長保寺鎮守堂
重要文化財 大正3年4月17日
本堂に向かって右の小径を登ったところにある一間社流造、桧皮葺の小さな社殿である。
鎮守堂はかつて鎮守八幡宮、あるいは八幡社と呼ばれていた。この建物の建立年代については確証を欠き、寺伝では本堂、多宝塔と同じ時期の建立というが、享保10年(1725)の調書には、典據が明らかではないが永仁3年(1295)の再営としている。
中世の修理のついては判然としないけれども、蟇股には当初のもののほか二種あって、室町時代初期及び末期ころに少なくとも二度の修理が行われたようである。
近世の修理について、寛永6年(1629)、天和3年(1683)、宝永3年(1706)等があり、明治6年には屋根を瓦葺に改めたが、昭和3年の修理で現状のように桧皮葺に復している。 その後、昭和36年に災害復旧として小修理を行っている。
この建物は昭和3年の修理で、現状変更を行っているが、各身舎柱の足元に旧縁繋の痕跡があり、また、脇障子と実肘木との納まりにも不審な点があって、旧縁については現状とやや異なる点が認められる。
また、地 に九本、打越 に二本の面取りのものがあって、正面向拝部分は肘木が面取りになることから考えれば、 も面取りではなかったかと疑われるのである。
この建物は斗 は和様三ッ斗、正面の中備えに蟇股、背面には間斗束を置くが、妻飾りは虹梁大瓶束構えにして束の足元に渦巻絵様の笈形を付けているのは珍しい。
正面は格子戸を引違いに装置し、内陣正面は板扉構えとし、正面上には優れた蟇股を飾っている。
軒は繁 であるが、棟飾りは瓦積にして一角の珍しい鬼瓦を納めている。
清文堂「和歌山県の文化財 第2巻」より