14代 茂承 

 弘化元年、天保15年(1844)正月13日西條藩主松平左京大夫頼学の7男として江戸渋谷屋敷にて生まれる、幼名は孝吉。弘化3年6月24日賢吉と改める。安政5年(1858)慶福大統を嗣ぐために紀州徳川家を相続す。
 安政6年(1859)10月13日元服して一字御字を賜り茂承と改める。従三位宰相中将兼任す。同年12月朔日中納言に任官し、同年12月6日伏見宮邦家親王御女倫宮則子と縁組す。
 水野土佐守、安藤飛弾守達で政務を助け藩政をとり行うが、時恰も維新前後の激動期にあたり藩政も多事多端で幾多の大問題を抱えこんでいた。嘉永6年(1853)アメリカが図書を呈して通商を乞う。幕府は之を専決せず朝廷を仰ぐに至り、攘夷論高まり朝議これに傾き、幕府決断にせまられ、安政5年(1858)6月井伊大老は果断を以て假條約を締結す。世論喧噪となり井伊大老が反対党撲滅にのり出し、安政の大獄となる。故に水戸浪士の憤激は桜田門外の変となる。時に水野土佐守新宮に閉居を命ぜられその他藩中の重任者多数もその職を免ぜられた。安政6年(1859)コレラの大流行に始まり大和騒動の出兵、再度に亘る長州征伐への出兵、勤応派と幕府派の対立、追廻門の変、紀州藩明光丸と土佐藩の伊呂波丸の衝突事件等で財政極度に窮乏。新政府より紀州藩へ嫌疑等その他多くの難問題山積され、茂承の在封11年間は苦心参憺そのものであった。
 明治2年(1869)6月17日和歌山藩知事となり、同4年(1871)7月14日致職し、後東京府華族に列せられた。明治6年(1873)皇城炎上の際に赤坂邸を献納し同年7月その賞として金3萬円下賜される。同8年(1875)10月和歌山学校資金として金3萬円寄附、その賞として金盃贈られる。同10年(1877)特旨を以て従二位に叙せられる。同17年(1884)7月侯爵を授けられる。その他公共のため屡々莫大な金子を寄附、それによりて金盃を下賜されたこと数知れずと伝えられる。明治39年(1906)8月20日病る。特旨を以て従一位勲三等に叙せられ同日薨去す、享年63才。下津の菩提寺長保寺に葬られる。

  法号 慈承院殿剛健日純大居士




木国文化財協会・会長  西本正治