11代 斉順
享和元年(1801)9月9日11代将軍家斉の第7男として江戸城本丸にて生まれる、幼名は菊千代。文化7年(1810)11月1日3万俵御賄料頂き、同15日清水屋形へ移る。同12年(1815)2月9日元服し従三位左近衛中将に任叙され、清水式部郷斉順と称す。同13年(1816)6月3日豊姫の聟養子に仰出られる、同年7月11日婚姻整う。文政2年(1819)11月15日宰相に任官。文政7年(1824)6月6日治宝公が隠居し斉順24才にて家督相続す。同年12月1日中納言に任官。同11年(1828)2月15日従二位大納言に任叙され、天保8年(1837)8月23日正二位に叙せらる。
公治世20年その間執政。行政には領民を愛し、しばしば孝子に賞金を与え、父母に孝養を範とした世は泰平にして、公は将軍の公子故家格儀式の威厳を競い、士は庶下に驕奢華侈を誇るので家臣の屋敷を改良し道幅を拡げて、武家屋敷の面目を一新し江戸の町並のようにした。文政10年(1827)11月25日有田の広、井関村に崎山利兵衛の請により南紀男山陶器製造場の設立を許可す。天保3年(1832)12月朔日湊御殿地鎮執行。天保5年(1834)5月11日湊御殿へ引移り(治宝との政務の意見の相違ありて)湊御殿にて政務を司る。湊御殿の構造は大城に擬し、愛玩数千珍禽佳鳥多く豪華なる御殿であった。また清寧軒の楽窯を築いて陶器も製作し風雅を楽しんだが、弘化3年(1846)5月8日に46才にて薨去す。下津の長保寺に葬られる。
法号 顕龍院殿二品前亜相恭譲圓輝大居士