に、和歌山の林道拙なる人物が、長保寺に寄進したということである。
慶徳山長保寺所蔵隅寺心経について
この経巻は、奈良時代中ごろに書写された隅寺心経と呼ばれる一連の般若心経のうちの一巻である。
隅寺とは、現在奈良市法華寺町にある海龍王寺の別名であり、平城京内の藤原不比等の邸宅の東北隅にあったために、このように呼ばれていたようである。寺伝によれば、僧玄ぼう が入唐する際に、求法の志を遂げて安穏に帰朝することを願って光明皇后が造立したということであるが、出土する瓦をみると寺院そのものはそれ以前から存在していたことが判明する。 その海龍王寺において、各巻同様の体裁で書写された般若心経が隅寺心経であり、現在のところ五十例前後の類巻が各地で確認されている。海龍王寺所蔵経(奈良市指定文化財)や根津美術館所蔵経のように、各一紙に一部書かれたものを合わせて十部以上つないだ遺巻もあるが、とりわけ重要なものとしては神谷正太郎所蔵経(国指定重要文化財)がある。これは本文の末に「天平勝宝七年料」(755年)の墨書があり、隅寺心経の書写年代を明らかにする唯一の遺品となっており、その他の僚巻もこの年代の前後に書写されたと考えてよいであろう。これらは奈良時代中ごろに度々行われた心経会の際の写経作善の遺品であると思われ、このように般若心経を多数書写することを多心経と呼ぶこともある。書風からみて、この経巻は当時国家事業として行われた写経事業を担当した写経所の写経生によって書写されたものとされ、本文のテキストには唐・玄奘訳のものが用いられている。なお、隅寺心経は空海(弘法大師)が海龍王寺で勉学中に毎日百巻ずつ計千巻書写したものであるという伝承があるが、これはこの心経がいずれも謹厳な書風を持つことから後世に創作されたものと考えるべきである。
隅寺心経はそれぞれがほぼ体裁を同じくしているが、細部においてはやや相違している部分がある。諸巻における差異を列挙するならば、(一)本文末に読誦功徳文三行を付して全文を二十行に書写するものと、本文末の読誦功徳文がなく全文十七行に書写するもの、(二)内題を主題のみとするものと、首尾題ともにあるもの、(三)題名を「摩訶般若波羅蜜多心経」と掲げるものと、単に「心経」と略すもの、(四)文中の「無」字を「无」字に書くものと、そのまま「無」字に書くもの、(五)料紙に黄麻紙を使用するものと、褐麻紙を使用するもの、などの点を掲げることができる。そのほか、一行十七字で書写する原則にはずれる行の有無・位置が諸巻によって異なる。
さて長保寺所蔵の隅寺心経であるが、本紙は縦26.0p横42.2pで、褐麻紙(橡すなわち団栗のかさを煮た汁で染めた麻紙の一種)に淡墨で界線を施している。本文末には読誦功徳文がなく全文十七行に書写する。内題は首題のみで「心経」とのみ書す。また、文中の「無」字は「无」字を用いる。一行十七字の原則は貫徹され、例外のある行はみられない。書風は他の類巻と同様に中唐の写経にならった謹厳な正楷であり、写経事業の最盛期らしく均整のとれた円熟した筆である。なお、第十三行の第三字「大」と第六・七字「是大」の文字については修正のための切貼がなされているが、これは書写の時期をそう降らない時期のものである。現在の表装は、亀甲文の綾地の表紙、桧垣の綾地に金泥を貼った見返し、金銀箔をちらした裏打ちと軸付紙を付け、軸には黒檀の丸軸を用いる。これらは、いずれも後世のものである。
伝来は付属の寄進文書によって江戸時代前期の貞享4年(1687)3月19日に林道拙という人物が二世の安楽を願って長保寺に奉納したことが判明するが、注目すべきは本紙冒頭に貼附された極札(古筆家の鑑定書)に依拠して、本品が慈覚大師(円仁)の真跡としている点である。前述したように、隅寺心経は弘法大師筆という伝承が一般的であり、慈覚大師筆という伝承をもつ事例は長保寺所蔵経が唯一である。おそらく、天台寺院であった長保寺にこの経巻が奉納されることを前提にして、真言宗の開立者空海ではなく延暦寺第三世座主円仁の名が仮託されたものであろう。さらにこのことは、寛文11年(1671)に亡くなった徳川頼宣による長保寺の真言宗から天台宗への改宗を、あらためて資料の上で裏付けるものになっている。
般若心経は霊鷲山(りょうじゅせん)で説かれたと考えられています
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