舎利礼

 

舎利礼 しゃりらい

一心頂礼 万徳円満 釈迦如来 真身舎利 
いっしんちょうらい まんとくえんまん しゃかにょらい しんじんしゃり

本地法身 法界塔婆 我等礼敬
ほんぢほっしん ほうかいとうば がとうらいきょう

為我現身 入我我入 仏加持故 我証菩提
いがげんしん にゅうががにゅう ぶつかじこ がしょうぼだい 

以仏神力 利益衆生 発菩提心 修菩薩行
いぶつじんりき りやくしゅじょう ほつぼだいしん しゅうぼさつぎょう

同入円寂 平等大智 今将頂礼
どうにゅうえんじゃく びょうどうだいち こんじょうちょうらい 


真言宗、天台宗、禅宗、浄土宗など、ひろく日本仏教各宗派でつかわれるお経です
短くて、リズムもよく頻繁に唱えられます

中国のお坊さんが作ったもので、お釈迦様がこう言ったというのがお経だという厳密な意味では、お経ではなく創作された偈文です
作ったのは諸説あるようですが、「入我我入」「加持」といった密教独特の概念が盛り込まれていますから、不空とするのが妥当でしょう
不空の生まれ変わりが空海ということですから、密教的解釈が正統派ということになりそうです
禅、浄土など、密教以外でも唱えられるのは、比叡山からの密教の流れがあるからでしょう

ネットで検索しますと、いろいろな人が、様々な解釈をしているようで、僕も、こういう解釈が本質に近いんじゃないか、という説を書いてみたくなりました
お経の解釈は、何十回、何百回と唱えているうちに、自然と会得する部分もありますが、大雑把な意味は知っておく必要がありますので、大まかに意味を書いておくことにします


舎利とは、お釈迦様の遺骨のことです

 


インドのデリー国立博物館にある仏舎利

前のケースに入っているのが、お釈迦様の遺骨で、後ろの丸い形の物がソープストーン製の舎利容器です
実はこれ15年前の画像で、1997年からは、下のように仏舎利だけを綺麗な塔に御祭りして展示しています
このケースはタイからの寄贈品です

中央部分を拡大すると



この舎利はネパールのルンビニーの近くのピプラワというところで発掘されたものです
実際の舎利の実物は、こちらと、あとコルタカの博物館にあるらしいです
コルタカは何回か行きますが、まだ実物は拝観していません

お釈迦様を荼毘にした時の灰も貴重だとされ、パトナ博物館にはバイシャリから発掘されたものが展示されています
バイシャリの灰はクシナガラから分けられたものです

仏遺灰と容器 パトナ博物館

 

こんな感じで展示されています


きわめて厳重に管理されていて、特別に依頼して、責任者に鍵をあけてもらわないと拝観できません
写真は特別な許可をもらって撮影したもので、おそらく写真は日本ではこれだけです


お釈迦様の舎利は、アショカ大王によって84000に分骨され、インド全土に塔をたてて御祭りされました
その塔をアショカピラーと言い、サールナートにあるアショカピラーの飾りが現在のインドの紋章です


仏舎利を礼拝供養することには絶大な功徳があり、その功徳をインド全土に広めるため84000もの数に分骨して立派な塔を建てて礼拝できるようにしました

その塔は今でもインド全土にかなりの数が残されていますが、実際に仏舎利が確認できた塔は数か所だけです

仏滅後、仏教の最終的根拠は仏舎利となりました
アショカ王は、この仏舎利を分布してストゥーパを各地に起てましたが、その第一塔はどこにあるかご存じですか

霊鷲山の、釈尊の香室の上の山頂です
法華経で釈尊は、常に霊鷲山にいると明言し、滅度の後も衆僧と共に霊鷲山に出現すると説いていますが、その香室の背後の山頂を利用して、山全体がストゥーパの様な感じでアショカ第一塔があるのです

霊鷲山のパノラマ写真
左の山頂がアショカ第一塔、右端に釈尊の香室が見える


釈尊の香室遠望

 

法華経に見宝塔品というのがあって、宝塔の中にお釈迦様と多宝如来が並んで座って説法するのですが、法華経が説かれた霊鷲山にアショカ第一塔があることから、仏舎利信仰が進化したものであることを窺わせますね


法華曼荼羅図 絹本著色 (中央部分) 江戸中期(18世紀) 長保寺蔵

 

お釈迦さまへの信仰の歴史の筋道を考えると


実際に生きて説教している釈尊-->仏滅-->涅槃-->経典結集-->舎利-->舎利塔-->塔そのもの-->理念としての塔-->(法華経、大日如来、仏像への信仰など)

具体的なものから、抽象的なものへと変遷していきます
仏滅後もホトケとしての本質が失われないなら、礼拝の対象としてのホトケが求められることになり、それが、舎利への信仰の始まりで、舎利を祭った塔になり、塔そのものになり、理念としての塔になり、法華経で象徴的に説かれ、神格化されて大日如来になる、と

経典を読誦するだけでは、宗教感情は満たされない、ということですね
仏舎利塔が起源ですから、塔への信仰は、仏像への信仰よりも古くからあります

舎利を拝むとどうして絶大な功徳があるのか、ということが舎利礼に書かれています

四つに分解出来ます
一心頂礼 万徳円満 釈迦如来 真身舎利

いっしんちょうらい まんとくえんまん しゃかにょらい しんじんしゃり

一心に頂礼す、万徳円満なる釈迦如来の真身舎利を
本地法身 法界塔婆 我等礼敬
ほんぢほっしん ほうかいとうば がとうらいきょう 

本地である法身の法界塔婆を、我ら礼し敬って


為我現身 入我我入 仏加持故 我証菩提
いがげんしん にゅうががにゅう ぶつかじこ がしょうぼだい 

我が現身をもって入我我入し、仏の加持の故に、我は菩提を証す
以仏神力 利益衆生 発菩提心 修菩薩行
いぶつじんりきりやくしゅじょう ほつぼだいしん しゅうぼさつぎょう 

仏の神力をもって衆生を利益し、菩提心を発し、菩薩の行を修す
同入円寂 平等大智 今将頂礼
どうにゅうえんじゃく びょうどうだいち こんじょうちょうらい

円寂なる平等大智に同入し、今まさに頂礼す



  1. 一心に頂礼す、万徳円満なる釈迦如来の真の身である舎利を
  2. (舎利の)本地である法身の法界塔婆を我ら礼し敬って、我が現身をもって(法界塔婆に)入我我入し、仏の加持の故に我は菩提を証して
  3. 仏の神力をもって衆生を利益し、菩提心を発し、菩薩の行を修す
  4. 円寂なる平等大智に同入し、今まさに頂礼す

偈文の意味を明らかにするのに、学問的に言えば、サンスクリットとチベット訳を探し出し、比較するのが普通ですが、この舎利礼は元々が漢文ですから漢字の意味を考えることしかできません
「入我我入」「加持」と、密教独特の言葉がある以上は、密教的な解釈をしなければならないのであって、あんまり独創的なのは、わかっているようで、わかっていない、ということになります
「神力」という言葉もありますが、これは、法華経神力品にもある言葉で、大乗仏教全般にある概念です


1.で、お釈迦様の舎利を頂礼する、と言っているのですが、舎利礼は本物の仏舎利がなくても、お墓とか、斎場とか、骨のある場合に使われることが多いです
あと、御札の祈祷などにも使われます
それは
2.で、舎利が、その本地である法身の法界塔婆に普遍化して、それを礼敬するからです
本地というのは、実体とか本質とかの意味で使われ、密教では本地垂迹説として、日本古来の神様の本体は仏や菩薩であるという意味でも使われます
その本地が法身だということなんですが

法身とは
仏陀としての本質が法身(ほっしん)
修行の成果として仏陀となったのが報身(ほうしん)
衆生の願いに応じて現れた釈尊が応身(おうじん)
で、同じ仏陀であっても、その性格を、本質・自利・利他と三種類に分けることができるという見方を三身説と言い、その法身ですね

法身が法界塔婆だと定義するのですが、こういうところから、塔婆の開眼や、御札の開眼の時に使われるようになってきたわけです
法界塔婆は、密教的に言えば、大日如来の標識(三摩耶)です

法界塔婆の具体的な形はこうなります
長保寺  国宝 多宝塔



これは代表例で、木札や紙の塔婆は、この塔を簡略化したものです

お釈迦様が入滅して、火葬され、骨が残ったのですが、その骨の持つ意味の本質がお釈迦様の意味の不滅の本質であり、それが、時間や空間を超えた概念として抽象化され深化していきます
密教は、お釈迦様の意味を抽出して深化し、仏像や標識や真言として再編成します
そのことによって、お釈迦様は普遍化され、時代を超えた存在になります

お釈迦様の存在感が感じられるから、密教が必要とされた、ということになると思います

 

2.(舎利の)本地である法身の法界塔婆を我ら礼し敬って、我が現身をもって(法界塔婆に)入我我入し、仏の加持の故に我は菩提を証して

法身の法界塔婆」というのは、理念として想定されるものです
ですから、眼の前に、これは法身の法界塔婆である、と規定されたものが存在すれば、それが「(舎利の)本地である法身の法界塔婆」ということになります

わざわざ法界とことわっているわけで、仏舎利の実物を祀った仏塔を指しているのではありません
あくまで、理念としての塔です

ですから、多宝塔や、お墓にある卒塔婆、祈祷札、など、塔の形をしているものは、すべて法界塔婆として礼拝することができることになります
簡単に言えば、木の棒を地面に立てても、砂の山を作っても、それが法界塔婆だと言えば法界塔婆です(弘法大師は子供のころ、戯れに砂山をつくり、子供たちで仏塔として礼拝して遊んだそうです)
密教では、いちおうのけじめをつけるため、開眼作法などをして、一般の塔と法界塔婆を分けます

それで、「仏の加持の故に」という部分が必要になってくるわけで、どんな立派な塔であっても、作法どおりに拝んでも、仏の加持がなければ、ただの物質です

「入我我入」というのは、密教の瞑想法のひとつです
(ホトケが)我に入り、(ホトケに)我が入る
のですが、眼の前の、物質としての塔に我が入ってもしょうがないのです
それで、「仏の加持の故に」という一節がなければ、魂が入りません

「加持」は、弘法大師が「加持とは、如来の大悲と衆生の信心とを表す。仏日の影、衆生の心水に現ずるを加といい、行者の心水よく仏日を感ずるを持と名づく」と明確に定義しています
天台も密教ですが、別にこれといった定義はないですから、弘法大師の定義を密教の定説としていいと思います
日の光が水面に映る様子を加持にたとえたのですね

で、どうすれば加持が得られるか
これ大問題です

仏舎利のお経ですから、ここはお釈迦様の加持の話になるのですが
結論を言えば、一方的に無条件に加持してくれています

法華経如来寿量品の最後の部分に破地獄偈というのがあります
これを唱えると地獄も破れるという偈文です

毎自作是念 如何令衆生 得入無上道 速成就仏身
まいじさぜねん いがりょうしゅじょう とくにゅうむじょうどう そくじょうじゅぶっしん

つねに自らこの念をなす 何をもってか衆生をして 無上道に入らしめ 速やかに仏身を成就するかと

これは、お釈迦様が、つねに、今この時も、自分で自発的に、あなたを無上道に導こうと念じている、ということです
「救って欲しい」とお願いされたからではありません 
なんの条件もありません

塔を作って礼拝すると、自動的にお釈迦様の加持が得られ、菩提を証する、ということです

 
それで
3.の神力によって、「衆生を利益し、菩提心を発し、菩薩の行を修す」と

密教に三平等観という瞑想法があるのですが

我とホトケと平等
ホトケと衆生と平等
ゆえに、我と衆生と平等

ホトケが我を無条件に加持するのと同じように、ホトケは衆生を加持しています

我<----ホトケ---->衆生 =  我<----神力---->衆生

ですから、塔を礼拝すると、自分ばかりでなく、縁ある衆生にも利益がある、ということになります


4.塔を礼拝することによって「円寂なる平等大智に同入」するので「今まさに頂礼す」ということですね

もちろん、一番効果が期待できるのは、本物の仏舎利ですが、法界塔婆を礼拝することで、無条件にお釈迦様の加持を得て、選択的に利益を得ることができます

で、これ、どんな利益かというと、お釈迦様からくる神力ですから、お釈迦様の都合なのであって、我々が願っていることとは違います
お釈迦様は、我々が「仏身を成就する」ことを願っているのですから、当然、その目的に合った利益になります
そこを、勘違いしてる人が多いですね
拝む人に霊能力がある、とか、チャクラとかは関係ありません
無条件に、ホトケからくる神力です


偈文にホトケの力が込められていますから、きちんと拝めば、強力な神力が発動します
それで、平安時代から今日にいたるまで、宗派を問わず唱えられてきました
なかなか、こうして各宗派で用いられるというのはありません
普遍的な真実がある、ということですね


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