10代 治宝
明和8年(1771)6月18日江戸麹町屋敷にて重倫二男として生まれる。幼名は岩千代と称し、安永6年(1777)8月16日治貞の養子となり、天明2年(1782)3月7日元服、家治将軍より一字拝領して常陸介治宝と改名す。同3年(1783)従三位左近衛権中将に叙任され、天明7年(1787)11月27日将軍家治養女種姫(貞恭院)と御婚礼。寛政元年(1789)12月2日治貞薨去により19才にて紀州徳川家を相続す。同月19日参議左近衛権中将、同日宰相に任ぜらる。寛政3年(1791)7月朔日権中納言に任官。文化13年(1816)5月朔日従二位大納言に任叙され、文政7年(1824)6月6日斉順に家督を譲り隠居す。天保3年(1832)3月5日正二位に叙せられる。天保8年(1837)10月28日従一位に叙任されてその日「前大納言様事、一位様と可奉称」と家中に布達されている。
公は任期中には「国学研究」を始め「有職故実」の道を究められ、藩士鎌垣春岡を京都に派遣し研究させている。又聖廟を設け、春秋二期に釈典の礼挙行を初められ、医学館を開設し、郷土医師の教養を高め江戸では明教館、伊勢に松坂学校を興し、8才以上30才に至る藩士子弟の就学を義務づけ、極めて学問の奨励に力を尽くされた。文化3年(1806)には仁井田好古、本居大平をして続風土記の纂輯に従事させ、後紀伊国名所図絵後編を加納諸平、岩橋広隆等に新撰させた。御自身も文化9年(1812)諸般の格式典礼を記した「秘鑑」を一巻著書されて家中一般に示し、威儀体裁を重んずるにも大いに力を入れられる一方、文雅を尊び喜んで趣味を生かされ、特に「茶道」にては藩祖頼宣以来代々茶頭表千家の9代千宗左迫ケ々斉浮ノつき蘊奥を極められ秘訳の皆伝を受けられた、天保7年(1836)4月表千家10代吸江斉に台子真手前の伝授をなされ表千家流を相続させられし大茶人で有名である。その他「書」「画」「音楽」にと多芸多能で特に焼物では、「瑞芝焼」「南紀男山窯」を保護奨励すると共に西浜御殿に窯を築いて、京都より名工を招き「御庭焼」「偕楽園製」を焼かせた。亦御自ら格調高き御名品の数多くを残されし故に、紀州では得難い大切なる宝器と尊び現在大切に保存されている。西陣より職工を呼び御庭にて織らせ、又、刀師も呼んで刀まで造らせる多趣味なるが故に、紀州文化芸術を大きく発展させた偉大なる功績は歴代藩主の中でも群を抜いて実上芸術の権化ともいう人であった。嘉永6年(1853)正月20日83才にて病で薨去す。{実は嘉永5年(1852)12月7日82才にて薨去す}下津の長保寺に葬られる。
法号 舜恭院殿一品前亜相大光正受源恭公