2代 光貞
寛永3年(1626)丙寅12月11日和歌山城に於いて頼宣の嫡子として生まれる。幼名長福丸、寛文9年(1632)7月7日元服、賜名光貞、同10年9月5日叙従四位下、任常陸介。寛永17年(1640)3月4日任右近衛中将、即日転任参議、同年7月11日叙従三位。
明暦3年(1657)11月26日、二品親王伏見宮貞清王女安宮天真夫人と御婚礼、寛文7年(1667)5月22日、42才にして襲嗣し、藩政に意を注ぎ、寛文8年(1668)法令27箇条を発布し、善政を敷いたので領民はその徳を慕ったという。同年12月、中納言に任官、寛文9年(1669)正月正三位に叙せられる。
光貞人となり秀頴にして剛勇、父頼宣にならい武を尚び、又文学を好み、初めて明律学をとり入れ、儒臣に命じて律書を講じ、明律を訳せしめ、本藩刑法の基をつくった。又、丹青の嗜み深く、狩野興益、狩野探幽に教えをうけて水墨画を能くす。
元禄3年(1690)5月、従二位権大納言に任官す。治世32年に亘り
、意を藩政にそそぎ、領内誠に善く治まり、領民すべからくその徳を敬慕した。元禄11年(1698)4月22日73才で致職し、湊村の別館に隠居し老を養った。元禄15年(1702)徳川対山と唱えるよう仰せ出でられる。宝永2年(1705)8月8日、享年80をもって薨去す。菩提寺下津の長保寺に葬られる。天保3年(1832)3月5日、従一位追贈される。
法号 清渓院殿二品前亜相源泉尊儀