長保寺大門 附 扁額
国宝 明治33年4月7日指定
三間一戸の楼門で屋根は入母屋造、本瓦葺である。
大門は寺蔵の棟札写に記される「再営由来」によって、嘉慶2年(1388)に後小松天皇の勅宣をうけ、寺僧の実然が同年に建立したことが知られる。 嚔暑N宸ノはこの造営の大工が、藤原有次と記されているが、嚥L録抜書宸ナは本堂造営の大工も同人の名が記されており、同一人とすると年代が異なり不審である。
現在、門には扁額が掲げられているが、この扁額は紀州侯の菩提寺になってから藩祖頼宣が李梅渓に命じて模写させたものであり、当初の扁額は宝蔵に収納されている。記録によれば扁額は、妙法院二品親王尭仁の真筆と伝え、裏書に応永廿四年六月一日の刻銘がある。
額には慶徳山長保寺と二行に分ち書されているが、当初は囃キ保寺宸フ三字のみ同様の書体で記されていたような痕跡が認められる。額面には鋲止めの痕があり、旧文字も風蝕差からどうにか辿り得る。
大門は元和7年(1621)に塔頭最勝院の恵尊が修覆、さらに天和3年(1683)2代藩主徳川光貞が修理を加えている。それ以来紀州徳川家によって、明治まで維持修理が行われていたようである。
この大門は形態のよく整った点においては代表的な楼門の一つである。
組物はもっとも正規な三手先で、3番目の斗 は尾 の上にのり、軒を受け、丸桁下に軒支輪をかけ小天井を造っている。
建物は和様を基調とした形でその細部も本堂、多宝塔に及ばないが、室町時代初期の特徴をよくあらわしている。
長保寺の入口に立つ姿はよく整い楼門中の傑作の一つである。
明治43年に解体修理が行われており、記録の不備から修理関係の詳細は明らかでないが、現状をみると、組物、軒廻りに当時の補修材が多数認められる。
清文堂「和歌山県の文化財 第2巻」より