徳川家が差別を作った、という説がある。そうかもしれぬと思う。あるいは、元々あった差別感情を支配に利用したとも言える。ただ、ここで一つ反論したい。士農工商の頂点の紀州徳川家の歴代藩主は、藩祖の南龍公から江戸時代ずっと、一人残らず側室の子なのである。皆様もご存じの、八代将軍吉宗も側室の子である。父親は2代藩主光貞、母親は実は素性が知れない人である。先ず名前を、「お由利」とも「お紋」ともいう説があり、よくわからない。町医者の娘という説、百姓の子という説、西国遍路の行き倒れの子という説もある。つなげて考えれば、どこかの食い詰めた百姓女が土地を捨て娘を連れ遍路に出て行き倒れた、それを親切な町医者が看病したが亡くなった、残された子を養女にした、美しく育った娘がお城に上がった、というあたりか。光貞という人は、そういう事情の人を寵愛して子をなした。それが吉宗である。差別のどうのというこだわりは微塵もない。吉宗は、そのままスルスルと将軍になる。どこにも差別はない。
紀州藩では、正妻となる人は大体皇族である。でなければ将軍家の姫君である。この人たちは、江戸屋敷に住んでいて、子をつくらない。藩主の母となる側室達の出身は様々である。あまり知られていないが、紀州藩の江戸屋敷にも大奥があった。正妻を御簾中(ごれんちゅう)様といい、子を産んだ側室を御部屋(おへや)様という。江戸城と同じ、老女という役職もあった。御簾中様達は、いわば徳川家の格式を示す飾り物の様な立場だったかもしれぬ。
長保寺には紀州徳川家の廟所があるが、御簾中様の廟所は藩主達の廟所のある山の中にある。全部あるわけではない。別の寺にある場合もある。お部屋様はというと、この山の外に墓がある。これも全部あるわけではない。自分の子である藩主が先に亡くなった場合など、里に帰される場合もあった。藩主の母でありながら、どこに墓があるのか分からない場合も珍しくない。ここらあたりは、全くの差別である。実は、大河ドラマがあった時、NHKが吉宗の母の墓を探した。結局見つからなかった。記録では江戸にあるということだったが、明治政府の徳川家対応策の一環で墓所が縮小された際、恐らくは破壊されてそのままになった様である。
徳川家は、身分差別の最後のしわ寄せを家庭に持ち込んでいたともいえる。身分差別によって成り立つ社会が、その頂点に立つ者すら凍り付かせていた。
しかし、 殿様は無罪だと言いたい。吉宗は将軍になったが、母親の墓は失われて無いのである。吉宗の胸中を思って頂きたい。藩主に差別の心が無くても、家臣団や取り巻きが差別をするのである。中心になる人物と、その取り巻きは、分けて観察する必要があるということを言いたい。
98/10/24 |