8代 重倫
延享3年(1746)2月28日江戸上屋敷にて宗将の嫡子(実は二男)として生まれる、幼名粂之丞後岩千代と称す。
宝暦5年(1755)11月28日元服して常陸介と改め一字拝領にて重倫と称す。宝暦7年(1757)12月1日従四位下左近衛権中将に叙任即日従三位に叙せられる。明和2年(1765)3月29日20才にて宗将の遺領を相続し藩政につく。同年12月15日参議、宰相任官。
明和4年(1767)12月1日権中納言に任ぜられるが、癪気の病にて又性質勇豪その行い狂暴にて怒ると家臣妃妾と言えども見境いなく手打ちにしたと伝えられている。江戸麹町の屋敷にて燐家の松平某邸の高楼で毎夕一人の婦人が夕涼みをしているのを見て常に我が屋敷を見下し嘲笑しているようだと怒って、ある日自ら鉄砲にてこれを撃ち殺してしまった。これが幕府に知れ安永4年(1775)2月3日治世11年30才にて狂暴の故をもって隠居を命ぜられ剃髪して太真と号した。しかし、その挙動狂暴であったが、母に対するときは人が変わったように従順になり孝行心も人一倍強かったと伝う。又識見も秀で、文化時代ロシヤ軍艦が来航したとき諸候に命じて武備を強化させたり、国元においても常に忠義と言うのは単に主君に仕えるのみでなく、外国船が近海に迫り国家に事あるときは速やかに城を出て大阪城に入り、西国の諸大名を集めて皇室を守り、幕府が勤皇の志の強いことを示すべきである、それが祖先に報い、又幕府に尽す道であるといって家臣達を感服させたと言われている。
世に大殿様と称されたが文政12年(1829)6月2日荒浜御殿にて84才の天寿を全うした。下津の長保寺に葬られる、従三位中納言。
法号 観自在院殿三品前黄門太真