「宗教クライシス」要約

上田紀行著 岩波書店 \1,460+税 ISBN4-00-004431-1

要約 文責:瑞樹正哲


第1章 なぜ「現代」は「宗教」を求めるのか

1 20世紀という時代の異常性

地球上の全人口を一瞬にして滅ぼしうる兵器を人類が持つに至ったということは、人間の持つ「悪意」「憎悪」が大規模な暴力という形で発現しうる時代に我々が住んでいることを意味している。
人間の内なる「暴力性」が人類の滅亡の問題につながっている時代が20世紀である。人間の内面世界が地球大の大きさを持つに至ったともいえる。
それは、人類の「死」が現実の問題としてイメージされる時代になったということである。
この時代の日常性がそもそも異常であるのかもしれない。


2 相対化される人間

現代社会では、自分自身を「かけがえの無い」存在であると思えなくなっている。
自分自身を、外側から他との差としてか認識できないという自己認識である。
自己認識には、二つの方法がある。
第一は、「通時的な差異化」による方法である。すなわち、「昨日の私」と「明日の私」との比較を通じて、「現在の私」の位置を認識し、相対的な安定を得ようとする方法である。
高度成長時代には、「明日」はもっと物質的に豊かになり生活が向上するという時間的な差異化の「神話」が存在していた。
しかし、この「神話」は効力を失ってきた。物質的な飽和感が広がり、また経済的な成長が地球環境の破壊を招くという予感がおとずれ、「明日の私」に対して肯定的なイメージを持つことが難しくなり、この方法は破綻してしまった。

第二は、「共時的な差異化」による方法である。これは、同時代に生きる他者との比較を通して、自己の存在意義を確認するという方法である。
それが一番鮮明に現れているのが、教育の分野における「偏差値教育」である。それは他者との相対的な差異(例えば学歴、地位など)がある限りで個人の存在意義を認める方法であり、個人の内側からにじみ出てくるような個性そのものに存在意義を認めるようなものではない。人間は「交換可能」で「社会の歯車」となり「かけがえの無さ」は失われてしまう。

自分を他との差で認識する方法はとうに破綻してしまっている。


3 システム社会と「空しさ」

現代に生きる我々は「絶対的なもの」を求めている。
「貧・病・争」の問題から解放されても、生きることの「空しさ」からは解放されていない。
「無力感」の原因は自分の「外」だけではなく「内」にもある。自分を相対的に見るというプログラムを自分の存在に「内化」して、「外なる」システムと「内なる」システムが渾然一体となっているのが、現代のシステム社会の特徴である。
現代の管理社会は、ひとりひとりの「内なる管理システム」によって支えられている。空しさからの解放は内化されたシステムからの解放なしにはありえない。
その時に「宗教」が脱出口として見えてくるのである。


4 「本当の自分」と「孤独」

「本当の自分」を求めながら「孤独」に引き裂かれているのが現代の状況である。「絶対的な私」を探すことができないという絶望と、そこにしか解放の道はないというぎりぎりの希望と葛藤がある。


5 システムの脱出口としての「死」

システム社会の中では「敵」は見えてこない。
「死ぬ」こと自体がシステム社会から解放され「本当の自分」を獲得することとして受け取られている。
「死」という現象は我々のシステム社会が位置づけることのできない対象である。「死」に近づけば近づくほど、自分は悲惨になっていき、評価が下がるのが「通時的な差異化」の構造である。「通時的な差異化」の方法には「生」のみがあり「死」はもともと含まれていない。「死」は虚無としてしか語れない。
「共時的な差異化」の方法からも「死」の意味は見いだせない。「死」によって相対的な位置づけは破綻してしまう。

相対化による自己認識の方法では「死」は虚無の世界として残されることになる。「死」こそが現在のシステム社会の弱点であることを人々は無意識のうちに感知している。
死の意味を探求することが、八方塞がりのシステム社会を覆す予感がある。

人間を相対化するシステムからは「本当の私」と「死」の意味を得ることはできない。「宗教」こそが「絶対的な私」と「死」の意味を与えるものである。現代において「宗教」はまさに求められている。




第2章 宗教の人類史モデル

1 宗教への問い

宗教には「開くことと閉じること」の両面がある。
宗教には人々の持つ可能性を狭い領域に閉じこめてしまう「閉じる」面と、癒しと救済をもたらす「開く」面がある。
この両面は分離できるのだろうか?
宗教の相互理解は可能なのだろうか?


2 宗教の萌芽

人類史における宗教を考える際に、着目すべき点はおよそ三つである。
一つ目はネアンデルタール人の時代=宗教の萌芽の時代。
二つ目は狩猟採集社会と農耕社会における社会構造とそこでの意識の相違、および祭と儀礼の発生。
三つ目は産業社会の進展、共同体の崩壊と祭の衰微の時代である。

ネアンデルタール人において脳の進化によりシンボル能力が発生し、「死」の観念が成立したことで「死んでいない世界」と「死の世界」の二分法が発生した。「死」観念の成立は人類にとって「世界」の発生だった。死の儀礼を始めたとき、人類は「宗教」と「世界」を同時に獲得した。「宗教」は人間性の根元に存在している。


3 狩猟採集社会と農耕社会

狩猟採集社会は、社会分業がほとんどなく、貧富の差がなく、各人が政治的に平等であるので、「平和で平等」である。富をモノという形で増やすという発想がない。
農耕社会では定住化と食料貯蔵により、貧富の差が発生し、階層の差が生まれてくる。富と権力の増大を求めるために「差別と暴力」を開始する。
「同質性」を基盤とする狩猟採集社会から「差異化」を基盤とする農耕社会へ変化した。「差異化」の原型は農耕社会の開始により成立した。仲間とともに生きてきた人間は、敵に囲まれて生きることになってしまった。農耕社会は社会システムの中に社会自体を破壊するような力を内包している。

そこで祭によって社会の差異化を「ご破算」に社会全体を蘇らせようとした。祭は、ダンスや笑いなどによって地位を無化し、今を徹底し楽しむことにより、人々を開放感で満たし、「差異化」とは逆方向の「同一化」へ向かわせようとする。祭なしでは、差異化する社会は維持できない。祭によって「相剋生」を緩和し「共同性」を社会に確保するわけである。

農耕社会とは表層には「相剋生」の世界があり、祭の時示される深層に「共同性」の世界がある重層構造になっており、その間を行き来する、二分された社会だといえる。


4 産業社会と現代日本社会

現代社会は農耕社会が残存しながら、産業社会化が急速に進展しているプロセスの中にある。産業社会は差異化の構造をますます押し進め、歯止めのきかないものとする。地域共同体、地縁の崩壊は産業社会では同時に進行する必然的な流れといえる。「共同性」への回路が失われ、社会に生きるすべての隣人を潜在的な敵として生きる「相剋生」がむき出しになった社会である。

現代の宗教は、砂漠のような社会で孤独に存在している個人個人を地縁によらずに束ねていくものとして存在している。仏教は農耕社会において確立した構造から脱却できず、産業社会に適応したリニューアルができていない。葬式以外に儀礼の構造がなければ衰退していくのは当然である。

祭の復権は産業社会の中に農耕社会的な構造を復活させようとする方向での、問題解決の方向である。
もう一つの方向は個人主義の徹底である。これは「個人的な祭」の創造であるともいえる。

日本社会は高度なシステム社会であり、孤独な個を生み出している社会である。しかし、「個の確立」がなく、そこから回復するための「個人的な祭」の創造も阻害されている「出口なし」の構造をなしている。破綻した形態の社会であるが、見かけの豊かさがシステムの破綻を見えにくいものとしてきた。




第3章 宗教体験とはいかなる意識状態か

1 変容した意識状態

宗教のどのようなメカニズムが人々に「絶対的なもの」あたえるのだろうか?なぜ祭の中心には「霊的なもの」が存在しなければならないのか?

宗教体験が生じる意識状態を「変容した意識状態」(ASC)の一部としてとらえる見方が有力である。体験している主体が「いわくいいがたい」感覚を持ち、その意識状態が明らかに日常と異なっていることが当人、あるいは他者に認識されているような状態である。
宗教体験におけるASC状態は、神話的コスモロジーによって支えられている。つまり、神話的コスモロジーが存在することで、宗教体験はたんに日常意識からの逸脱ではなく、もう一つの世界における正当な体験として人々に認知されることが可能になるのである。


2 意識の層的構造と宗教現象

宗教体験はASCとコスモロジーが合体したものといえる。両者のうち、どちらが欠けていてもそれは宗教体験とはいえない。
霊的存在を知識として語る次元が表層の自我レベルとすれば、実際の体験は日常では隠されている深層レベルの体験だということになる。
表層意識は外界の事物の認識を基本機能とし、言語的で「頭」で理解するやりかたである。深層意識は外界に存在する事物とは対応しておらず、五感を使い切った「身体的」イメージの産出である。

表層意識は「差異化」の原理で構造化された「名詞的」な言語の世界であるが、深層意識では対象に近づき五感で感じ取り一体化するため他との比較もできず客観的認識は不可能である。
深層意識での認識は圧倒的リアリティーを持っているが、反省的思考は停止する。そのため儀礼などではエネルギーに重点を置いた言語が用いられる。

表層意識は自分自身をも外在する物として客観的、相対的に認識しようとする。そうすると、「かけがえの無さ」の感覚の喪失が起こってくる。
深層意識からの自己認識は自己の内奥から生成されるイメージと一体化しようとする。霊的世界とは、実はわれわれの内部に潜んでいる世界である。
実は日常世界の自我がいちばん遠くにあると理解している世界こそ、自分自身のいちばん内奥にある世界なのである。

ひとりの人間の中でも、表層意識での体験と深層意識での体験を統合するのは難しい。ましてや、他人の体験を理解するのは至難の業である。

宗教は私たちの日常の俗なる世界を、非日常の深層意識に対して開くものである。

表層意識の抑圧されたイメージは強さを増して深層意識の世界に送り込まれる。産業社会では、深層意識の抑圧的イメージがますます渦巻いているが、解放されずに蓄積されていると考えられる。

神話的コスモロジーと深層意識のイメージとの一体化は、共同体が保持しているコスモロジーと深層意識の一体化であるから、「絶対的な私」の感覚を強烈に持ちながら、共同体とも絶対的なつながりを持っているという感覚へわれわれを開いていく。しかし、コスモロジーの行き先はあらかじめ決められているため、盲信へ閉じていく性格を持っている。
この両面性が、宗教の救済と暴力、解放と内閉の根元的原因である。


3 宗教体験とコスモロジー

深層意識でのイメージはコスモロジーがあらかじめなければ、体験とならず、他者とも共有できない。
宗教体験の核心には、神話的コスモロジーが必要である。コスモロジーが宗教体験を可能にし、人間どうしの根元的なつながりを生み出すが、ひとつの限定された物語に収束されてしまうが故に、他の宗教や文化における根元的なつながりを理解できないのである。
この宗教におけるパラドックスを見ることなしに宗教の相互理解はできない。




第4章 21世紀の宗教=社会ヴィジョン

1 多様性に開かれた社会を目指して

社会において何よりも求められているのが、本来の意味での「多様性」である。

表層意識における、差異化が意味をもたらす構造のみを「合理的」と信じて疑わないプログラムを我々は搭載しているが、それは、人間存在の根元的なエネルギー切れという、絶対的敗北状態をもたらす。
表層意識の「合理性」は自分自身を含め、すべてのものを相対化するが故に、存在の「かけがえの無さ」を見失わせてしまう。

社会の中で「あるがままの自分」を尊重することが必要である。それは、日常社会の中での深層意識との交流の場を確保していくということにはかならない。

宗教の核心は、世界の表層をタマネギの皮のようにどんどん剥いていったときに最後に残る芯の部分に「YES」と書いてあるのか、「NO」と書いてあるのかということである。

目的達成のための効率のみの追求を停止すれば多様性は自然に生まれてくる。
社会の変革には、「目に見える」世界での変革と、自分自身の内部に自分と触れ合う「拠りどころ」を持ち、それによって行動が支えられている内的プロセスが必要である。宗教がこの「内的プロセス」を担うことが求められている。
それは、日常世界との接点をダイナミックに持ちながら、なおかつ日常世界のシステムをいったん停止することで、自己反省と自己の再創造のプロセスを確保するような場としての宗教である。


2 21世紀の宗教像

1)信者の囲い込みとしての宗教から、より開かれた宗教への転換。
地球的な視野から、自分の宗教を捉え直すことが求められている。

2)霊的世界の日常世界化からの脱皮。
宗教という霊的世界に、日常世界の構造を持ち込むことで、システム社会から逃れた場所がまたシステム社会であるという、出口なしの絶望的事態になることを自覚しなければならない。

3)人間性の奥深さ、多様性を探求する場としての宗教への転換。
宗教はひとつの世界観を与えるものから、むしろ探求しつくすことのできない世界の奥深さを開示するものへ転換するべきである。
「科学の知」の正解はひとつであるといった世界の捉え方が「モノ」には適応できるが「存在」の深さにには到達できないからこそ宗教が求められていることを認識しなければならない。世界の多様な豊かさと向かい合う場としてこそ、宗教の存在する意義がある。

現代の宗教自体が20世紀のシステム社会に取り込まれてしまっている。宗教が霊的な社会をテーマにした高度なシステム社会になってしまっている。宗教教団がシステム社会化すれば本来の意味での「宗教性」は後退してしまう。


3 原風景としての宗教

宗教自体のもつ問題点に対する洞察力がなければならない。

宗教者や指導者への「おすがり」的依存と「つながり」の限定の危険性を自覚しなければならない。

われわれひとりひとりが他者との深いつながりを実感しながら自分自身と世界の探求をのびのび行える場であることが、魅力的な宗教の条件である。それでこそ、本来の意味でのシステム社会の救いとなるはずである。

新しいコスモロジーは、多様性に開かれ、のびやかにわれわれを活かしていくものになるだろう。

どの宗教も反目し合うことがない、根元的な拠りどころは、われわれが「地球内存在」であるということである。

よりシンプルな、われわれの中にある原風景のような、誰にとっても懐かしく感じられる、新たなコスモロジーを創造することが求められている。

以上



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