御廟所普請の御用石

 長保寺の霊域には歴代の藩侯の廟が並んでいる。この廟に使用されている石材はどこから割り出され、どのようにして運ばれてきたのか明らかにされていない。尾鷲組大庄屋記録の『御用留』(三重県尾鷲市市立図書館所蔵文書)によると、宝暦8年(1758)に、奥熊野郡尾鷲組梶賀浦と曽根浦の山から切り出されたことが記されている。その記録にはだれの墓の石材であったか記されていないが、6代藩主宗直の歿年が宝暦7年2月であり(『南紀徳川史』巻之十二)、たぶん宗直(大慧院)のものでなかったかと思われる。
 「浜中御用石割り出しならびに海士郡下津浦へ積廻し候儀につき、添奉行中より別紙のとおり申し来り……」という書状が、戸田孫左衛門から届けられている。そして曽根、梶賀浦へは、戸田孫右衛門、服部八郎右衛門、和田伊右衛門の3人の役人が出張してきた。この役人から尾鷲組大庄屋や両村の村役人へは、用石の割り出しについての指示があった。「諸職人御用人足ならびにお調物船などの儀につき、ご用がかりの役人より申出次第あと方の趣をもってさしつかえこれなきよう…」とある。この時に鍜治吹子一組が必要であって、石屋六兵衛より借用していた。また石材の輸送についても「大切なる石の儀に候へば、積舟の儀ずいぶん吟味致され、慥なる船を選び相廻り……」とあって、下津浦までかなりの遠距離輸送になるだけに、「もし時気などの節はご用船気をつけ湊より船を出し候よう浦々庄屋どもへ申しつけ」というおふれを紀伊半島の浦々の庄屋たちへも出していた。 
 ついで明和2年(1765)5月にも曽根、梶賀両浦でご用石が割り出された。これは菩提心院(7代宗将)のご墓所の普請に使う石材であった(尾鷲組大庄屋記録)。宗将は明和2年2月26日に江戸赤坂邸で逝去した年46才であったが、3月2日に江戸谷中感応寺で火葬し、11日に柩が江戸を発して長保寺で埋葬している(『南紀徳川史』巻之十二)。「浜中長保寺、菩提心院様御廟所御普請御用の石、奥熊野曽根梶賀浦山にてこのたび割り出し申す筈につき、別紙の役人、近々彼地へ差遣候」とあって、菩提心院の御墓所普請がはじまった。
 大庄屋や村役人、また石材の割り出し作業に参加する諸職人へ入山の申つけを行った。和歌山から両浦へ役人が出張していた。
 ご用石は下津浦まで積み回すために紀伊半島の沿岸の浦々すべて厳重な警戒のもとですすめられた。ご用石を運んだ回船は、大川浦の専蔵船、林太夫船、彦三郎船と、梶賀浦の嘉右衛門船、五左衛門船などがあった。ご用石の船積みが終わって出帆がなされる時に、曽根浦、梶賀浦より各浦々へ回状が発せられた。「船数も有之候事に候へば、猶おのおのより船手をも吟味手を詰め、運賃銀の儀は申すに及ばず、そのほか万端申あわされ……」とあって、それぞれの運送回船へ対する要望もきびしかったと思われる。ご用石の運搬はこの年の7月ごろ行われており下津浦まで届けられた。そこから長保寺までを運んだのであるが、加茂組の農民が負担することが多かったのではなかろうか。



下津町史 通史編より